「──ぽぉーん、ぽぉーん、ぽぉーん……」
降りしきる雨の中、花咲村の片隅にある桃の木の下でずぶ濡れになった桃姫が集中して鞠を蹴り上げ続けていた。
「50回……! 50回突破……! 60まであと10回っ──!!」
「──桃姫ッ──! あなたどしゃぶりの中で何やってるのッ──!?」
「……っ!? 母上っ!?」
桃姫が目標の回数を叫んだ瞬間、番傘を差した小夜が桃姫に向かって驚きの声を上げた。
「雨なのに帰ってこないから、まさかと思って来てみれば……! こら──母上が話してるでしょ! 蹴鞠をやめなさい! 桃姫っ──!」
「ちょ、ちょっと待って……! いま、本当にいいところだから! 記録更新できそうなのっ……!」
怒気を込めた声を発しながら小夜が近づいてくると、桃姫は鞠を蹴り上げる足を止めずに言って返した。
「いい加減にしなさい! こんな大雨の中で蹴鞠なんてしてたら、風邪ひいちゃうでしょッ──!」
「──母上ッ! 明日の風邪より、今の蹴鞠だよッ──!」
大声で注意した小夜に対して、桃姫は真剣な表情で雨水を顔から垂れ流しながら叫んだ。
「なにバカなこと言ってるのッ! ──今すぐ帰るわよッ!」
小夜はいよいよ呆れたように声に出すと、桃姫の腕を強引に掴んで蹴鞠を中止させた。
「……あああああっっ──!! 蹴鞠がぁっっ……!!」
桃姫が鞠を蹴るのを止めると、赤い蹴鞠はころころと桃の木の根本へ転がり、ぶつかって止まった。
「明日取りに来ればいいから! ──今日は帰るわよ!」
そういった小夜の手に引きずられるようにして、桃姫は自宅へと帰った。
「まったく、無我夢中になると止まらなくなるんだから……いったい誰に似たのかしらね……」
「記録更新……」
桃姫は小夜によって長い桃色の髪を手ぬぐいで拭かれながら恨めしそうに言った。
「蹴鞠なんていつでも出来るんだから、無理して雨の中やることないじゃない」
「ちがう……集中できるときと、できないときとがあるんだよ……」
桃姫の言葉を小夜は聞き流しながら髪を乾かし続けた。
「──ただいまぁ……いやぁ、濡れた濡れた……ひどい夕立だね。仕事にならないから途中で切り上げてきたよ」
玄関から桃太郎の声がすると、桃姫がそちらを見る。
そして、のれんを開けて濡れた顔を見せた桃太郎に対して、桃姫は元気なく口を開いた。
「……父上、おかえりなさい」
「ははは、桃姫もずぶ濡れか……! 私と同じだな。あははは……!」
自身と同じく濡れそぼっている桃姫に対して、桃太郎が明るい笑顔を浮かべながら快活に言って笑った。
その様子を見ていた小夜が桃姫の長い髪を櫛で梳かしながら声を出す。
「あなた……! のんきに笑ってないで聞いてくださいな! 桃姫ったら大雨の中でね──」
──天照神宮にて。どしゃぶりの中、全身が濡れた桃姫が参道にぽつんと立っていた。
「…………」
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
光が失われ、暗くなった濃桃色の瞳で地面を見下ろすと、水たまりの中に倒れ込んだ雉猿狗が苦悶の表情を浮かべながらかすかに浅い呼吸を繰り返していた。
「……雉猿狗……」
"神力"が尽きて、倒れ伏す雉猿狗に向かって、桃姫が呟くように言った。
「……私……終わりたくないよ……私、こんなところで……終わりたくなんか、ないんだよ……」
桃姫はそう言うと、目から涙をこぼした。その涙は雨水の水滴と混じり合い、頬を伝って足元の水たまりにぽつっと落ちる。
「──桃姫ちゃん」
桃姫はその時、懐かしい親友の声を聞いた。
「……おつるちゃん」
「──桃姫ちゃんなら、できるよ」
桃姫が足元の水たまりを見る。その水たまりにはおつるの顔が映っていた。
「……本当に……?」
「──うん。桃姫ちゃんなら、できる。私を信じて、桃姫ちゃん」
おつるはほほえみ、穏やかで優しい声でそう勇気づける。
「……信じる……信じるよ、おつるちゃん」
桃姫の瞳に光が戻り始めると、水たまりにはおつるのかんざしを付けた桃姫の顔が映っていた。
「……雉猿狗、行こう……」
桃姫は覚悟を決めると、水たまりに倒れ伏す雉猿狗の体を持ち上げて、背中に背負い上げた。
桃姫よりも遥かに長身の雉猿狗の体である。しかし、桃姫は全身全霊を込めて担ぎ上げると、グッ──と歯を食いしばって腕に力を入れた。
「……雉猿狗……絶対に、助けるからね……」
桃姫は、背中で浅い呼吸を繰り返し、死者の顔色をしている雉猿狗に声をかけると、一歩、また一歩と拝殿の後ろに伸びる千歩階段に向けて歩みを進めた。
桃姫の雪駄は雨水に濡れた石段の上で何度もすべり、桃姫はその都度、手を石段について体をふんばらせる。
雉猿狗を落とさないように、空いた手で担ぎ直して、そして、一歩、一歩、踏みしめるようにして千歩階段を登りつめていく。
「はぁッ──はぁッ──はぁッ──」
全身ずぶ濡れとなった桃姫は、荒い呼吸を繰り返しながら、山頂近くにある本殿へと続く無限のようにも感じる長い階段を、一歩、一歩、祈りを捧げるような気持ちで足を前に進めた。
「……雉猿狗……雉猿狗……」
いつしか桃姫は、雉猿狗の名を繰り返し口にしながら、その存在は自分にとっていったいなんなのであろうかと考え始めていた。
"あの祭りの夜"、深い絶望に打ちひしがれ、自刃しようとした刹那に現れた、命の恩人である雉猿狗──。
時には親しい姉であり、時には頼もしい戦友であり、また時には優しく包み込む母であり──そして常に、桃姫と運命を共にする"運命共同体"であった。
雉猿狗がいなければ、この鬼退治の旅路は終わってしまう──絶対に、こんなところで雉猿狗を死なせるわけにはいかない。
「──桃姫、"もうだめだ"って感じたときに……胸の奥底から"不思議な力"が湧いて出てきた経験はないか?」
小夜が炊事場で夕飯の支度をしているとき、おもむろに桃太郎が桃姫に語りかけた。
「胸の奥って……"心臓"のこと?」
「いや。"心臓"じゃないんだ……それはなんていうか、もっとこう奥底にある──"心"の話、なんだ」
桃姫の返答に対して、桃太郎はそう言ってほほ笑んだあと、遠い目をして話しだした。
「父上はね……御師匠様と厳しい山ごもりの修行をしているとき、それに鬼退治のとき……"不思議な力"が胸の奥底から湧き出すことがあったんだ。こんちくしょぉ──って感じのね」
「……ふーん」
そう言った桃太郎がちゃぶ台越しに桃姫の顔を見ると、桃姫は軽い返事をした。
「桃姫──これからの長い人生で、凄く大変な……でも、逃げずにがんばらないといけないって瞬間が必ず出てくるはずだ」
桃太郎は濃桃色の瞳で、同じく濃桃色の瞳を見つめて言った。
「その時は叫ぶんだ──思いっきり、大事な人の名前、護りたい人の名前を……私の娘である桃姫にもきっと、"不思議な力"が湧き出てくるよ──」
桃姫は、ふと、その何気ない日々の記憶。味噌汁の匂いが香る、二度と取り返せない大切な記憶の一片を思い出した。
「──……雉猿狗……死ぬな……」
そして、呟いた。大事な人の名前を。護りたい人の名前を。
「……雉猿狗……死ぬな……──」
桃姫が石造りの階段をダンッ──と力強く右手で突くと、おつるから贈られた白い巻き貝の腕飾りが揺れた。
そして、背中に回した左手でおぶった雉猿狗を担ぎ上げると、グッ──と顔を持ち上げて、500段以上先の煙雨で白くかすむ本殿を決死の形相で睨みつけ、吼えるように叫んだ。
「──雉猿狗ォオオオオオッッ──!! 死ぬなァァアアアアアアアッッ──!!」
胸の奥底、"心"から叫んだ桃姫の全身から白銀色に光り輝く"熱気"が解き放たれると、桃姫は力強く石段を踏みしめながら千歩階段への前進を再開した。