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5.本能寺の変

 11年前──京都、本能寺にて。


「──信長様っ! どうかお逃げくださいませ──! あなた様だけでも逃げ延びれば、まだ希望は残されます──!」

「──帰蝶。おぬしもわかっておろう……もはやこの本能寺、何処にも逃げ場などはない──」


 本能寺の仏堂の中央にてあぐらをかいて座る信長に対して帰蝶は懸命に訴えるも、信長は覚悟を決めたように動かなかった。

 火の手は凄まじい勢いで周囲を包み込み、信長の背後に鎮座する阿弥陀如来の鉄製の仏像すら溶かさんばかりの凄まじい熱風が二人に向かって吹き付けた。


「──帰蝶、すまぬな……これは明智の謀(はかりごと)を見抜けなんだ、我の落ち度によるものだ──」

「そんなことおっしゃらないでくださいませ、信長様──! ──悪いのは、あの明智ッ──憎き明智の光秀が──! ああッ──!」


 帰蝶は涙を流しながら信長の胸に倒れ込んだ。信長はそんな帰蝶の濡烏(ぬれがらす)のような長い黒髪を静かに撫でると、細い肩をグッ──と掴んで自身から引き離した。


「──帰蝶、介錯を頼む──」

「……ッ──!?」


 信長は帰蝶の黒い瞳を力強く見ながら低い声で告げると、着物の懐から短刀を取り出した。


「──帰蝶、おぬしは日ノ本一の薙刀の使い手だ。一思いに楽にしてくれ……頼むぞ──」


 信長にそう言われた帰蝶は、自身の傍らに置かれた薙刀をちらりと見た。そして信長の首を刎ねる自身の姿を想像して一気に顔から血の気が引いた。


「ッ──! ふ、不可能ございます──! 愛する信長様の首を刎ねるなど、私にはとても──ッ!」

「そうか……ならば我は、苦しみに身悶えしながら、ゆっくりと冥府魔道に堕ちるとしようか──」


 顔面蒼白で拒絶する帰蝶に対して、信長は自嘲しながらそう言うと、短刀の鞘を抜き捨てて、両手で構える。そして、刃の切っ先を己の左脇腹にあてがった。


「──人生五十年、これが天下人、織田信長の末路ならば──それもまた、"天晴れなり"かな──ふンぬッ──!!」

「──いやァァ嗚呼あッッ──!!」


 辞世の句を読んだ信長は覚悟を決めると、一息に左脇腹に短刀を深々と突き刺した。その壮絶な様を見た帰朝は気を失わんばかりに絶叫する。


「──うッ、ぐ……! ぐッ……! ぐぐっ……!!」

「……信長様……! 信長様ぁ……!」


 左脇腹から右脇腹に向かって、自らの手によって突き刺された短刀の刃がジリジリ──と動く、額に太い血管を走らせた信長は目が飛び出さんばかりに大きく見開き、砕けんばかりに歯を固く喰いしばった。

 そして信長は、絶望の表情を浮かべながら恐怖に後退りした帰蝶をじろりと見て告げた。


「──帰蝶……我、先に……冥府、魔道にて……おぬしを……待つ──」

「──……信長様ぁ──!」


 信長は苦痛にみじろぎ一つせず、あぐらをかいた体勢のまま、両手で短刀を力強く握りしめながら、壮絶に絶命した。


「……う、ううう……ううう──!!」


 命の光を完全に失った眼を見開き、物言わぬ亡骸と化した信長と帰蝶は対峙する。嗚咽を零しながら滂沱(ぼうだ)の涙を流し、背後から迫りくる苛烈な炎に身を焦がした。


「……これが、私の末路……これが……いやだ──!」


 帰蝶は悲鳴のような声を上げると首を横に振った。そして、自らの運命を否定するために、薙刀を握ってすっくと立ち上がる。


「──いやよ、いや……ッ! ──こんな終わりかた、絶対にいやァァアアッッ──!!」


 薙刀を両手で構えた帰蝶は、あぐらをかいた信長の亡骸に対して背中を向けると、仏堂に迫りくる猛火の中に自ら飛び込むように絶叫しながら駆け出した。


「──イヤァァ嗚呼アアッッ──!! ギャアアァァ嗚呼アッッ──!!」


 全身を業火に飲み込まれた帰蝶は咆哮のような絶叫を放ち、全力で薙刀を振るいながら炎の中を前進した。そして──。


「──ギャっ……!!」


 炎の中を我武者羅に突き進んだ帰蝶は、火の手がまだ回っていない中廊下に偶然飛び出して、勢いよく全身から倒れ込んで悲鳴を漏らした。

 くすぶる火の粉が着物に付きまとい、露出した肌が痛々しく黒焦げた帰蝶の耳元に聞き覚えのない老人のしゃがれ声が届いた。


「──かかかか……! これは、驚いた……! 帰蝶殿ではござらぬか──」

「……ひゅー……ひゅー……」


 廊下に倒れ伏した帰蝶の目は焼けただれて白濁しており何も見ることは出来ず、思い通りに動くことも喋ることも叶わかなった。

 そんな中、かろうじて耳だけは聞こえるが、老人の声に対して喉からかすかに空気の漏れる音を返すことしか出来なかった。


「──信長公に会いに来たのだが……そうか、もう終わったのだな──」


 老人は燃え盛る仏堂のほうをちらりと一瞥して呟くと、変わり果てた姿となった帰蝶を見下ろした。


「──お初にお目にかかるが、わしはおぬしのことをよく知っておる……わしの名は役小角(えんのおずぬ)。信長公の古い友人じゃよ──」


 役小角と名乗った老人の言葉はかすかに帰蝶の耳に入るが、しかし、死の暗闇が眼前まで迫っており、帰蝶からすればもはやどうでもよいことであった。

 先程まで感じていた火傷による全身の激痛すらも脳が感じない状態にまで極まり──もうすぐ私は死ぬのだ──と、ただそれだけが帰蝶にはわかった。


「──そうだのう。この"八天鬼薬"……信長公に飲ませようと思うたのだが……かかか、手遅れならば仕方があるまい──帰蝶殿。おぬし、まだ"生きたい"か──?」


 役小角は黒焦げた帰蝶の前にしゃがみ込むと、白装束の懐から取り出した"燃羅"と書かれた赤く輝く液体の入った小瓶を帰蝶の口元に寄せた。


「──ほれ、まだ"生きたい"か──? どうだ、答えよ──」

「──……い……き……た……い……」


 役小角の問いかけに、帰蝶は最後の力を振り絞って一つ一つの言葉を声に出すと、口の中にどろりとした液体が流れ込むのを感じた。

 帰蝶の喉は、その液体に対して本能的かつ受動的に動き、この世のものとは思えないおぞましい味を舌全体に感じながらゴクッゴクッ──と音を立てて飲み下していく。


「──帰蝶殿……そうよな。"鬼"の字を冠した"鬼蝶"という新しい名などは……どうじゃ──?」


 役小角の特徴的なしゃがれ声が、先ほどより良く鬼蝶の耳に聞こえた。

 そして、黒焦げていた皮膚がみるみるうちに再生していき、焦げた長い黒髪も新しく生え変わっていき、黒を通り越して深緑色に染まった。

 額の左側からは皮膚を割るようにして、赤く細い鋭利な角が反るようにズズズ──と伸びた。

 更に、白濁して失明していた瞳に光が戻っていく──視力が回復していくと同時に、黄色く染まっていく両方の瞳に真っ赤な"鬼"の文字がぼうっと浮かび上がった。


「──のう、"鬼"として生まれ変わった……"鬼蝶"殿よ──」


 満面の笑みを浮かべた役小角の顔が、鬼女と化した鬼蝶が目にした最初の光景であった──。

 そして現在──夜の帳が落ちた堺の居酒屋にて。


「──…………」

「──よう、姐さん、ここいらじゃ見ない顔だねぇ。どうだい、おいらが一杯おごろうか?」


 大通りに面して店を構えた居酒屋の店内に入ってきた鬼蝶に対して、酔っ払って顔を赤くした商人の男がへらへらと笑いながら声をかけた。


「おいらはよぉ、べっぴんさん見かけたらおごらないと気が済まない質でねぇ、へへへ──おーいオヤジ、こちらの姐さんに熱燗を一本やってくらい」


 提灯が並んで明るく照らされた外の大通りは人が多く、打ち鳴らされる太鼓と鉦の音がドンチャン、ドンチャン──と賑やかに響き、時おり笛の音も奏でられる陽気な祭り囃子の様相を呈していた。


「よう、姐さんも有名な堺の花祭りを楽しみに来たのかい?」

「──…………」


 赤い手ぬぐいを目深に被り、髪と目元を隠した鬼蝶は商人の男に対して一切の沈黙を貫いていた。

 顔の上半分を隠していたとしても白い肌と赤い唇から器量の良さは隠しきれず、優雅に舞うアゲハチョウが描かれた紫色の着物の仕立ての良さから良家の出であることも容易に見て取れた。


「へへ、おいらはよぉ、おっかさんに酒呑むなって言われてんだけど、花祭りの日だけは特別に許されてんだ、へへへ」


 商人は笑いながら言うと、おちょこをくいっと持ち上げて飲み干した。そうしていると、店主の男がお盆に乗せたとっくりとおちょこを鬼蝶の前に持ってくる。


「やっさん、この人におごるのかい?」

「そうだよ。え? 見りゃあわかるだろ? ──えらいべっぴんさんだよ、こいつぁ」


 商人は当然のようにそう言って返すと、店主はいぶかしげに鬼蝶の顔を覗き込んだ。


「おまえさん、なんだってぇ顔を隠してんだい?」

「──…………」


 店主の問いかけに対して鬼蝶は何も返さず、ただ、手ぬぐいから覗く黄色い目を動かして店内の人数を数えた。

 目の前に店主、左右一段高くなっている座敷の上に商人の男を含めた12人の客の姿。


「──……十三人」

「へ──?」


 やっと口を開いた鬼蝶から発せられた言葉に店主が気の抜けた声を漏らす。


「──あなたも入れて、丁度、十三人ね──」


 鬼蝶が赤い唇を裂いて妖しい笑みを浮かべた次の瞬間──店主の喉が深々と裂けて、天井までブシュウ──と真っ赤な鮮血が噴き上げた。

 床に落ちて乾いた音を立てるお盆、次いで地面に落ちて粉々に砕け散る熱燗の入ったとっくりとおちょこ。

 酒と血で濡れた床の上に、ドサッ──と絶望に両目を見開いた店主の亡骸が倒れ込んだ。


「……ひ、ひ……」


 顔の半分に鮮血の降りかかった商人の男が黒い目をまん丸に広げて引きつった声を漏らした。

 黒く長い左手の爪の先端からポタポタ──と血を垂らした鬼蝶は、右手で赤い手ぬぐいを頭からスッ──と取ると、深緑色の長い髪と額から伸びる赤い角を顕にした。

 くだらない会話で盛り上がっていた店内はシン──と静まり返り、客全員の視線が店の出入り口に立つ鬼蝶に向けられる。

 大通りの祭り囃子の騒がしさとは打って変わって、店内は時が止まったかのように凍りついた。


「……お……お、オニだ──」


 震える商人の男が鬼蝶を見ながら振り絞るように声に出した。

 鬼蝶は、商人の男をちらりと黄色い目で見ると妖艶にほほ笑みながら言った。


「──……お酒、おごってくれてありがとうございます──お礼にどうぞ、死んでくださいませ──♪」


 真っ赤な"鬼"の文字が浮かんだ両目をカッ──と見開き、思う存分に陰惨な笑みを浮かべた鬼蝶。

 黒く鋭い十本の鬼の爪が伸びた両手を顔の前で交差させると、商人に見せつけた。


「──ギアアアアアアッッ──!!」


 商人の断末魔の叫び、そして店内の客たちの叫びは、大通りの騒々しい祭り囃子と雑踏の音とにかき消された。

 時間にして一分弱の後──十三人の亡骸が倒れ伏す血まみれの居酒屋の店内にて、鬼蝶は両手の鬼の爪から血を滴らせ、白く美しい顔を火照らせながら満面の笑みを浮かべた。


「──快・楽──!!」


 鬼蝶は血の海となった床を踏みしめ、絶頂するかのように天に向かって叫び、唸った。


「ふふふ……さァて……騒ぎにならないうちに、仕込まないと……♪」


 そう言いながら鬼蝶は着物の懐に手を差し入れると役小角から受け取った黒い箱──"虫箱"を取り出した。


「さァ、お待ちかねのごはんの時間よ──みにくい虫ちゃんたち──♪」


 大量殺戮を経て上機嫌になった鬼蝶が"虫箱"の蓋を開けると、中には十三匹の赤い鬼醒虫が所狭しとうごめき、黒い口吻をガチガチ──と咬み鳴らして"餌はまだか"と開閉していた。

 鬼蝶はその中の一匹の尻尾をつまみ上げると、熱燗をおごった商人の男の顔の上にポトリ──と落とした。


「──たくさん喰べて、大きくお成りなさい──♪」


 鬼醒虫は商人の顔の上でグネグネ──と体を揺り動かすと、開かれた口の隙間にモゾモゾ──と体を潜り込ませた。


「──桃姫ちゃん。今夜の"お祭り"……私と思う存分に楽しみましょうねェ──! ──あはははははっ──!!」


 鬼蝶はさぞや愉快そうに笑いながら、"虫箱"を大きく振るって、残りの鬼醒虫を居酒屋の店内に散らばる客たちの亡骸に向かってばら撒いた。

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