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10.仏炎

 目が眩むような極光が霧散して消え去り、雉猿狗が大通りに仰向けに倒れ込むとその光景を目にした桃姫が叫びながら駆け寄った。


「──雉猿狗ッ──!!」


 鍔迫り合いの勝者となった鬼蝶が炎の薙刀を優雅に振るってほほ笑むと、桃姫が寄り添った雉猿狗の胸元に開いた大きな裂傷を見た。

 三獣の化身としての身体からは血こそ出ていないが、黒く焼け焦げた痕が痛々しく斜めに走り、雉猿狗は苦悶の表情を浮かべながら桃姫の顔を見上げて口を開いた。


「……桃姫様、お逃げくださいませ……雉猿狗は、戦う力を使い果たしてしまいました……」

「──イヤだよっ……! もう二度と雉猿狗を置いて逃げるなんてこと、したくないよ……!」


 青ざめた顔をした雉猿狗に対して桃姫が目に涙を浮かべながら告げると、二人の姿を見下ろした鬼蝶がおもむろに両手で構えた炎の薙刀を高く掲げ、燃えるアゲハチョウをその赤い刃に舞い踊らせた。


「──桃姫様ッ……! 逃げて……!」

「──イヤだぁっ……!!」


 炎の薙刀を夜空に向けて掲げた鬼蝶の残忍な笑みを目にした雉猿狗が寄り添う桃姫の体を押して離そうとするが、桃姫はそれを拒んで雉猿狗の着物にしがみついた。


「──……いいわ。これよ。私これが見たかったの……これこそ私が追い求めていた──"至高の残虐"ッ──!!」


 興奮に顔を紅潮させた鬼蝶が両目から炎を噴き上げながら嬉々として声を張り上げると、天高く掲げた炎の薙刀を二人の頭上目掛けて、断頭処刑するかの如く勢いよく振り下ろした、その瞬間──。

 サァッ──と場違いなほどに心地よい"春風"が燃える堺の大通りに吹き込んできた。


「──ッ」


 今の修羅場に全く不釣り合いな清涼な夜の"春風"をその身に受けた雉猿狗は、思わず翡翠色の瞳を大きく見開いた。

 視界に映るのは、夜空から振り下ろされ、迫りくる炎の刃──雉猿狗に向かって泣き叫ぶ桃姫の顔──そんな絶望的な状況の中で、世界から音が消え、起きている事象がゆっくりと流れると、ほんの一刹那、天界で見た天照大御神の黄金のほほ笑みが雉猿狗の"魂"に呼び覚まされた。


 ──この"春の風"は……天界から吹き注いだ、"神の風"だ──。


 雉猿狗はそんな強い確信と共に、自身の胸奥に浮かぶ〈三つ巴の摩訶魂〉を"神の風"に呼応させるように熱く光り輝かせた。

 翡翠色をした〈三つ巴の摩訶魂〉が太陽に似た黄金の輝きを放ち始めると、雉猿狗の焼き裂けた着物の胸元から"お守り"として仕舞っていた桃姫の髪の毛がブワッ──と大気中に盛大にばら撒かれた。


「──えッ──?」


 炎の薙刀を振り下ろしている最中、雉猿狗から生じた突然の出来事に鬼蝶は気の抜けた声を漏らした。そして次の瞬間──。


「──ヤッ──!? ──ッギャァァァアアッッ──!!」


 鬼蝶の両腕に付着した桃姫の髪の毛がボワアッ──と白銀色の炎を発しながら瞬く間に燃え上がると、鬼蝶はあまりの激痛に炎の薙刀を手放して雉猿狗から飛び退いた。

 手放された炎の薙刀は、無数の赤いアゲハチョウに転じて夜空へと消え去っていくと、それと入れ替わるようにして、大気中に舞っている桃姫の髪の毛が、まるで意思を持っているかのようにピトッ、ピトッ──と鬼蝶の全身に吸い寄せられていく。


「──何よこれッ──!? イヤアッ──! 熱いッ──! ギャアアアアアッッ──!!」


 風に運ばれて次々と付着していく桃色の髪は、次から次へと発火して、摩訶不思議な白銀色の炎へと転じていく。

 鬼蝶は全身を襲う熱傷の激痛に耐えきれず地面に倒れ込むと、白銀色の火だるまになってのたうち回りながら咆哮を上げた。


「──何をしたァッ──!! 雉猿狗ォッッ──!! あなたッッ──!! いったい何をしたのよォッッ──!!」


 白銀色の炎に包まれながら憎々しげに顔を上げて雉猿狗に向かって叫んだ鬼蝶。それに対して、雉猿狗は困惑の面持ちを浮かべながら上体を持ち上げた。


「……何を……私はいったい、何を、したのでしょうか……」

「──雉猿狗っ、何したの……!?」

「いえッ、わ、わかりませんっっ──!! ただ、桃姫様の髪の毛がっ……私の大切な"お守り"が──」


 雉猿狗と桃姫は地面をのたうち回って苦しむ鬼蝶の姿を見ながら何が起きているのか理解できないまま、それぞれ〈桃源郷〉と〈桃月〉を地面から拾い上げた。


「──雉猿狗……! とにかく、トドメを刺そう──! この悪い鬼は、ここで退治しないと、もっと不幸が生まれてしまう──!」

「……はいッ、桃姫様……!」


 立ち上がった桃姫は、左手で雉猿狗の右腕を支えながら言うと、雉猿狗はふらつきながらも桃姫の力を借りながら立ち上がり、答えて返した。

 地面に倒れ伏し、激痛に身悶えしながら白銀色に燃える鬼蝶の姿は哀れにも思えるが、鬼に対して情けをかけられる状況ではなかった。


「──"鬼退治"──やるよ、雉猿狗……!」

「──はい……!」


 二振りの仏刀を互いに両手で構えた桃姫と雉猿狗が銀桃色の刃の切っ先を鬼蝶に向け、"鬼退治"の覚悟を決めて声を発した時、篠笛の旋律が高らかに周囲に鳴り響いた。


「──何をやってるの……醜い虫ども……! 早く私を……助けなさいな──!」


 丸めた胴体の中で篠笛を吹き鳴らした鬼蝶は、鬼の身を焼き焦がす白銀色の炎を背中から噴き上げながら必死の形相で吼えるように言った。

 そしてまもなく、篠笛の旋律を聞き届けた三匹の鬼虫が夜空から鬼蝶を目掛けて飛来してくる。


「ッ、性懲りもなく……! また鬼の虫を呼んだのですかッ──!」


 夜空を見上げた雉猿狗が叫んだ。三匹の鬼虫は燃える鬼蝶を護るように着地すると、桃姫と雉猿狗は鬼蝶と距離を取らざるを得なくなった。


「……どうしよう、雉猿狗……! 虫と戦う体力は、もう残ってないよ……!」

「……桃姫様、逃げましょう……! どうせあの鬼は炎に焼かれて死にますッ──!!」


 歯噛みする桃姫に対して雉猿狗は言うと、桃姫は頷いて返した。そして二人は鬼虫に護られた鬼蝶に背を向けると、燃える堺の大通りを走り去っていく。

 二人の姿が鬼蝶の視界から消えた頃、チリンチリン──と聞き覚えのある金輪の鳴る音が鬼蝶の耳に入ってきた。


「──かかか……おーい、鬼蝶殿……まだ生きとるかぁ?」


 満面の笑みを浮かべた役小角がのんきな声を発しながら、いまだ白銀色の炎に全身を焼かれ続けている黒焦げた鬼蝶の前にゆっくりと現れた。


「……ひゅー……ひゅー……ひゅー……」

「──ほお。これはまた、見事に焼かれたものじゃのう」


 鬼虫を黄金の錫杖で追い払った役小角は、虫の息となっている鬼蝶の姿を細めた眼で見下ろしながら告げると、左手で片合掌し、右手に握る黄金の錫杖の頭を横たわる鬼蝶の体に向けて差し伸ばした。


「──オン──アギャナエイ──ソワカ──」


 役小角が詠唱した火天のマントラを聞き届けた白銀色の炎は、鬼蝶の全身からススス──と黄金の錫杖の頭の先端へと移動して集まっていく。

 そして、役小角は鬼蝶に向けていた黄金の錫杖の頭を持ち上げると、白銀色の炎の塊をすくいとるように左手の上にふわりと浮かばせて移動させた。


「……素晴らしい──これを、あの桃の娘が……のう」


 役小角は深淵の大宇宙を内包した漆黒の眼を細め、手のひらに浮かぶ白銀色の炎を愛おしそうに眺めながら低い声で呟いた。


「──桃の娘……"仏の力"を受け継いだか……あるいは桃よりも、更に強力に……」


 役小角は感慨深く言ったあと、白銀色の炎に向かって強く息を吹きかけて夜空に向けて飛ばした。


「──フゥウウッ……!」


 役小角の吐息によって吹き上げられ、空中に舞った白銀色の炎の塊は、散らばるように小さくなると、赤く燃える堺の夜空に霧散して消えた。


「……行者、様……どういうこと、です……私は……"燃羅の力"……"炎の力"を、手に入れて……もう二度と、燃えない体になったはず……それなのに……」


 全身を焼き焦がした鬼蝶は地面に倒れ込んだまま、熱傷の激痛に苦しみ悶えながら役小角に向かって訴えるように告げた。


「──おお……もう喋れるようになるとは、さすがは"八天鬼人"……驚くべき治癒力じゃのう──かかか……!」

「……笑い事では、ございませぬ……この体を焼き焦がす痛み、なんなのですか……あの炎……あきらかに、おかしい……!」


 高笑いする役小角に対して、黒焦げていた肌を段々と再生させていく鬼蝶が顔を歪ませながら憎々しげに言った。


「──鬼蝶殿。あの炎は、ただの炎ではない……鬼を燃やす仏の炎──"仏炎(ぶつえん)"じゃよ──"仏炎"を前にしては、いかな"燃羅の力"を持つ鬼蝶殿といえど──……かかか、"無力"──!」

「……くッ……」


 役小角はそう言って笑いながら鬼蝶に対して背中を向けると、鬼蝶は悔しそうに歯噛みしながら、見るも無惨に焼け焦げた自身の両手を睨みつけた。


「──雉猿狗と桃姫……八天鬼を一網打尽にしたお供の化身と、鬼ヶ島を壊滅に追いやった英雄の血を受け継いだ娘……決して侮ってはならぬ二人に対して、おぬしは一人で挑むと、よう言うたものじゃのう──?」

「……あの時はまさか……このようなことになろうとは……!」


 役小角の口から冷たく発せられた言葉を耳にした鬼蝶が、焦げながらもゆっくりと再生していく両手を閉じて、握り拳を作りながら苦々しげに声を漏らした。


「──鬼蝶殿。しばしそこで、体と頭を冷やされるがよろしい……おぬしは"八天鬼人"──その酷い火傷もいずれは癒えますわいの……かかかか──」


 役小角は鬼蝶に対して背を向けたまま笑ってそう告げると、チリンチリン──と黄金の錫杖を鳴らしながら歩き去っていった。

 鬼蝶は燃える堺の大通りを去っていく白装束を着た役小角の背中を見つめたあと、仰向けに地面に転がって夜空を見上げた。


「……ああ、この痛み……まるで本能寺……あの夜のよう……! 悔しい……私、悔しいですわ──信長様……!」


 "仏炎"が取り除かれてなお、いまだ全身に走る骨身を焦がす激痛に顔を歪ませた鬼蝶は信長への想いを募らせると、憎悪の眼差しで夜空に浮かぶ満月を睨みつけた。


「……許せない、絶対に……私のこの体を、再び焼いた……! 殺す……必ず殺す……! ──桃姫ッ──雉猿狗ッッ──!!」


 鬼蝶は己の体を痛々しく燃やした"仏炎"のように、白銀色の輝きを放つ満月に向かって、鬼の形相で怨嗟の呪詛を吼えるのであった。

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