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20.船幽霊

 おたつの家に招かれた桃姫と雉猿狗は、三人居れば手狭になる広さの室内を見回した。


「……殿方の着物がありますね。この茶碗も、殿方の色合いです」

「人んちのもんを、あまりジロジロ見るんじゃないよ」


 壁に掛けられている焦げ茶色の着物や、地味な色をした茶碗を見た雉猿狗が言うと、おたつが注意した。


「桃姫様、よしましょう」

「怒られたの雉猿狗だよ……」


 雉猿狗が桃姫に言うと、桃姫は呆れた顔をして雉猿狗に言った。


「はっ。今でこそひとり暮らしだけどね、あたしだってずっと独り身だったわけじゃないんだよ。だいたい、ここいらじゃあ男は船乗り、女は海女をやるって相場は決まってんだ」

「それでは、あの漁船は元はこの着物の持ち主の物だったのですね?」


 おたつの言葉を聞いた雉猿狗が耳聡く言うと、おたつは大きくため息をついてから声を上げた。


「ああ……! これだから人を家にあげるのは嫌だったんだ! これ以上あたしを詮索するようなら外で寝させすよ!」

「ご、ごめんなさい。もう寝ますから」


 おたつに対して桃姫が謝りながらその場に座り込んだ。おたつはその様子を見てから雉猿狗に言った。


「あんたも寝な。飯は起きてからだ。この娘のほうがよほど聞き分けがいいよ」

「そうですね。桃姫様、こちらへどうぞ。私の腕を枕に」

「……ん、うん」


 雉猿狗はおたつの言葉に同意して頷くと桃姫の隣に横になって腕を伸ばした。桃姫は横になるとその腕に頭を乗せる。


「はぁ……まぁいい。伊豆まであんたら届けりゃ三年分の稼ぎだ……ちょろい仕事さね……消すよ」

「はい」


 おたつは呟くように言うと、雉猿狗に寄り添う桃姫が返事をした。そして燭台のロウソクの火がおたつによって吹き消された。


 ──おたつ、すまねぇ……おらぁ……。

 ──弥彦ぉッ! 弥彦帰ってきてぇッ!

 ──だめだ……おらぁ……おたつ、すまねぇ……。


「──弥彦っ……! 弥彦ぉッ……!」


 額にじっとりとした汗をにじませて、ハッ──と目を開けたおたつ。上半身を布団から持ち上げると深く息を吐いた。


「……はぁ、いやな夢だねぇ……まったく」


 白い霧の中に船に乗った旦那の弥彦が飲み込まれ、遠ざかっていく夢。おたつが何度も見る悪夢であった。

 おたつが布団の隣のちゃぶ台の上に置かれた急須から湯呑みに水を入れて飲むと、ふとこちらを見ている雉猿狗の姿に気が付いた。


「……なんだいあんた、もう起きたのかい」


 喉を潤したおたつが言うと、雉猿狗は桃姫の髪をなでながら静かに口を開いた。


「私は別段寝なくてもいい。そういう"体質"なのです」

「はっ……そいつは便利だね。まるで幽霊みたいじゃないか」


 暗がりの中、そう言って微笑んだ雉猿狗におたつは皮肉まじりに言って返した。


「そうですね。その通りかもしれません」

「そうかい……幽霊と話したのは生まれて初めてだよ……まったく、嬉しいやね」


 そう言っておたつは立ち上がると、布団を畳んで片付け、身支度を始めた。雉猿狗はその様子を眺めながら口を開いた。


「おたつ様……"弥彦"、とはどなたでしょうか?」

「……っ」


 雉猿狗の言葉におたつがびくりとして着替えの手を止めると、怒気を込めて言葉を発した。


「二度と、その名を口にするんじゃないよ……いいね?」

「…………」


 雉猿狗に背を向けて発せられたおたつの言葉に雉猿狗は黙り、外から届く波の音と、深い眠りにつく桃姫の寝息だけを耳にした。

 それから1時間後、燭台のロウソクに火が灯されて、桃姫が雉猿狗によって起こされると、桃姫は寝ぼけ眼をこすりながらおたつが用意した七輪で焼いた魚の干物と味噌汁を食べた。


「よし、あと2時間でお天道様が登ってくる。その前に船を出す。あんたら、忘れ物はないやね?」


 夜が朝になる一番暗い時間、未明混沌。漁船の先端に取り付けられた吊り灯籠に火を灯したおたつが桃姫と雉猿狗に声をかけた。


「あんたらは伊豆に行ったっきり戻ってこないんだ。財布を忘れたなんて、海の上で言われても遅いからね」


 おたつは吊り灯籠の明かりに照らされた白い歯を見せながら微笑むと、桃姫と雉猿狗は頷いて返した。

 そして、三人が小さな漁船に乗り込むと、入り江に流れ込む波に揺られた古びた船体がギィギィ──ときしむ唸り声を上げた。


「それじゃ、出発するよ……! ──ヨイ、サー!」


 櫂を握ったおたつが威勢よく声を上げると、力強く漕ぎ出し、漁船は入り江を離れて伊勢湾へと走り出た。


「──ヨイ、サー! ──ヨイ、サー!」


 おたつが掛け声を上げながら櫂を漕ぐと小さな漁船は速度を増していき、流れに乗ってスーッと夜の海原を滑るように進んだ。


「一番力がいるのは漕ぎ出し、あとは流れに身を任せてやっていくのさ」


 海風にあたりながら気持ちよさそうに微笑んでそう語るおたつを桃姫と雉猿狗が座りながら見上げた。


「あんたらの足元に釣り竿が転がってるだろ。伊豆につくまで丸一日暇だし、釣りがしたいならするといいやね」


 おたつの言葉を聞いた桃姫と雉猿狗が足元を見ると、確かに二本の質素な釣り竿が置かれていた。


「雉猿狗、釣り、したことある?」

「……まったくございません」


 桃姫の問いかけに雉猿狗が首を横に振って答えると、その様子を呆れて見ていたおたつが櫂を船体に持ち上げて手離し、釣りの指南を始めた。


「いいかい、まずはこの箱の中にミミズが詰まってる……こいつをだな」

「いやあああ!」


 おたつが開いた箱の中には土が敷き詰められており、その中には無数のミミズがうごめいていた。

 それを見た桃姫が思わず叫ぶ。


「大丈夫。あたしだって最初は嫌だったけど、すぐに慣れる。このミミズを、こうして針に刺して、ほらな、こうだ。簡単だろ」

「なるほど……やってみましょう」


 おたつがテキパキと釣り糸の先端の針にミミズを通すと、それを見た雉猿狗は興味深げに言ってミミズをつまみ上げ、同じように針に刺した。


「へぇ、初めてにしちゃうまいもんだね。ほら、あんたもいつまでも縮こまってないで、これはあんたの釣り竿だよ」

「……え、えうう……」


 おたつから釣り竿を受け取った桃姫はうねるミミズを極力見ないようにしながら海に向けて釣り糸をぽちゃんと落とした。


「雉猿狗……ミミズつけるのは雉猿狗がやって……」

「はい、桃姫様」


 桃姫はげんなりした顔で雉猿狗に頼むと雉猿狗は笑みを浮かべながら返し、釣り糸を海に落とした。

 おたつはやれやれという顔で船頭の位置に戻ると、再び櫂を握って漕ぎ出すのであった。

 それから一日、うろこ雲が浮かぶ晴れた空の下、初夏の気持ちの良い気候の中で、釣った魚をおたつがさばいて三人で食べたり、雉猿狗に寄りかかって桃姫が寝たり、海風にあたりながら穏やかな時間を過ごした。

 やはり、陸路ではなく航路を選んだのは正解だったと雉猿狗が思っていると、段々と海上の霧が濃くなり、視界が悪くなっていくとおたつが口を開いた。


「話に聞いたことがある。この伊豆の沖合いは、いつもこれだ。安心しな、問題ないよ……明け方には伊豆につく」


 櫂を握りしめたおたつが自分に言い聞かせるようにそう言うと、夜だというのにあたりは濃霧で白く染まっていった。


「……雉猿狗、なんだか怖い」

「大丈夫ですよ、桃姫様」


 怯えた桃姫が雉猿狗に身を寄せると雉猿狗はその身を抱きかかえた。

 漁船の先端に取り付けられた吊り灯籠がゆらり、ゆらりと揺れて白い濃霧を橙色に照らし出しながら船は濃霧の中に引きずり込まれるように前へと進んだ。


「……大丈夫……大丈夫……」


 おたつが呟くように繰り返す。おたつにとって、ここまで遠くに船を出したのは初めてのことで、そして思い当たることがあった。

 夫の弥彦は伊豆の沖合いで消息不明になったと。


「……っ」


 おたつが目を見開いた。白い濃霧の向こうから船の形をした黒い影がこちらに向かってぬーっと近づいてくるのである。

 その影はどんどん大きくなり、そして濃くなっていく。


「……船──」


 桃姫が呟くように言ったとき、その船は一隻ではないことがわかった。

 先頭の影が濃くなるにつれて、後方からも次々と黒い船影が姿を現す。


「これは……船幽霊……」


 雉猿狗が声に漏らした。そして、ついに濃霧の中から船体が現れておたつの船の横を通り過ぎた。


「……あ、ああ──!!」


 船幽霊──それはボロボロに朽ちた四隻の大型の漁船団であった。浮いてるのも不思議なほどに壊れ果てた船体の上には、既にこの世の者ではない青ざめた肌をした男たちが立っていた。

 おたつは思わず口を開き、その男たちの中の一人に向けて喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


「──弥彦ぉッッ!! あんたぁッッ──!!」


 櫂を放りだしたおたつが船の縁にしがみついて船幽霊に向けて叫ぶ。


「──あたしよぉッ! おたつだよぉッ──!!」

「おたつ様っ……いけません……!」


 海へと落ちそうになるほど身を乗り出したおたつの体を雉猿狗が咄嗟に掴み止めた。


「──……おたつぅ……──」


 そんな様子を見た、漁船の上に立つ青ざめた肌の男が虚ろな目をしておたつの名を呼んだ。


「──……おたつぅ……おらぁ……──」

「……あんたぁッ!! 帰ってきてぇ──!!」

「──……おらぁ……帰れねぇだぁ……すまねぇなぁ……──」


 弥彦と呼ばれた男はただ力なくおたつに謝り、四隻の朽ち果てた漁船団はゆっくりと遠ざかっていった。


「──……すまねぇ……すまねぇなぁ……──」

「……弥彦ぉッッ!! ……いやあああっ! いや嗚呼あッッ──!!」


 雉猿狗の手を振り払って海に落ちようとしたおたつの体に桃姫も組み付いた。


「っ、おたつさん……! 危ない……!」

「──離してよぉッ!! ──あたしは弥彦とッッ!! 弥彦と一緒に行くのぉッッ──!!」


 桃姫と雉猿狗の二人がかりでおたつの体をなんとか繋ぎ止めると、船幽霊は完全に姿を消し、そして霧がスーッと消え去っていった。


「霧が、晴れていく……」


 雉猿狗が呟くと、おたつが揺れる船の縁にしがみつきながら涙を流して叫んだ。


「弥彦ぉ……! 行っちまった……! あんたら……! なんで離してくれなかったの……! 弥彦と一緒に……あたしも"あっちの世界"に逝けたのにさ……!」

「ごめんなさい……でも、おたつさんに逝って欲しくなかった……」


 海面に涙を落としたおたつに向けて桃姫は苦しげに言った。


「……あの陸地は、伊豆ですね──」


 雉猿狗が船の進む先を見ながら口にした。その視線の先には、漁村の灯火がポツポツと地平線に浮かんでおり、船旅の中間地点である伊豆半島の南端に到着したことがわかった。

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