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32.誘い出しの香り

 襲撃に備え、緊張感のある屋敷の中にあって、自室にて短い休息を取っていた佐崎。

 夕暮れが訪れる前の室内は、少しだけ開けた木戸から入る僅かな光だけが頼りであったが、佐崎は少しも気にならなかった。

 室内に何があり、どのように置かれているかは全て頭の中にある。

 例え深夜の闇の中であっても、寝台から飛び出して武器を取り、扉を開けることは造作もない。


 しかし、佐崎は落ち着かなかった。

 身体を休めると同時に、精神も休息が必要であると頭では理解していたが、敵の出方を待たねばならぬ状況は、彼が想像していたよりも精神をすり減らしていたらしい。

 屋敷の門は固く閉ざし、津賀野を中心とした使用人たちが厳しく見張りをしているが、それでも佐崎の心は落ち着かない。


 津賀野たちを信頼していないわけではない。その実力はよくわかっているし、少なくとも何かあればすぐに自分へ知らせが来るのは間違いない。

 それでも、主人不在のこの家を、守り切れるだろうかと不安は拭えない。

「私は、自分が思っていたよりも繊細だったようです」

 あるいは、老いであったかも知れない。


 この数日の疲労も手伝って、若干気が弱くなっているのを自覚していた佐崎は、頭の中を整理していた。

 芸妓を殺した下手人がつけていたという香り。

「血の臭いを誤魔化す必要がある、わけですね」

 わざわざそのような香油を付けなければならない立場にある。表向きの仕事を持っている人物か。


 考え事をしていると、ほどなく佐崎を呼びに女中の一人がやってきた。

「お休みのところすみません。佐崎さんを訪ねてこられた方がいらっしゃいまして」

「私を、ですか」

「六座家の方とのことでしたが……」

「ふむ……お会いしましょう」


 門の外で待たせているということだったので、手早く身支度を済ませた佐崎は、呼びに来た女中にはついて来なくても良いと伝えた。

 これが襲撃の呼び水であれば、門のところに居合わせると危険であると判断したのだ。

「もし何かあれば、大声で呼びます。その際は、手配通りにお嬢様を避難させてください」

 指示を受けた女中が頷いてその場を離れると、佐崎は懐の小刀を確認し、門の前に立つ。


 夕暮れに彩られた木製の門扉は、朱く輝いているように見えるが、その向こうにいるであろう人物の不穏な空気を隠しきれていなかった。

 佐崎はこの時点で相手を疑っている。

「お待たせいたしました。六座様の使いの方と伺いましたが」

「ええ、その通りです」


 通用門の扉を挟んで聞こえてくる声は、やはり鈴木の物ではなかった。

 彼以外が来る可能性は当然あるのだが、今この状況で呼びつける理由が不明であった。

「失礼ながら、ご用件を先に伺えますか」

「お迎えに上がりました次第です。当家にて確認していただきたい物がございまして」

「確認、ですか」


 不自然である。

 現場検証を依頼するために警官が来るのであれば話は分かるが、六座家の使用人を寄越すことが。

 佐崎は慎重に気配を探ったが、扉の向こうにいるのは一人だけのようだ。

 近くに伏せている可能性もあるが、ここは相手の誘いに乗ることにした。


「わかりました。参りましょう」

「ありがとうございます」

 通用口を抜けた先に居たのは、やはり一人だけであった。

 佐崎よりやや年かさで、顔に傷のある男が一人。

「では、こちらへ」


 この時点で、これは確実に六座家の使いではないとわかる。使用人とはいえ、他家の執事を呼びだすのに、馬車も籠も用意していないのは、あり得ないのだ。

 使いの男は刀を帯びているわけではないが、芬々たる殺意が隠しきれていない。

 剥き出しの前腕は良く日に焼けていて、鍛えているのが良くわかる筋肉の緊張がある。

 ピクリと動く筋肉の繊維が、隙あらば佐崎へと向けられるのは間違いない。


「……どちらへ、向かうのです」

「へい、少々歩いたところなのですが、間もなくですよ」

 先導しながらちらりと佐崎を見遣った男は、曖昧な答えを返した。

 行き先はすでに六座家の方向からずれている。

 日が沈みかけた町には、家路に急ぐ人々の姿があり、それらを注意深く観察しているが、怪しい人物は交ざっていない。


「さ、こちらへ」

 長屋の一軒に促す男に、佐崎は妙におかしみを感じていた。もう隠す気はないのではないか、と。

 室内からは複数の人物の気配が漂う。

「どうぞ、お先に」

「いや、いや。お客様をお先にお通ししませんと……」


 罠の予感があった。

 佐崎は使いの男に向かって先に入るよう促したが、男は固辞する。

 その表情には焦りと、恐れが見える。先に入ってはまずい、とわかっているのだ。

「そうですか。では、こうしましょう」

 言い終わる前に扉の前に立った佐崎の腕が使いの男の奥襟を掴む。


「何を……」

 引き戸を開けると同時に、ぐい、と引き込んだ男の身体を先に室内へと送り込む。

「おい! 待て! 俺だ!」

 慌てた様子で両手を振り回す男を盾にして室内の入り口に立つと、どん、どん、といくつかの衝撃が佐崎の手に伝わり、男はぐったりと手足の力を失った。


「短弓とは、随分なお出迎えですな」

 息絶えた男の死体を室内へ放ると同時に戸を閉めると、引き戸からいくつもの矢じりが生えてきた。

「おのれ!」

 いくつもの声が聞こえると同時に、何かを落とし、鞘を走る刃の音が響く。短弓を捨て、刀を抜いたのだろう。


「六人ですか。さて、用件を伺いましょうか」

 建物から距離を取ったところで、建物からぞろぞろと出てきた人数を、佐崎はあえて数えて見せた。

「お前の命。それのみよ」

「それはそれは。随分と高望みをするものですね」


 佐崎は右手に小刀を持ち、やや腰を落として身構える。

「これでも忙しい身でしてね。屋敷に戻らねばなりません。……死にたくないのであれば、特別に見逃して差し上げます。どこへなりと逃げ去りなさい」

 挑発する。

 急ぎ屋敷に戻りたいのは事実。睨みあいが続くのは避けたかった。


「ほざけ!」

 案の定、男たちは刀を振りかざして距離を詰めてきた。

 三人が前に出て、残りが後ろから隙を狙う立ち回りは、連中が似たようなことを続けて慣れていることを言外に表している。

「あなたたちも、幕末の亡霊ですか」


 大上段の一撃を逸らすと、脇から突きが伸びてくる。

 これをひらりと下がって裂けたところに、もう一人が猛然と迫ってきた。

「良く連携できています。ですが」

 正眼の構えから突きを繰り出してきた至近の男に、佐崎は足払いをかけた。

 もんどりうって転がった男は、立ち上がる間もなく首筋を踏みつけられて気絶した。


「個々の技量が足りませんな」

 敵を踏み越え、一人の手首を切り裂き、叫び声を聞く前に顎を強かに殴りつけてこれも黙らせる。

 そして、また一人も一刀で斬り捨てた。

 これで、三人。


「時間を稼ぐつもりでしたら、無駄ですよ」

「……お見通しってわけか。だが、こちらもそう易々とやられてやる義理はないのでな」

「私も同じです」

 風切り音が聞こえると同時に、佐崎は首を軽く傾けた。

 耳元を、矢が通り抜けていく。


 佐崎の手が素早く動き、小刀を投擲。

「ぎゃっ!」

 と、短い悲鳴が先ほどの家の中から響いた。

 木戸の隙間から入った小刀が、矢を放った相手を仕留めたのだ。

「……気づいていたか」


 あえて、六人と佐崎が声に出したのは、潜んでいる弓手に気付いていないふりをするためだった。

 実際には木戸の隙間から様子を伺っているのがわかっていたのだが、油断させた方が動きがわかりやすいのだ。

 不意打ちをするにしても、詰めが甘い、と佐崎は呟いた。


「最初の案内人へ向けて放たれた矢の数と人数が合いませんでしたからね。わかりやすい方でしたよ」

「ちっ」

 舌打ちと共に、最奥で悠然と構えていた男が前に進み出た。

「お前たちの手には余る。下がっていろ」


 頭一つ身長の高い男は、刀を正眼からやや下げた構えをとり、佐崎の前に進み出た。

「……ここまでの相手とわかっていたなら、もっと慎重に準備しておくべきだったな」

「雇われた、というわけですか」

 投げた小刀の代わりにもう一振りを懐から取り出し、佐崎は頷いた。恐らくは、今回の件で不平士族たちも人数が減っているのだろう。


「なにかと絡んで来たので、随分と人数を斬りましたからね」

「慣れているわけだ。……佐崎、と言ったな。どうだ、俺たちと組まないか。華族に使えるより儲かるぞ」

「今更、金が欲しいとは思いませんね。六文銭だけあれば充分です」

 苦い顔をして、男は半歩、距離を詰めた。


「依頼人は、何者ですか」

「さあな。名は聞かないのが、俺たちの流儀だ」

 佐崎は、相手の腕前を見抜いていた。悪くない腕前だ。雉峰よりは、上だろう。

「あなたの名を、聞いておきましょうか」

「……須藤進と、今は名乗っている」


 聞いたことが無い名であったが、佐崎は須藤と名乗った相手から不平士族の持つような鬱憤ではなく、何やら落胆のような落ち着きを感じていた。

「俺は、金で人を殺めている」

「そのようで」

「だが、お前はどうも違うようだ。いわゆる、志士というやつか」


 須藤は佐崎のことを知らぬらしい。依頼人から名前だけを聞いていたのだろう。とすれば、いよいよ時間稼ぎのために雇われた可能性が高い。

 佐崎の心に、焦りが生まれる。

「……私は、その反対側に居た者ですよ」

「そうか。そういう奴が、そういう仕事をしている。そんなこともあるのだな」


 何やら納得した様子を見せた須藤は、大きく息を吐いて、構えなおした。

「恨みはないが、金は貰っているのでな。斬らせてもらう」

「困りますので、抵抗させていただきます」

 二人の距離が、少しずつ、必殺の間合いへと近づいていく。

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