「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸いになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう。」
カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」
ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」
カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
───宮沢賢治・著 『銀河鉄道の夜』より抜粋
……深夜二十三時のこと。
私と千秋ちゃんは、とあるバーで一緒に飲んでいた。
そこはお酒よりもケーキが主軸の女性向けバーで、薄明かりの下で物静かな雰囲気を楽しみつつ、ケーキとお酒を嗜むといった、そんなお店だった。
私と千秋ちゃんはカウンターに並んで座り、各々ケーキとお酒を目の前に置いている。
千秋の前にはモンブランとハイボールで、私の前にはチーズケーキとレモンサワーがあった。
「……美結ちゃん」
私のぽつりと呟く独り言は、店内にうっすら流れるBGMにすらかき消さるほど、小さかった。
流れているBGMは、ジムノペディの第一番。寂寥感と哀愁のこもった、孤独なピアノの旋律が店内を包んでいる。この曲を聞いていると、吹奏楽部だった学生時代を思い出す。
「……ねえ、千秋ちゃん」
隣にいる彼女へ、私は声をかけた。千秋ちゃんはハイボールの中の氷がからんと溶ける様を見ながら、私へ「なに?」と返した。
「明くんと美結ちゃんは、なんていうか……本当に、苦しいことがたくさんあるよね。私、なんだかやりきれないな……」
「……………………」
「明くんも美結ちゃんも、若い内からお母さんを喪ってしまって……。美喜子の場合は自業自得なところも多いけど……でも、こんな最期はあんまりだよ……。美結ちゃんも明くんも、さすがに堪えちゃうって……」
「……………………」
「どうして神様は、あんなに良い子達をいじめるんだろう……?」
「……神なんていないよ、城谷ちゃん」
「千秋ちゃん……」
「もし本当にいるんであれば、私が絶対にぶん殴ってやる」
そう言って、千秋ちゃんはハイボールに口をつけた。コップの半分ほどまで飲み干すと、カンッと音を立てて置いた。
「……城谷ちゃん、私は……どうすれば良いんだろうか?」
「え……?」
千秋ちゃんは珍しく、とても弱々しい口調だった。いつも『私は鋼の女』なんて言って笑っている、あの千秋ちゃんが……。
「私は……城谷ちゃんも知ってる通り、いじめられっ子だったし……家庭環境も最悪だった。親もいじめっ子もみんな殺して、私も死んでやるって、何回思ったことか」
「……千秋ちゃん」
「自分がそんな人生だったから、余計に彼らのことが気にかかる。私が子どもの頃に、大人からしてほしかったことを……彼らに、してあげたいって」
「……………………」
「でも、なんか……分からなくなった。私は二人の幸せのために、美喜子を裁いた。二人から遠ざけて、美喜子に報いを受けさせた。でも……それで、それで本当に良かったんだろうか……?私は今日の美結氏を観て、そこがとんと分からなくなってしまった」
「……………………」
私たちの席から少し離れたテーブル席で、女性客が数人騒ぐ声が聞こえる。
「それでさー、彼氏がさー」
「はー!?それヤバいねー!」
「ねー!ちょっとおかしいよねー!」
……ケタケタと笑う彼女たちのいるところと、私たち二人のいるところが、同じ店内であるはずなのに、まるで別の世界にいるかのような……そんな場違い感を覚えていた。
「……ちくしょう、美喜子め。クズでバカの癖に……美結氏を悩ませやがって……」
千秋ちゃんはカウンターに肘をつき、手を額に当てて、眼を閉じた。
「独りぼっちになったのだって、どう考えても自分のせいじゃない。身から出た錆……孤独になって死んだって、ちっとも美結氏のせいなんかじゃない。あいつが最低のクソ野郎で、美結氏のことたくさん苦しめたから、今度は自分が苦しむ番になった……。それだけだって」
「ちょっと、千秋ちゃん……」
「あんたの杜撰な生き方のせいで、美結氏にたくさんしわ寄せが来るだろうってこと、少しは想像しておけよ。赤ちゃんだって美結氏が引き取ろうとしてるんだぞ。あんたがちゃんとしておけば、こんなことにはならなかったんだ。自己中で能無しのバカ女が……」
「千秋ちゃん、言いたくなる気持ちは分かるけど、美喜子はもう故人なんだから、そこまでにし……」
と、そこまで言いかけて、私の言葉は止まった。
「……………………」
千秋ちゃんの眼から、涙が溢れていた。唇をきゅっとつぐんで、何もかもを堪えるように泣いていた。
すん、すんと、千秋ちゃんの鼻をすする音が聞こえる。歯をぎりっと噛み締めて、肩を震わせている。
「本当にバカな女……。だって、美結氏の手紙は『さようなら』なのに。完全に縁を絶たれた言葉なのに。それすらも嬉しかったって……意味分かんない。頭おかしいんじゃないの?」
「……………………」
「あんたねえ、繋がりに餓えすぎだっての……。最期になってようやく、美結氏に謝罪と感謝ができるんなら、どうして生きている内にしなかったのよ……。あんた、最期まで自己中すぎんのよ……」
「……………………」
「ああ……もう。私としたことが……。この先の人生で、絶対泣いてたまるもんか、二度と泣くもんかって、そう誓ったのに…………」
……私は椅子ごと彼女のそばに近寄って、背中をゆっくりとさすった。
ジムノペディが、透明な旋律を静かに奏でていた。
……6月の30日。
美結のお母さんが亡くなったのが6月の13日だから……今、ようやく17日が経過したと言ったところだろうか。
未だに曇天の具合を見せる空に、誰しもがみんな辟易していた。 今日も小雨がぱらぱらと降り続けていて、空気も異様に湿っている。
私はそんな外の様子を、授業を受けながらぼんやりと眺めていた。
『メグちゃん』
美結のお母さんが亡くなったその日に……明さんから言われた言葉を、私は思い出していた。
美結がお母さんの亡骸のそばにしばらくいる間、私と明さんは廊下で少しばかり話をしたのだ。
『今日は遊びに来てくれたのに……ごめんね』
『いえ、そんな……』
『……なんか、何て言うのかな……。あんなに嫌いだった美喜子さんも、いざ亡くなってしまうと、こんなにも悲しい気持ちになるんだなって、今……実感したよ』
『……………………』
『ただ、100%の悲しみ……というわけじゃない。心の片隅に、“ほら、やっぱりな”と思っている自分がいる。“美喜子さん、そんな生き方じゃ、最期は悲惨な目になるって、俺は分かってましたよ”と、そう思ってる自分がいる。それが……醜くて仕方ない』
『…………醜い、ですか』
『うん。なんていうか、浅はかなマウントなんだよな。“ざまあみろ!あんたより俺の方がみんなに愛されてる”とか、“俺の方がいい人生を歩んでる”とか、そういうマウント。それをなんとなく自分の中に感じる。確かに美喜子さんはひどい人だったけど、でもその本質は……寂しくて仕方なかっただけの、小さな子どもだったんだ。そんな人に対して、何を俺は……』
『……………………』
『……ごめんメグちゃん。変なこと口走っちゃったね』
『いえ……』
『たぶんね……自分が思っている以上に、気が動転してるんだと思う』
『それは……うん、仕方ないと思いますよ……』
『……………………』
『……………………』
『……ああ、なんだか…………』
身体が重たいや……。
「……………………」
私は、何か力になれることはあるだろうか? まだ四十九日も過ぎていないのに、「気晴らしに遊びに行こう!」だなんて打診をするのはさすがに憚れる。
だけど、このまま重い気持ちを引きずってたら、きっと大変だよね……。
(……時間が過ぎてくれるのを、待つしかないのかな……)
そんな風に思っていた矢先、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「それじゃあ、今のところを次回までに復習しておくように」
先生がそう言って教室から立ち去っていくと、本日最後の授業を終えたクラスメイトたちが解放感にかられてガヤガヤと騒ぎ始めた。
「はー!終わったー!」
「藤本の話、なげーんだよなー」
「ねえねえ、帰りにカラオケ行こうよ!」
周りの席の人たちと談笑したり、席を立って友だちのところへ訪ねに行ったり、帰りのHRが始まるまでの、つかの間の休憩を楽しんでいた。
そんな中、私は一人黙々とスケッチブックに絵を描いていた。友だちが全くいないわけじゃないけど、こういう隙間時間は独りでいたいタイプなの。誰かと喋る気持ちにもなれないしね……。
(……ん?)
ふと、左目の端にスカートが見えた。席の隣に、誰か女子生徒が通りすがったのだ。
その子は私の左横を通過した後、右方向に進路を折れ曲げて、私の席の前を左から右に通過した。
その間も、私が顔を向けているのはあくまで机の上の紙。その子が誰なのかは把握できなかったけど、なんとなく自分に物理的に近い人ってちょっとだけ意識をしてしまう。
(まあ、どうせトイレにでも行くのだろう)
そう思って気にしないでおこうとした、その時だった。
ぽとりと、私の描いている絵の上に、小さく四つ折にされたメモが置かれた。
そのメモを置いたのは、今しがた私の前を過ぎ去っていった女の子であることはすぐに分かった。
手に持っていたシャーペンを机に置き、そのメモを開けてみた。それには、こう記されていた。
『放課後、この教室に残って』
「……………………」
ここで私は、ようやく私の前を通り過ぎたその子へ目をやった。
彼女は既に私へ背を向けていて、もう教室を出るところだった。だが、その後ろ姿だけで、彼女が誰かなのかすぐに理解できた。
最近染めた、水色のボブヘア……。堂々と胸を張って歩く女……。
湯水 舞だった。
「……それでは、さようなら」
「「さようなら!!」」
担任の先生が一度そう言うと、たちまち蜘蛛の子を散らすようにして、クラスメイトたちは教室を出ていった。
帰宅の道中に遊ぶ者や、部活に向かう者、みんな出ていく理由は色々だが……きっと誰しもが、この授業から解放される瞬間は楽しいに違いない。
「……………………」
そんな中、私は自席でじっと……座ったまま動かなかった。本当は私も部活があるんだけど……。
(明さん……)
私はHR中に先生の目を盗んで、明さんへLimeを送っていた。
『湯水から放課後に残れと言われました。何か緊急の事態になったら、すぐ電話します』
明さんの既読は、まだついていない。でも、ひとまずメッセージを送っておけば大丈夫かなと思う。
(そう言えば、前にもこんなことあったっけ……)
ちょっと前にも、湯水から教室に残るよう言い渡されて、明さんについて根掘り葉掘り訊かれた。その時は明さんが異変を察知して、教室まで助けに来てくれた。
たぶん今回も、私のメッセージに気づいてくれれば、教室までやってきてくれると思う。
(だからそれまで……湯水の相手をのらりくらりしておこう。何を言われても、平静を装って……能面のような顔で……)
「平田さん」
ふと、座っていた私の背中に、声をかけられた。振り返ると、湯水が二つ後ろの席付近で、腰に手を当てて立っていた。
その眼は、どことなくピリピリしていて、機嫌が悪そうに見える。
「……なに?湯水さん」
私は彼女から目を離さぬまま、席から立ち上がった。
もう教室には、誰もいない。私と彼女だけの対面だった。
「平田さん、これから私が尋ねることに……絶対嘘をつかないって約束して?」
まず初手は、湯水からの声かけ。
「……何を尋ねるの?」
私はそれに対して、「うん、約束する」とか「わかった、いいよ」とか、肯定の言葉をあえて告げずにいた。
湯水は私を真っ直ぐに見つめて、さらに問いかける。
「あなた、本当にアキラが好きなの?」
「……うん、もちろん」
「本当なのよね?」
「嘘なわけないでしょ?」
「……まあ、そうよね。“彼女”だものね」
「……………………」
そう、“嘘ではない”。私が明さんを好きなのは、本当のことだ。湯水が何を思っているのか分からないけど、どうやら彼女は、私と明さんの仲を疑っているらしい。
「……………………」
いつになく、湯水は高圧的だ。鋭く光るその眼光は、まるで獲物を狙う猛禽類のよう。
そのオーラに圧倒されて、思わず私は生唾を飲んだ。いけないいけない、リラックス……リラックス……。
「分かった。じゃあ、平田さん」
湯水は一呼吸置いてから、さらに質問を投げ掛けてきた。
……その質問を聞いた瞬間、心臓がバクンと跳ね上がった。
「渡辺 美結は、アキラとどういう関係なの?」
「……………………え?」
最初、言っている内容がすぐ頭に入ってこなかった。時間差でその問いかけの意味を理解していく中で……ゾゾゾゾと、鳥肌が立っていく感覚に襲われた。
(なんで?なんで美結のこと……?)
彼女の問いに答えるより先に、まずその疑問が真っ先に浮かんだ。
「私の見立てでは……」
湯水は私の方へゆっくりと向かいながら、ぽつりぽつりと己の推理を話していく。
「アキラと渡辺 美結は……少なくとも、兄妹。そして同時に、恋人でもある」
「!?」
「ねえ、“平田”。私、アキラには嫌われたくないの。だからあなたには手を出したくないんだけれど……」
私の名を呼ぶ時に、“さん付け”するのを止めた湯水は、「でもね?平田」と一言告げた後……右側にあった椅子を思い切り蹴り上げた。
ガターンッ!という激しい音に、肩をびくっと震わせる。そして、気がついた時には……湯水は私の目と鼻の先にいた。
「私の質問に嘘をついたら……あなた、殺すからね」