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22.安房の潮風

 おたつと桃姫は、起きた現象に驚愕しつつ、荒波から穏やかな波に変わった船に揺られながら、雉猿狗の顔を見た。


「すみません、少々疲れてしまいました……」


 雉猿狗はそう言うと、目を細め、うつらうつらとゆっくり揺れたあとに桃姫の膝の上にしなだれかかった。


「……雉猿狗……!」


 桃姫が慌てて雉猿狗の顔に手を置き、様子を確かめると目を閉じて静かに寝息を立てる美しい横顔が見て取れた。


「……寝てる……」


 桃姫は呟いた。思えば、この旅路において雉猿狗が寝ている姿を初めて見たかもしれなかった。

 桃姫と並んで布団に横になっていることはある、しかしそれは体を横たえて休んでいるだけであり、実際に寝ているわけではなかったのである。


「なんだってんだい……今のは……」


 倒れていたおたつがよろよろと起き上がりながら言った。


「……あの、おたつさん、実は……雉猿狗は──」


 桃姫がおたつに事情を説明しようとしたそのとき、おたつがピッと手を上げて桃姫を黙らせた。


「──ここ、どこだ……」


 そう言うと立ち上がり、船の先端に片足を乗せ、手で日差しを作って晴れ渡った大海原を見渡す。


「……まずい……さっきの嵐で黒潮を外れて、南の沖合に流されたかもしれないよ」

「……え」


 おたつの言葉に桃姫が声を漏らした。


「……これだと、安房どころじゃない。あたしたち、聞いたこともない無人島にたどりついちまう」


 おたつはそう言って櫂を持ち上げて握りしめる。そして、海面にざぷんと突き刺してから空を見上げた。


「お天道さまは沈みかけている、ということはあっちが西でこっちが東……なら、北は……よぉし」

「おたつさん……」

「安心しな、桃色。もう一度黒潮に乗ればいいだけさね……! 女だてらに漁師やってるわけじゃあないんだ……ヨイ、サー! ヨイ、サー!」


 心配そうな顔を浮かべる桃姫に白い歯を見せて言ったおたつは掛け声を上げながら力いっぱい櫂を漕ぎ、船を北に向けて旋回すると前進させた。

 陽は刻一刻と落ちていき、船が黒潮に乗る前に上弦の月が照らす夜が訪れていた。


「……どうだい、桃色。雉猿狗さんの様子は」


 漕ぎ続けて疲れ果てたおたつが船の縁に腰掛けながら桃姫にたずねた。


「はい、まだ寝ています。でも、顔色は悪くないです」


 桃姫がおたつに言って返すと、眉根を寄せながら口をとがらせた。


「……それから、私のこと桃色って呼ぶのは、やめてください」

「はっ。そうかい……悪かったね──桃色」


 桃姫の抗議に対して、意地悪そうな笑みを浮かべて言ったおたつは南の空に浮かぶ黄色い月を見上げ深く息をはいた。


「船幽霊ってのはさ……誰かがその人に帰ってきてほしいと願う限り、成仏できないんだって……そんな言い伝えがあるんだ」

「…………」


 誰に言うでもないおたつの言葉を桃姫は穏やかに寝息を立てる雉猿狗の銀髪を撫でながら聞いた。


「……弥彦がいつまでも海をさまよい続けてるのは……あたしのせい、なんだろうね……」


 おたつは言うと、胸元に手をぐっと差し入れて赤い着物をまとった子供の人形を取り出した。


「人の想いってのは、人を前に進める力にもなるし、人を縛り付ける重しにもなるんだ……あたしは前に進まなきゃならないし、弥彦は身軽にならなきゃならない……」


 おたつはそう言って目を閉じると、覚悟を決めたように開き、そして人形を海に投げた。


「…………」


 月が青白く照らす海原をぷかぷかと浮かんで漂っていた人形は、ゆっくりとワタに海水を含んで重くなっていき、ついには音もなく海中へと沈んで消えていった。

 おたつと桃姫は黙ってその様子を見守った。それはまるで、この世に生まれてこなかったおたつの子供に対する葬送のようであった。


「……桃姫」


 しばしの沈黙の後、おたつに呼びかけられた桃姫がおたつを見ると、おたつは涙を流していた。


「……ありがとね」


 そう言って白い歯を見せてほほ笑むと、桃姫は頷いて返した。

 そうして、静かな波の音と、ギィギィ──と揺られて軋む古びた船の音とが聞こえる中、桃姫とおたつはいつの間にか深い眠りについていた。

 そして、おたつは夢を見た。


 ──おたつ、おら、そろそろ行くだよ。


 日に焼けた肌に穏やかな笑みを浮かべた弥彦が言う。


 ──おたつ、おめぇはまだ若い。人生、これからだ。おらの分まで、生きてくんろな、おたつ。


 弥彦はそう言うと、おたつに手を振った。おたつは弥彦に別れの言葉を言おうとするが声が出てこない。

 そして、ハッ──と目覚めるとあたりが白い濃霧に包まれていることに気づいた。


「……弥彦ッ──!」


 桃姫と雉猿狗は眠りに落ちている。おたつだけが目覚めて立ち上がると、船を先導するように四隻の幽霊船団が前方を進んでいた。

 おたつの船は誰も漕いでいないのに幽霊船団の後を追いかけるように夜の海原を波を立てて進んでいた。


「──……おたつ……ありがとなぁ……ありがとなぁ……──」

「……ッ!!」


 弥彦の声を耳にしたおたつは、最後尾の幽霊船の後部に立って穏やかな顔つきで手を振る弥彦の姿を確認すると、手を振り返して叫んだ。


「──あんたぁッ!! ありがとねぇ……ッ!! あんたのことは、絶対に忘れんからねぇッ──!!」


 おたつの言葉を聞き受けて、満足気にほほ笑んだ弥彦の体が段々と白い霧に溶けるように消えていく。それに対しておたつは涙を流しながら心の底から感謝の言葉を発し続けた。

 弥彦を完全に失った幽霊船は、濃霧の中にスーッと消え去っていき、そして霧も次第に晴れていった。


「──……桃姫……雉猿狗さん……いい加減に起きな」


 おたつから穏やかな声をかけらた桃姫と雉猿狗がまぶたを開いてゆっくりと起き上がる。

 東の地平線から太陽が昇り始め、きらきらとまばゆく照らす海面に二人は思わず目が眩みそうになった。


「──ほら、あれを見なよ」


 そう言ったおたつが指差す先を見た桃姫と雉猿狗は遠くに陸地と漁村があるのが見えた。

 桃姫が目をこすり、雉猿狗が驚きに口を開くと、おたつが白い歯を見せて笑みを浮かべながら言った。


「──安房にご到着だよ。寝坊助さんたち──」 


 おたつ、桃姫、雉猿狗の三人は安房の砂浜に船を留め、房総半島に降り立った。


「おたつさん、なぜ起きたら安房についてるんですか……夜中になにかあったんですか……?」

「……さぁ、なんだろうねぇ」


 桃姫がおたつにたずねてもおたつは意地悪な笑みを浮かべながらはぐらかすのみであった。

 一方の雉猿狗は太陽に向かって両手を高く上げて気持ちよさそうに伸びをしながら、全身で太陽光を"摂取"していた。


「ん~、やっぱり私は海より陸地のほうが好きです♪」


 そう言って砂浜の感触を楽しみながら太陽のほほ笑みで言った。


「──おーい、なんだぁ、あんたら、どっから流れてきたっぺよぉ……!」


 船の前にいた三人に向かって漁村から男の声が投げかけられる。


「どっからって、志摩からやないの──」


 おたつが近づいてきたガタイの良い男に対して言うと、その顔を確認して眉根を寄せた。


「──あれ……あんた……ん!?」

「……あ? ……あ!? ……ああッ!?」


 おたつと男が互いに眉根を寄せ合って顔を見合う。すると同時に指をさし合って大声を発した。


「──多五郎ッッ──!?」

「──おたつッッ──!?」


 あまりの息の合い方に桃姫と雉猿狗は驚いて一歩身を引いた。


「──あんた!! こんなとこで何してんだ!! あんた、十年前に死んだじゃなかったのけ!!」

「バカ言うなおたつ! おらが死ぬわけねぇっぺな! それよりおたつ、なしておめぇが安房さいるだ!!」


 おたつと多五郎が言い合っている中、雉猿狗が声をかけた。


「えーっと、おたつさん……こちらの殿方は?」

「こいつは、多五郎つって……! その……あたしの"前の旦那"だ……!」

「……えっっ──!?」


 予期せぬおたつの返答を耳にした桃姫が口を大きく開けて驚きの声を発した。


「おい、"前の旦那"って……? どういうことだ、おたつ」

「あたしはあんたが死んじまったと思って……! あんたの親友の弥彦と……!」


 "前の旦那"という言葉を聞いて血相を変えた多五郎に対して、おたつが眉根を寄せながら言って返した。


「弥彦ッ……!? あんのやろォッ……!! 人の嫁さんを……!! カァッ──!! とっちめてやらねぇと……!!」

「バカっ!! ──弥彦はねェ……! それよりあんただよ!! ──あんた!! なんで十年も安房にいんのよ!!」


 声を張り上げながら腕まくりをした多五郎に向かって、おたつは目元にうっすらと涙を浮かべながら叫ぶように声を発した。


「なんでって……! そりゃあ……おらだって、流れ着いてから、途方に暮れて……!」

「途方に暮れて十年かいッッ──!! ……バカ! ……この大バカ──!!」

「大バカとはなんだ……!! おらだってなぁ……!! おらだってっ……!!」


 おたつと多五郎の間を大声で飛び交う口論を聞きつけて、何事かと数人の村人が砂浜に集まってきた。


「おたつさん、もうそのへんにされては……」

「……そ、そうだね」


 雉猿狗が諌めるように言うと、おたつは集まってきた村人たちの姿を見て冷静さを取り戻し、頭の白い手ぬぐいをほどいて顔を拭った。


「──みなさん、多五郎のお知り合いですかな?」


 村人たちの中から村長らしき老人が前に出て三人に声をかけると、多五郎が口を開いた。


「ええ。志摩から流れ着いたそうで……村長。あさげ、まだ残ってるかいね? こいつらに食わしてやっていいっぺかな?」


 多五郎がそう言うと、村長は朗らかな笑みを浮かべながら頷いて返した。

 そして、三人は村の中央にある集会所の座敷に上がり、大鍋から振る舞われた具だくさんの海鮮汁を食した。


「多五郎はこの村一番の働き者でのう。今朝も早くに漁に出てこのエビと魚を取ってきてくれたんだ」


 村長は大鍋の中の魚介を目線で示しながらそう言うと、多五郎は気恥ずかしそうに笑った。


「そうかい、あんた……確かに働き者だったもんね。あたしはそこが気に入って一緒になったんだ」


 おたつはそう言って椀の中の海鮮汁をすすると村長が口を開いた。


「一緒……とは、やはりあなたと多五郎は夫婦であったと。そういうことですかな?」


 村長の言葉を聞いた多五郎は残念そうな顔をしたあとに首をぶんぶんと横に振った。


「いんや、そいつは十年前の話だ……おたつはな、弥彦っつうおらの親友と──」

「──弥彦はね……死んじまったよ」


 多五郎の言葉を遮るようにしておたつは真実を告げた。


「あたしを残して海で死んじまった……だから、あたしはこの二人を安房まで運ぶことにしたんだ。もう、志摩には戻らないと心に決めてね……」

「そんなっ……弥彦……! そうか……」


 おたつの言葉を聞いた多五郎は、目にぶわっと涙を浮かべるとあぐらをかいた自分のふとももをバンと強く叩いた。


「……弥彦は、おらがいなくなって、さみしいおたつを慰めてくれたんだな……それを、おらは……弥彦、すまねぇ……」


 多五郎はぽたぽたとあぐらをかいたふとももに涙を落とし、おたつはその様子を黙って見た。


「おたつさん……多五郎はのう、おたつさんのことを忘れたことはないよ」

「……え?」


 村長の言葉を聞いたおたつが声を漏らした。


「さっきも言ったけどの、多五郎はこの村一番の働き者だ。だから縁談の話だってよぉく来る……けれど、"おらには志摩に残した嫁さいる"と、そう言って……かたくなに独り身をつらぬいておる」

「…………」


 村長の言葉を聞いて黙り込む多五郎。集会所のまわりに集まった野次馬の村人たちの耳にも村長の言葉は入った。

 戸口からは大人だけじゃなく子供たちものぞきこみ、姉らしき子供がぐっと坊主頭の男の子の頭をおさえて中をのぞきこんだ。


「多五郎……あんた……」

「……おたつ……」


 おたつが椀と箸を置くと、多五郎と目を合わせた。そして、多五郎が太い眉毛に力を込めて口を開いた。


「──おたつ、おらたち、やり直せるだかな……?」

「……さぁね……でもあたし、この村で暮らすよ……だから、ゆっくり──ね、あんた」


 おたつの白い歯を見せてほほ笑んだ顔に、多五郎が、"ああ、この笑顔が好きだったんだ"と思い出す。

 そのとき、どさどさっと戸口から音がして子供たちが玄関になだれ込んできた。


「──お、おめぇらなにやっとるだ……!」

「多五郎兄ちゃん、おめでとう!」

「多五にい結婚だ……!」


 立ち上がりながら声を上げた多五郎に子供たちがからかうように祝福の声を上げた。


「──こら! おめぇら! 大人をからかうでねぇっぺ!」

「わぁー!」

「逃げろー!」


 多五郎がどたどたと玄関まで走り、草履をはいて戸の外まで追いかけていくと子供たちはきゃっきゃとはしゃぎながら逃げ回った。


「見ての通り。多五郎は、子供たちにも好かれておってね」


 村長がほほ笑みながら言うと、おたつは吹き出すように笑った。


「おたつさん。村の代表として、あなたのことを歓迎するよ」

「っ……! ……あたしは多五郎に似て、体力くらいしか取り柄のないがさつな女ですが……その……なにとぞ、よろしくお願いします」


 村長はおたつの目を見て穏やかな声で告げると、おたつは頭を下げてそう言った。

 桃姫と雉猿狗は魚介の出汁がよく出た海鮮汁を飲みながら、そんなおたつの様子をなごやかに眺めていたのであった。

 そして、次の日の朝。桃姫と雉猿狗は出立することをおたつに告げた。


「……そうかい、もう行くんだね」

「はい。お世話になりました、おたつ様」


 穏やかだが凛とした声で答える雉猿狗の翡翠色の瞳を見て、足止めすることはできないのだとおたつは理解した。


「桃姫。怪我や病気には気をつけるんだよ」

「……はい」


 おたつは桃姫に声をかけ、桃姫は頷いて答えた。そして、おたつが着物の胸元に手を差し入れると口を開く。


「いいものやるから。目を閉じてあたしに両手を出しな」

「……え……は、はい」


 そしておたつは、あの日雉猿狗が手渡した十四枚の小判を取り出すと目を閉じる桃姫の両手の上に置いた。


「──あたしを安房まで送り届けてくれた駄賃だよ──"桃色"」


 そう言って日に焼けた肌に映える白い歯を見せてほほ笑んだおたつ。

 安房の潮風と磯の香りが桃姫と雉猿狗の身体を包み、新たな日ノ本の地へと二人の足を運ばせるのであった。

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