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16.天照神宮の千歩階段

 翌朝、そして翌々朝になっても伊勢を襲う大風は止むことがなかった。

 むしろ、日を追うごとに雨風は強さを増していくばかり、喜兵衛の家もギシギシと悲鳴に似た音を立てだすようになっていた。


「……ちょっとまずいっぺね、こいつぁ。食料の備蓄だってそんなにあるわけでねぇし」


 喜兵衛は木戸を少しだけ開けて荒れ狂う外の様子を確認すると、すぐに閉じて囲炉裏の前に戻ってきながらそう言った。

 部屋の片隅に敷かれた布団にはぜぇ……ぜぇ……とかすれた呼吸音を漏らしながら苦悶の表情を浮かべる雉猿狗が横たわっていた。

 雉猿狗の枕元に座った桃姫は水の入った桶に手ぬぐいを浸すと固く絞って水気を切ってから広げて折りたたみ、雉猿狗の額に乗せた。


「……とは言え、いつまでも大風が吹き続けるなんてことはねぇ……今しがたの辛抱だっぺよ」

「喜兵衛、あんた昨日もそう言ってなかったかい……?」


 どすんと座布団の上に座り、あぐらをかいた喜兵衛が言うと、年老いた女将が愚痴をこぼすように言った。


「……んなこと言われてもしかたねぇっぺさ。おいは神様じゃねぇんだからよ」


 そう言った喜兵衛がため息を吐き部屋の神棚を見上げた。


「神頼みしかねぇかな……こうなったら」


 喜兵衛は立ち上がると、神棚に向かってドスドスと歩いていき、そしてパンパンと両手を二回叩いた。


「天に御わす神様。どうか、この大雨、大風、止めてくだせぇ……なにとぞ、なにとぞ……」


 喜兵衛が傍目から見ても雑に神棚に向けて祈りを捧げる。女将と妻は呆れた顔でその行為を見ていたが、桃姫は真剣な眼差しで見ていた。


「なぁにみっともない真似してんだよ、あんた。神頼みなんて、今どき子供でもしやしないよ」

「……うるせぇや」


 女将が皮肉るように言うと、喜兵衛は囲炉裏の前に戻ってきて、再びどすんと座った。

 そして、とっくりからおちょこに酒を注ごうとするも、中身が空になっていることに気づいた。


「おぉい、たえよ……酒わい?」

「今ので最後ですよ、もうこの家には一滴もありやせん」

「……なんだってぇ!? ああ……! おしめぇだぁ……!」


 妻おたえの返答に喜兵衛が裏返った声を上げる。そしてこの世の終わりだとでも言うように天を仰いで寝そべった。

 そのとき、桃姫はやけに屋内がシンと静まり返っていることに気付いた。

 三日三晩に渡ってあれほど騒がしくガタガタ、バタバタと鳴っていた雨音や風音が一切しないのだ。


「なぁんかよ……やぁけに静かじゃあねぇか?」


 桃姫と同じくそのことに気づいた喜兵衛が天井に吊り下がった魚の干物を見ながら呟くように言うと、すっくと立ち上がってどすどすと玄関まで歩いていきガラガラッと勢いよく木戸を開いた。

 そして、目に飛び込んでくるのは晴天。カラッと晴れ渡った青空と太陽に照らされる漁村の姿であった。


「──届いた……! なぁ! おいの祈りが神様の元に届いたっペよぉッ!」


 喜兵衛は満面の笑みで室内に向かってそう言うと、草履を履いて外に飛び出していった。


「……雉猿狗っ! 雉猿狗っ! お日様だよ……!」

「……う、うう……」


 桃姫は外から入り込む光で明るく照らされる室内で布団に横たわった雉猿狗に声を掛ける。

 雉猿狗は薄っすらと目を開けると、開かれた木戸の外を見て口を開いた。


「……桃姫様、私を外へ……」

「……うん!」


 雉猿狗の言葉に対して頷いて答えた桃姫は雉猿狗の背中を持ち上げて自身の体に背負わせるように寄りかからせた。

 その様子を見た女将とおたえも、桃姫に協力して雉猿狗の体を持ち上げて三人がかりで外へと雉猿狗を連れ出した。


「あっ……ああ……ああっ!」


 太陽から燦々と降り注ぐ光の粒子を浴びた雉猿狗が歓喜の声を上げながら生気を取り戻していった。

 死人のように青ざめていた肌は血色を取り戻し、三人の協力を得ずとも一人で立ち上がり両手を天に向かって拡げた。


「……ありがとうございます……ありがとうございます……」


 雉猿狗は目を閉じ、ただ太陽に向かって感謝の言葉を繰り返した。


「──本当に、もう行っちまうのかい?」


 それからしばらく後、喜兵衛が雉猿狗と桃姫を見ながら名残惜しそうに言った。


「はい。私たちは旅の身、同じ場所に長居はできないのです」

「そうかい。まぁ、体調も良くなったようだし、お二人さんの旅の安全を祈願するよ。なんせ、おいは神様への祈りによって空を晴れさせた男だかんな」


 雉猿狗の言葉を聞いた喜兵衛は、腰に両手を当てて胸を張ってそう答えた。


「ふふふ、心強いです……こちら、少ないですが、私たちがお世話になったお礼です」


 雉猿狗はそう言うと、一枚の小判をスッと喜兵衛に差し出した。


「おっと、こいつぁわるいねぇ……! なぁんて言うと思ったかよ。むしろ、こっちが金払わなきゃなんねぇくらいだわ。嵐の中、婆さんを家まで連れてきてくれたんだかんよ。がははは……!」

「だれが婆さんだい、だれが……!」


 喜兵衛が威勢よく笑うと隣に立つ女将がその胸を小突いた。


「かしこまりました。では、こちらは旅の資金として取っておくことにいたします。誠にお世話になりました」

「お世話になりました」


 感謝の言葉を述べた雉猿狗がうやうやしく頭を下げると桃姫も感謝の言葉を言ってぺこりと頭を下げる。

 そうしていると、おたえが家の中から出てきて二人の前に小走りでやってきた。


「これ、魚の煮付けを入れたおにぎりね。腹さへったら道中で食べておくんなさい」

「……ありがとうございます!」


 そう言っておたえが竹皮に包まれたおにぎりを桃姫に手渡すと、桃姫は両手で受け取って感謝の言葉と共に深くお辞儀をした。

 桃姫と雉猿狗に向かって手を振る喜兵衛、女将、おたえに対して二人も手を振りながら漁村を後にする。

 そして快晴の下、伊勢の街道を歩いている道中、手近な石の上に座って二人は昼食を取ることにした。


「晴れてよかったねぇ、雉猿狗」

「はい。本当に喜兵衛さんが晴らしてくださったのですか?」

「そうだよ……! なにとぞ、なにとぞぉ……って祈ったら晴れたんだよ! 雉猿狗にも見せたかったなぁ」


 桃姫と雉猿狗が喋りながらおたえから貰ったおにぎりを食べていると、ポツ……ポツポツポツ……と地面を濡らす雨粒が空から降ってきた。


「……雨だ」


 おにぎりをほおばりながら、空を見上げた桃姫が呟いた瞬間──ザァァァアアアアア……! と滝のような豪雨が空から降り注いできた。


「うわああああ……!」

「きゃあああ……!」


 桃姫と雉猿狗が悲鳴を上げながら石の上から降りて、手近な木の下に避難して座り込む。


「え……えええ……!? 大風は止んだんじゃなかったの……!?」

「……ああ……大風とは、"渦"を描いている風のことです……渦になっているということは中心があり、その地点は快晴……」


 ずぶ濡れになって困惑する桃姫に雉猿狗が眉根を寄せながら頭の中で渦を巻く竜巻の想像をして嘆くように言った。


「……じゃあ、また三日、雨ってこと……?」

「……けほっ……けほっ、ごほっ……」


 泣きそうな顔をした桃姫の言葉を聞いて、雉猿狗は咳をし始めた。そんな雉猿狗の様子を見て桃姫は決心をする。


「……雉猿狗、"神頼み"だよ」

「……え……?」


 手で口元を抑えながら苦しそうな顔をする雉猿狗にそう言った桃姫は着物の胸の中から河童の形代を取り出した。


「このまま、立ち止まらずに天照神宮に行こうよ。喜兵衛さんは神棚で祈って空を晴らしたんだよ。それなら、天照神宮に行って、天照様に直接お祈りすれば空は絶対に晴れるんだよ……!」


 桃姫はそう言って立ち上がると雉猿狗に向かって手を差し伸ばした。


「雉猿狗、時間はないよ。また三日も雨だなんて、雉猿狗の体は耐えられないよ……! すぐに行くしかない!」

「……そうですね……行くしかありません」


 雉猿狗は桃姫の手を握って立ち上がる。そして桃姫の濃桃色の瞳を見て言った。


「──桃姫様。ずいぶんと逞しくなられましたね」

「ううん……雉猿狗の真似をしてるだけだよ。お婆さんを背負って雨の中を突き進む雉猿狗の背中、かっこよかったな」

「……桃姫様」


 桃姫の言葉を聞いた雉猿狗は翡翠色の瞳をうるませる。


「行こう雉猿狗……! 止まらないよ!」

「はい!」


 桃姫は雉猿狗の手を引いて木の下を飛び出し、豪雨と吹き始めた強風の中を雉猿狗と共に走った。

 それから二人は伊勢の街道を天照神宮に向けて丸一日ひた走り、ついに天照神宮に辿り着いたときには、雉猿狗の顔は青ざめ、今にも倒れそうな状態となっていた。


「……雉猿狗……! もう大丈夫だからね……!」

「……ぜェ……ぜェ……」


 広大な境内を持つ天照神宮の赤い鳥居をくぐり、豪華な拝殿の前までやって来た二人。

 降り続ける豪雨によって巨大な水たまりが出来、もはや池のようになっている参道に立つ桃姫が声を出した。


「ここで、河童の形代を捧げればいいんだよね……」


 桃姫は確認するように言葉にすると、拝殿に向かって二礼したあとに二回拍手をした。

 そして、胸から河童の形代を取り出し、拝むようにして両手で握りしめて顔の前に掲げた。


「なにとぞ……なにとぞ……空を晴らしてくださいませ……天照様……」


 目を固くつむった桃姫が強い祈りで祈願するが、ただ風が吹き、雨が叩きつける音だけが拝殿の前に響いた。

 5分、10分、と桃姫は河童の形代を捧げて祈り続けたが、しかし、何も起こらない。


「……なんで……天照様……私たち、ここまでやって来たんです……死にものぐるいで、ここまで……」

「……ももひめ、さま……」


 桃姫の肩に身を預けるように寄りかかって、かろうじて立っていた雉猿狗がかすれた声で話しだした。


「……もしや……形代を捧げるのは……"拝殿"ではなく……"本殿"やも……しれませぬ」

「……え」


 雉猿狗の言葉を聞いた桃姫が驚きの声を漏らす。


「……本殿、って……」


 桃姫が言って拝殿から一歩二歩と後ずさった。そして、雉猿狗と共に拝殿の後ろを見上げた。


「……これ……の、こと……?」


 天照神宮名物──"心臓破りの千歩階段"。拝殿の後ろにそびえる天照山の山肌に沿いながら、天界へと伸びるように千段の石段が連なっていた。

 煙雨によって三百段より先は白くかすんで見えづらくなっており、山頂付近にある本殿の姿に至っては拝殿の位置からは姿形すら全くうかがい知れなかった。


「…………」

「…………」


 疲弊しきった二人を待ち構えていた千歩階段の威容に絶句した桃姫と雉猿狗。次の瞬間、神力を完全に身体から枯渇させた雉猿狗は、糸の切れた人形のように、どしゃり──と音を立てながら水たまりの中に倒れ込んだ。

 雨でずぶ濡れになった桃姫は隣で倒れた雉猿狗を気遣う心の余裕すらも失って、絶望的な長さを誇る千歩階段を見上げながら深い無力感に苛まれた。

 そんな二人の体に向けて、止む気配の一切ない容赦ない滝しぶきのような猛烈な豪雨が、空一面に広がる鈍色の分厚い雨雲から無慈悲に叩きつけられた。

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