船幽霊との遭遇後、伊豆の砂浜に船を寄せ、上陸した桃姫、雉猿狗、おたつの三人。
あたりは暗く、朝がやって来るにはまだ時間がある頃合いであった。
「……なんとか伊豆に到着できましたね。しばらく休んでから、次の船を見つけて安房に向かいましょう」
雉猿狗が桃姫に声をかけると、桃姫はおたつの姿を見て口を開いた。
「おたつさん、朝になったら志摩に帰っちゃうかもしれない……」
おたつは二人から距離を取って、小高い砂丘の上から呆然と立ち尽くすように夜の海を眺めていた。
「おたつ様は、当初の約束通り私たちを伊豆まで運んでくださいました──もう、私たちとおたつ様には何も関係ありません」
「……そんなこといわないでよ、雉猿狗……!」
雉猿狗の言葉に桃姫は声を荒げた。
「目的地まで運んでくれたら、あとは赤の他人みたいな……そんなのってないよ! おたつさんと私たちは、もう他人には戻れないよ……!」
「…………」
雉猿狗は桃姫の濃桃色の瞳を見つめると何も言えずに口を閉ざした。そして、桃姫はパッと駆け出しておたつのもとに向かった。
「……おたつさん」
切り立った崖のようになった砂丘の端に立つおたつの背中に桃姫が静かに声をかけた。
「……おたつさん、あの……」
「あんたみたいな娘っ子に同情されるほど、あたしはヤワじゃないよ」
おたつは桃姫に横顔を向けてそう言って笑みを浮かべると、手に持っている小さな人形を見せた。
「この人形はね……弥彦とあたしの子供なのさ……」
桃姫が歩み寄って隣に立つとおたつは夜明け前の海岸線を眺めながら話しだした。
「三年前、弥彦が海で死んだと聞いて……あたしのお腹の子も海に還っちまったんだ……」
「……っ」
赤い着物をまとった子供の人形を握りしめたおたつ。桃姫はおたつに掛ける言葉が見つからなかった。
「それから一年後、帰ってきたのは弥彦の船だけ……まったく、あたしは、何のために生きているのか……」
おたつはそう言うと、人形を着物の胸元にぐっと仕舞い入れた。
「あんたらをこうして伊豆まで送り届けて、小金持ちになったところで……それがいったい、何になるのか……」
おたつはため息を吐いたあと、隣に立つ桃姫を見ていった。
「……そうだね……身の振り方は、腹ごしらえしてからにしようか」
おたつがそう言うと、ぐう……とおたつの腹が鳴った。
「情けないね……そんな気分じゃないってのに、腹は空いちまうんだ」
「皆さん見てください……! 船の中に魚がたくさん!」
おたつが白い歯を見せて笑みを浮かべて言うと、雉猿狗の声が遠くから聞こえた。
「ははは。船幽霊に驚いて、自分から船の中に飛び込んできたのかい?」
おたつが砂丘の上から雉猿狗と船を見ながら言うと、桃姫がおたつの手をスッと握った。
「おたつさん、私もお腹空きました。一緒に食べましょう……?」
「はっ──そうだね……食べようか」
桃姫とおたつは手を握ったまま砂丘を降りて雉猿狗のもとに向かった。
「あんまりこういうこと、旅の人には聞かないようにしているんだけど……あんたら、関係は?」
砂浜に枯れ枝を置いて焚き火を作り、そこで棒に刺した魚を焼きながらおたつが桃姫と雉猿狗にたずねた。
「こういっちゃあなんだけど、あんたら母娘には全く見えないよ……もちろん、姉妹にもね」
おたつが魚が焦げないように細かく裏返しながら焼いていくと、焚き火に照らされた桃姫と雉猿狗が互いに顔を見合わせた。
「そもそも、何で安房に行きたいのか……何で女二人で旅をしているのか……気になりだしたらキリがないけど」
おたつはそう言ってちらりと砂浜に座る桃姫と雉猿狗の顔をうかがい見た。
「すみません。お話できません。話せば、おたつ様を余計な危険に巻き込んでしまうかもしれないので」
桃姫が口を開くより先に雉猿狗が口を開いて、おたつにそう告げた。
「……ははっ、そうかい。まあ、何となくわかったよ……とにかく厄介な状況にあるんだね。じゃあ、この話はやめようか」
「そうしてくださると、助かります」
雉猿狗はおたつにそう言って返すと、おたつが焼けた魚を桃姫に渡した。
「おたつさん……色々と、ありがとうございました」
「……あいよ」
魚を受け取り、そして頭を下げて感謝の言葉を述べた桃姫。おたつは静かに微笑んで頷いた。
「ふう……しかし、体中塩だらけだ……しこたま海水を浴びたからね……」
「私も……体がべとべと。雉猿狗の体はさらさらしてるね」
魚を食べ終えて一息ついたおたつが言うと、桃姫も同意してから雉猿狗の体を見た。
「私は、そうですね。"汚れない体"ですので」
「なんだそりゃ」
雉猿狗の言葉にあぐらをかいて座るおたつが疑問の声を上げた。
「それでは、温泉に行きましょうか。伊豆といえば、温泉。これは間違いなしです」
雉猿狗は話を変えるようにおたつと桃姫に言った。
「えーっと。悪いけど、あたしは一銭も払う気はないよ。費用は全部、あんたらが払ってね」
「はい、お任せください」
おたつが開き直ったように言うと、雉猿狗が笑みを浮かべながら了承した。
「さっきお金集めても意味が無いとか言ってたのに……」
桃姫がおたつを見ながら呟くように言うと、おたつは桃姫の短い髪をサッと手で払うようにして口を開いた。
「それとこれとは関係ないよ──桃色」
「も……桃色……」
それから三人は夜明けの砂浜から移動して海岸沿いに建つ旅館に入った。
太平洋を一望できる伊豆の露天風呂に入り、体の汚れを落として英気を養うと、おたつが海岸線に昇る朝日を見ながら言った。
「連れて行ってやるよ」
「……え?」
両腕を岩の上に預けて湯に浸かったおたつが太陽の光を浴びながら唐突に発した言葉を聞いて桃姫が声を漏らした。
「いま、お天道様見て決めた。あんたらを安房まで連れて行ってやる」
「本当ですか……!?」
岩の上に座って日光浴をしながら、手ぬぐいで胸元を隠した雉猿狗がおたつに驚きとともに聞き返した。
「何度も言わすんじゃあないよ。黒潮に乗って安房に行く。志摩に帰っても誰もあたしを待ってくれちゃいないんだ」
おたつはそう言うと、おたつの顔を見る桃姫と雉猿狗を見て、そして輝きを増していく太陽を見た。
「それにあの家にいると弥彦のことを思い出しちまう……あたしだって、あんたらみたいに前に進まなきゃならない」
おたつはそう言って湯船からザバッ──と音を立てながら立ち上がると桃姫と雉猿狗に告げるように言った。
「──あんたら、あたしを安房まで連れて行ってくれるかい?」
「……はい!」
「はいっ!」
桃姫と雉猿狗が威勢よく答えて返し、そして三人は砂浜に留めてある船へと戻るのであった。
「──ヨイ、サー! ヨイ、サー!」
おたつが声を張り上げながら朝の海原へと船を漕ぎ出した。波は穏やかで遠くには他の漁船の姿も見えた。
「おたつ様、私も漕いでみてもよろしいでしょうか?」
「……ん? ああ、やってみなよ。なかなかにコツがいるけどね」
沖合をスーッと進んでいるときに雉猿狗がおたつに漕ぎ役を打って出ると、櫂を受け取って雉猿狗が漕ぎ出した。
「……ヨイ、サー! ……ヨイ、サー!」
雉猿狗も見様見真似でおたつの掛け声を発し、櫂を全力で漕ぐと見る見るうちに船は速度を増していき、面白いほどに青い海原を駆け抜けた。
「あはは……! 雉猿狗、すごい!」
海風が桃姫にあたり、楽しそうに声を出すとカモメが並んで滑空して船は安房に向かう黒潮に乗った。
「こっから先は、黒潮に乗っていけば安房につく。もう戻れないけど、まぁ、思い残すことはないやね」
おたつが雉猿狗から櫂を受け取って船の上に置くと、船の先頭に座って一息ついた。
「おたつ様は、安房でも漁師をなさるのですか?」
雉猿狗がたずねるとおたつは白い歯を見せてひとしきり笑ったあとに体を仰向けて空を見た。
「……んなこと、いま決められるわけないやね」
おたつがそう呟くように言ったとき、ポツ……ポツ……とおたつの顔に水滴が落ちてきた。
「……あ?」
声を漏らしたおたつが見上げた空。白い雲がどんどん色を濃くしていき、灰色に変わっていく。
「──まずい……嵐が来る」
おたつが言った次の瞬間、空が眩く光ると、凄まじい雷鳴があたりに響き渡り、豪雨が周囲に降り注いだ。
「……なんで……! さっきまで、あんなに晴れてたのに……!」
桃姫が声を上げると、おたつが船床に敷かれていたすだれを持ち上げて桃姫と雉猿狗の頭の上に乗せる。
「海の天気ってのは、こういうもんだ……!」
桃姫と雉猿狗は受け取ったすだれで大雨をふせぎながら、おたつは船の先頭にしがみつくようにして荒れ始めた波に耐えた。
「……雉猿狗っ! おたつさん……! あれ何……!?」
桃姫がすだれを持ち上げて海面を見ると黒い背びれが浮かんでいるのが見えた。
最初は一本、しかしそれは時間とともに増えていき、三本、六本と、黒い背びれが船を取り囲むように旋回していることに気付いた。
「……あれは……! 磯撫(いそなで)……ッ! 嵐の海に現れる、人喰い魚の群れだよッ──!!」
おたつが戦慄の表情で海面を見ながら叫ぶと、すでに黒い背びれは十本を超える数になっていた。
ぐるぐる、ぐるぐると執拗に船の周りを旋回し、まるで大渦を起こそうとしているかのようだった。
「──うわああッ……!」
「──きゃああッ……!」
船が大きく揺れておたつと桃姫が悲鳴を上げた。旋回していた磯撫の一体が船底めがけて体当たりをしたのであった。
「こいつら……! 本当にあたしたちを喰うつもりだよッ──!!」
おたつが海に落ちないように必死に船の縁にしがみつきながら叫ぶと、桃姫の隣にいた雉猿狗がすだれを桃姫に渡してスッと立ち上がった。
「……雉猿狗……?」
桃姫はそのとき初めて雉猿狗の"異変"に気付いた。バチバチ──バチバチ──と黄金色の雷光を体から静かに放っている雉猿狗。
「……桃姫様、おたつ様……しばしの間、目を閉じていてくださいませ──」
翡翠色の瞳を輝く黄金色に染めて、"神雷"をバチバチと体から激しく放ち始めた雉猿狗が告げると、その姿を見て息を呑んだ桃姫とおたつが言われたとおりに固く目を閉じた。
「──今こそ、日ノ本最高神天照大御神様より承りし、神の御業を体現せしめる時──」
天界に宣言するように声を発した雉猿狗が両手を広げるとバババババッ──と全身から放たれた黄金色の雷光が雨雲へと駆け昇っていく。
そして、一瞬、世界が静寂になり、真っ白に染まった、次の瞬間。
「──神術──"千却万雷(せんきゃくばんらい)"ッッ──!!」
雉猿狗の詠唱を合図にして、万を超える黄金色の稲妻の大群が、雨雲から放たれると、駆け巡る稲妻同士が糸をより合わせるように結びついて太くなり、威力を増しながら海面に向かって降り注いだ。
そして、万から千の数になった太く育った稲妻が、船を取り囲んでいたすべての磯撫の背びれに向かって次々と命中した。
「──……っ!!」
桃姫とおたつは巨大な雷鳴と衝撃に目を閉じながら、両腕で顔を覆った。
そして、ゴロゴロ──という雷鳴がゆっくりと消えていくと、それと同時に雨すらも消えていったことに二人は気づいた。
「……う、うう……」
うめいた桃姫が腕を下げて目を開けると、雨雲は消え去り、青空と太陽が姿を現していた。
そして、桃姫の隣には、いつもと変わらない翡翠色の瞳をした雉猿狗が穏やかに座っていた。
「──た……たまげた……」
おたつが腰が抜けたようにへなへなと船体に倒れ込みながら声を上げる。
船のまわりの海面には、百体を超える黒い磯撫の死骸がぷかぷかと浮かんでいた。