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1.使用人の幸福(後)

「私のような日陰者に、お嬢様は無邪気に接してくださいました。御側に仕えるのに、このようなものは必要ないと思ったのですが」


 母屋を出て、月明りを頼りに別館へと向かう。

 佐崎を含めた一握りの者以外は、敷地内にある使用人たちのための建物に私室があるのだ。

「少々我儘なところもあられますが、それもまた愛らしい。あと数年も経てば立派な淑女としていずこかへ嫁がれる。その日まで精一杯お仕えし、微力ながらご成長をお助けできればと思っていたのですが」


 その姿を近くで見守ることこそ、使用人の幸福であると佐崎は考えている。

 故に、それを邪魔することは許されぬ。


「津賀野さん。夜分に申し訳ありませんが、少々よろしいでしょうか」

 使用人が使う別館の廊下に灯りは無い。だが、ガラス窓のおかげで外の月明りが多少は入る。佐崎にはこれで充分だった。

 目的の部屋の前で声をかけると、返事はすぐに聞こえる。

「佐崎さんですか。少々お待ちください。人前に出られる格好ではございませんので」


 帰ってきたのはまだ幼さの残る女性の声。

「急ぎません。突然のことですし、お休みになられていてもおかしくない時間ですから」

 扉の向こうで何かを動かす音が聞こえるのに耳を傾けながら、佐崎は懐に手を差し入れて武器に触れた。

 彼は、津賀野を怪しんでいる。


 女中。昨今ではメイドと呼ばれ、洋装を纏った者たちが他家と同様にこの屋敷でも複数人が詰めている。多くは他家からの行儀見習いだが、中には維新の混乱で夫を失った婦人もいる。

 その中で、津賀野ひろという一人の女性がいる。

 十代半ばの若さながら、仕事をそつなくこなし、身のこなしは軽やか。周囲の者たちからは元気な娘だという評価であったが……佐崎は彼女を武門の人間だと見ていた。


 彼女が時折緑小路へ向ける視線はいやに鋭く、敬慕の情ではない何か厳しいものがあることにも気づいている。

 殺意ではないと感じていたが、似たような眼をした連中を佐崎は以前に何度も見たことがあった。

 その連中は悉く維新の動乱で死んだのだが。


 津賀野は着替えが必要であると言ったが、これは嘘だと佐崎は気づいていた。

 室内から聞こえるのは衣擦れの音ではない。何か硬質な物を取り出す音と、やや強い息吹。武器を取り出し、行燈を消したのだと彼は推測する。

 であれば、津賀野の狙いは明白である。

「どうぞ」


 ややあって、津賀野の声が聞こえた。

 佐崎は「では、失礼します」とドアノブに手をかけ、薄く扉を開く。

 ほんの一寸程度の隙間が出来た瞬間であった。

 ひゅ、と微かな音を立てて内側から飛び出してきた何か。

 佐崎はこれを難なく躱し、一気に扉を開いて中へと踏み込んだ。


「ふむ。じょうですか」

「ちっ!」

 するりと入り込んだ佐崎に対し、暗い室内へと溶け込むように後退った津賀野は、舌打ちをして杖を構えなおした。

 彼女が持っているのは、神道夢想流などが使う四尺ほどの樫の棒である。円柱形のシンプルな木の棒であるが、熟達した者が使えば恐ろしい武器となる。


「杖術は変幻自在。突かば槍、払えば薙刀、持たば太刀などと言いますが、実際の遣い手を見るのは初めてですね」

 維新の頃は二本差しで刀での斬り合いが多く、槍を使う者もいたが、殺傷能力の低い武器を使う者は少なかった、と佐崎は記憶している。

 ましてや、戦場いくさばであれば猶更。銃砲が戦場の主役であり、矢弾尽きてようやく斬り合いとなる。


「油断はできませんが」

「……やはり、ただの執事ではなかったのですね」

 右八相に構え、手槍のごとく杖を構える津賀野は吐き捨てるように言った。

 対して、右手で短刀を逆手に持った佐崎は、無表情に距離を詰めていく。

「せいっ!」

 聞きようによっては爽やかにも聞こえる掛け声と共に突きを繰り出した津賀野は、避けられたと見るや、すぐさま側頭部へと打撃へと切り替えた。


 しかし、当たらない。

 さらに距離を詰めた佐崎に足払いを喰らい、成す術もなく倒れたところを馬乗りに押さえられ、首筋に刃を向けられてしまった。

 辛うじて、手元に引き戻した杖で刃を止めてはいるが、膂力の差は歴然としている。

 細い首にじわじわと刃が近づく間、津賀野の視線は暗い目をした佐崎を睨みつけていた。


「直ぐには殺さん。聞きたいことがある」

 皮膚に触れる直前で刃を止めた佐崎が言うと、津賀野も声を絞り出した。

「わたしも、あなたに言うべきことがあります」

 互いの視線が交差し、一瞬の油断も許さぬ緊張の空気の中、刃を止める杖の軋みだけが室内に響いている。

 そして、お互いの口から全く同じ言葉が放たれた。


「「お嬢様はどこだ」」


 二人は目を見開き、何が起きたかを理解するのにやや時間がかかってしまった。

「何を言っている」

「あなたこそ……お嬢様を誘拐したのはあなたでは?」

「なんと……」

 佐崎は眩暈を感じてよろよろと立ち上がり、溜息と共に小刀を懐に納めた。津賀野は確かに普通の女中ではなかったが、下手人でもなかったのだ。


「失礼を……危うく以前と同じ過ちを犯すところでした」

「いえ、わたしも同じ勘違いをしていたようです」。

 津賀野も立ち上がり、杖を右腕に挟むように抱えたまま、両手でメイド服の裾を叩いて埃を落とした。視線は警戒を解かぬまま佐崎を見据えている。

 佐崎も上着の崩れを正す。


「申し訳ありません。お嬢様を誘拐した一味の者かと」

「わたしは……詳しくは言えませんが、政府筋から派遣された者です。もしかして、あなたもですか」

「私は単なる執事です。それ以上でもそれ以下でもありません」

「とても信じられませんが……」


 暗闇での戦闘に慣れていること。奇妙に歪んだ小刀、ただの執事ではありえない、と。

 津賀野の疑いに、佐崎は嘆息する。

「私に話せる過去などありません。過去の私は、御一新で死にました。今はお嬢様の救助を願う中年の執事でございます」

 佐崎は普段の穏やかな表情へと戻り、津賀野へ一礼する。


「此度は誠にご迷惑をおかけいたしました。それでは」

「待ってください、佐崎さん」

「……何でしょう」

「お嬢様を探しに行くのでしょう。同行させていただけませんか」

「同行? なぜ、政府の人間であるあなたが」


 佐崎が急な提案に驚いていると、彼女は続きを話し始める。

「今回の件、警察も信用できない点があります。ただ、今は調査室も人手が足りません。わたしと同じようにお嬢様の身を案じておられるなら、協力すべきだと思いませんか」

「警察が……。ですが、あなたを信用するに足る理由が私にはありませんが」

「そうかも知れませんが、何も手掛かりが無いよりは役に立つと思いますよ」


 佐崎は少しだけ考え、「わかりました」と返した。

「ありがとうございます。それと一つだけ、聞きたいことが」

 緊張した様子で津賀野が口にした通り名は、佐崎にとってどういうものなのか。

「幕末の頃、『黒旋風くろつむじ』なる人斬りがいたと聞いたことがあります。音もなく近づき喉笛を切り裂く技で開国派の要人を始末し……」


 話しながら行灯を点け、佐崎の顔を見て声を詰まらせた。

 泣き顔とも笑い顔ともつかない表情には、あふれ出しそうな感情を辛うじて押し止めているような、危うさが見える。

「……そんなものは江戸時代のおとぎ話です。そう、あんな男は明治の世には必要ありません。ですがもし、万が一、お嬢様の身に何かあったならば……」


 咳払いと共に左手で顔を覆った佐崎は、瞬時に元の穏やかな表情へと戻った。

 それを見た津賀野は、むしろ怯えた様子を見せている。

「さ、過去の亡霊が出番を迎えないうちに、動きましょう」

「わ、わかりました」

「敵が何者であろうと、容赦はしません。津賀野さん、協力はありがたいですが、何があろうと止めないでください」


 佐崎は部屋を出ながら、津賀野へ釘を刺した。

「私の今はただの執事です。そうであることに喜びを感じているただの男です。この喜びを形作ってくださった旦那様とお嬢様のために、私の持つものは全て捧げる覚悟があります」

 津賀野の反応を佐崎は待たない。これは単なる決意表明であり、一方的な宣言である。

「私が思うに、使用人の幸福はそういうものなのでしょう」


 穏やかでかけがえのない日常を取り戻すため、佐崎は動き始めた。


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