〈黄金の錫杖〉をつきながら廊下を歩いた役小角は、引き戸が開け放たれた部屋の前に立つと、顔をそむた状態で寝台に横たわる桃姫の姿を確認して部屋に足を踏み入れた。
そして、燭台のロウソクに指先で触れて火を灯すと、かすかな寝息を立てる桃姫の前まで移動した。
「──桃の娘。おぬしには、まことに驚かされてばかりであった……数多の試練を前にして、今日までおぬしが生き延びてこれたのは──間違いなく、おぬしの秘めたる力の賜物よ。かかか」
役小角は笑いながらそう言うと、枯れ枝のような細い指を伸ばして桃色の長い髪に触れた。
さらさらと指から落ちるその桃色の髪は、まさしく"三番目の弟子"、桃太郎の髪の毛と同じものであった。
「──すべては"大空華"を咲かせるため──とはいえ、おぬしの父……桃太郎と過ごした時間は、わしにとってかけがえのない輝かしい日々であった……今でも思うよ──ああ、あの時、わしがそのまま桃太郎と共に歩む道……"光の道"を選んでいたら、どうなっていたものか……とな」
役小角は闇に沈んだ漆黒の眼を細め、桃姫の後頭部からかつての桃太郎の姿を連想しながら嘆息した。
「──しかし、それはどうで叶わぬ道──わしは、千年前に悪路王に惚れてしもうたのじゃ。この"千年の片想い"……これを果たさねば、わしは成仏できんのじゃよ──桃太郎……桃の娘よ──わしは、おぬしらとは同じ道を歩めん宿命なのよ──わかってくれるな?」
役小角は悲しげにそう言うと、目を大きく開き、深淵の大宇宙をたたえる眼で寝台に横たわる桃姫の姿を見下ろした。
「──だが最後に一つだけ、わしの頼みを聞いてくれんか桃の娘よ……おぬしの……その桃色の髪の毛から漂うあの不思議な桃の香り──あの匂いを、最後にわしにたんと嗅がせておくれ──それで、"終い"にしようではないか」
役小角はそう告げながら満面の笑みを浮かべると、桃姫の後頭部に自身の顔を近づけた。
そして、スン──スン──と盛大に鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。しかし、待望のその芳香を鼻腔に入れた瞬間、役小角はグッ──と激しく顔をしかめた。
「──ンぐッ……!? 桃の香りが……せぬぞ! それどころか……いったい何だ──このひどくすえた、ジジイのような悪臭はッッ……!!」
うめいた役小角が桃姫の後頭部から顔を離しながら、思わず手で鼻を抑えると、顔をそむけていた桃姫がバッと振り返りながら、役小角に顔を向けた。
「──バぁカめ。ひっかかりおったな──小角」
「……なッ……!?」
目を閉じた桃姫の口から発せられるしわがれた老人の声。驚嘆した役小角は後ずさりしながら、声にならない声を漏らした。
たじろいだ役小角に向けて桃姫は両目をカッと見開いた──しかし、その両目は桃太郎譲りのあの美しい生気あふれる濃桃色の瞳ではなく、白濁して光を失ったくすんだ両眼であった。
「──"わしじゃよ。ぬらりひょんじゃよ"ッッ──!!」
老いた声で桃姫が告げた次の瞬間──桃姫の全身がボンと紫色の煙に包まれると、中から飛び出したぬらりひょんがぐるんと宙空で一回転してから寝台に着地した。
「……なヌッ──!?」
驚愕の声を上げた役小角は部屋の扉の前まで素早く下がり、咄嗟に〈黄金の錫杖〉をぬらりひょんに向けて構える。
「──久しぶりだのう、小角──はぁて、300年……いや400年ぶりかのう。相変わらず達者そうで何よりじゃ、ほっほっほ──まあ、随分と人相は悪くなったようじゃが……?」
「……よ、妖怪風情めが……! わしを謀(たばか)りおったのかッ──!!」
白濁した眼で役小角を睨みつけながら告げたぬらりひょんに対して、珍しく笑みを崩した役小角が声を荒げた。
「おひょひょひょひょ、何を言うとるか──!! 千年以上生きとるおぬしも、とっくに妖怪のたぐいじゃろうに──!!」
「──桃の娘はどこだ……! わしの桃をどこへやったッ──!!」
「桃姫はわしの娘じゃボケッ! ──おぬしに手出しなどさせるかよッ──!!」
激昂した役小角は怒声を発すると、ぬらりひょんもまた激昂して怒号を叫び返した。
「──ぬンッ……! ならば、消え失せいッ──!!」
役小角は右手に握った〈黄金の錫杖〉をぬらりひょんに向けると、素早く左手で印を結んで金輪が並んだ頭から紫光する鎖を撃ち放った。
「──ほほほほッ! このぬらりひょん! そこいらの妖(あやかし)と同じにしてもらっては困るぞいッ──!!」
「ええい──!! ちょこまかと──!!」
ぬらりひょんは黒い部屋の中を縦横無尽に飛び跳ねながら、迫りくる紫光する鎖から逃れ続ける。
「桃姫はわしの娘も同然ッ──!! 誰にも手出しはさせんよッ──!! ──わしだって手出しできんのだからッ!!」
「──知るかッ! 大人しくせいッ──!!」
部屋の中で飛び交うぬらりひょんと役小角の怒号を耳にしながら、鬼ノ城の廊下を走りながら夜狐禅が桃姫の手を引いていた。
「──桃姫様……! 頭目様が引き止めているうちに、早く鬼ヶ島から脱出しましょう……!」
「うん……! ──でも、夜狐禅くん……ぬらりひょんさんは大丈夫なの……!?」
桃姫は役小角と戦うぬらりひょんの無事が気になって、手を引っ張りながら走る夜狐禅の背中に向けて声を発した。
「──心配ありません! 頭目様が負けたのを、僕は今までに見たことがございません……! ──あ、いや……"雉猿狗様以外"には……!」
「……夜狐禅くん──! うん……!」
桃姫は夜狐禅と共に鬼ノ城の廊下を駆け抜けると、大扉を開いて"大呪札門"が立つ広場に出た。
そして、"大呪札門"をくぐり抜けて夜の帳が落ちた本丸御殿の庭に飛び出した桃姫と夜狐禅。
その庭は桃姫と五郎八姫が毎日のように剣術の鍛錬に使っていた見事な庭園だったが、今や見る影もないほどに破壊され尽くしていた。
「……そんな……!」
崩れた灯籠の火が伊達軍の兵の死体が転がる庭を照らし出し、桃姫は声を漏らした。
「桃姫様……! 雉猿狗様と政宗様、五郎八姫様が仙台城の天守閣にて、鬼蝶と戦っておられます! 加勢してください! ──僕は、頭目様の助太刀に戻ります!」
夜狐禅が桃姫にそう声をかけて"大呪札門"に戻ろうとすると、夜狐禅の背中に向けて桃姫が慌てて声をかけた。
「夜狐禅くん……! ……助けてくれて、ありがとう……! ──気をつけて……!」
「桃姫様も……お気をつけて……!」
夜狐禅は桃姫に頷きながら答えて返すと"大呪札門"をくぐり抜けて鬼ヶ島に戻っていった。
「……仙台城……あんなことに……」
鬼人兵によって踏み荒らされた本丸御殿の庭に立つ桃姫は、夜空に向けて火柱を立てながら燃え上がる仙台城を見上げると、戦慄しながら震える声を漏らした。
「……雉猿狗、いろはちゃん、政宗さん──今、行くからね──!!」
意を決した桃姫は、濃桃色の瞳に力を込めて声を上げ、本丸御殿から仙台城に向けて駆け出した。