……毎日が、風のように過ぎ去っていく。
平穏で、静かで、一粒も涙を流さなくていい日が、こんなにも幸せなんだって……改めて実感した。
俺はまだまだ子どもだから、美結のことをこれからも守れるか心配だけど……でも、今まで全力で生きてきたように、これからも全力でありたい。
俺はコツコツと勉強を進めている。城谷さんや柊さんから教わり、美結に支えてもらいながら、成績をちょっとずつ伸ばしている。
そうしてふと気がつくと、数ヵ月の歳月が過ぎ……もう俺は高校生じゃなくなっていた。
3月の下旬、これから春の芽吹きを感じる日に……俺は卒業した。
高校に入ってから、目まぐるしく動いた日々に区切りがついたみたいで、嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
『イエーーー!ビート刻むぞーー!』
「ひゅーーー!!いーぞ藤田くーん!!」
……とある日の日曜日。
俺たちは、とあるカラオケ店にいた。
俺と圭の卒業を祝して、いつものメンバーが集まってくれたのだ。
席順は、部屋の右側にある入り口側の席から、左側にかけて横並びにみんな座っていて、俺、美結、メグちゃん、それから藤田くんに葵ちゃん、圭、城谷さんに柊さん、そして……湯水という順番だった。
今は、藤田くんの順番だった。彼は「さくら」というラップを歌っており、軽快で明るいながらも、どこか春の切なさを感じる曲だった。
「へえ、藤田うめえじゃん!」
「公平くんはカラオケ得意なんですよね」
圭がジュースを片手に、藤田くんの歌を称賛する。彼女である葵ちゃんは嬉しそうに、どこか自慢気に藤田くんのことを話していた。
「美結はもう入れた?歌」
メグちゃんがカラオケの歌を予約できるタブレットを持って、美結へ尋ねていた。
「あ、まだ入れてない。どうしよっかな……何歌おうかな」
タブレットを受け取った美結は、顎に手を当てて、うーんと唸っている。
「ミユ!」
そんな彼女の元へ、湯水がやって来た。両手にはオレンジジュースの入ったコップを持っている。
「汲んできたわ!あなたが好きなオレンジジュース!」
「あ、ごめんね、わざわざありがとう舞」
「ふふふ、いいのよこれくらい!ね、ミユ。隣座ってもいい?」
「え?」
美結の答えを聞く前に、彼女は美結とメグちゃんの間に強引に座った。
「あ!ちょっと湯水!なんで私と美結の間に座るの!」
「うっさいわねー!私はミユの友だちなんだから、この位置じゃないといけないの!」
メグちゃんと湯水がまた喧嘩している。そんな光景を、俺と美結は微笑ましく見ていた。
湯水は俺たちに謝った日から、この場にいる全員に一人で謝りにいった。
もちろん、あれだけのことをやったんだから、すぐには許してもらえないし、未だにわだかまりがあることは事実だ。
しかし、それでもこの場にいられるくらいには……みんな、少しずつ彼女のことを受け入れていた。
これは柊さんから聞いたのだが、湯水は自分が今までにいじめていた何人もの被害者たちを訪ね、一人一人に謝罪を述べているらしい。
当然、今さら許してくれる人間なんて少ない。罵声を浴びせられたり、門前払いされたり、時には卵や石を投げられたり、飼い犬をけしかけられたりしたこともあったらしい。
それでも彼女はめげていない。今も訪問を続けて、自分を変えようとしている。
『明氏と美結氏のそばにいて、ふさわしい人間になりたいそうです』
柊さんは湯水が語っていた言葉を、俺と美結に教えてくれた。
『あの時に抱き締められたことが、相当彼女に響いたみたいですね。自分も人を抱き締められるようになりたいって、いつも話しています』
「……………………」
湯水とメグちゃんは、まだまだ喧嘩を白熱させていた。
「ねー湯水ってば!どいてよもう!わざわざここじゃなくていいじゃーん!」
「あんたもしつこいわねー!無理に決まってんでしょー!?ここの他って言ったら、アキラとミユの間しかないじゃない!二人の間を裂くような真似、できるわけないでしょー!?」
「アキラさんを誘拐したあなたがそれを言う!?説得力全然ないよ!」
やいのやいの言い合う二人を見かねた美結が、苦笑しつつも止めに入った。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。舞、あまり強引なことはしちゃダメだよ?」
「そう?分かった。ミユがそう言うならそうする」
そう言って、湯水はあっさりと席から立ち、美結の足元にしゃがんだ。
……なんか、すごい光景だな。あの湯水が、まるで主人に懐く犬みたいになってら。
「次、誰が歌うんだー?」
藤田くんが歌を終えたらしく、次の曲が流れ始める。どことなく哀愁のあるロックで、「深夜高速」という歌だった。
「あ、これ私ね」
そう言って立ち上がったのは、なんと湯水だった。
「へえ、湯水……ロックとか歌うんだな」
俺が思わずそう言うと、湯水はこちらに振り向き、腰に手を当てながらニッと笑った。
「ふふふ、これがギャップ萌えというやつね。どう?可愛いでしょ?」
「い、いやぁ……どうかな?」
「むー、なによアキラ、冷たいわね。少しは私にも可愛いって言ってよ」
「けっ、誰かと思ったら湯水の番かよ。お前まともに歌えんのかー?」
「なんですってー!?飯島!今のは聞き捨てならないわね!」
「お前みたいな腐れ外道が、本物のロックを歌えんのかって言ってんだ!」
「ふんっ!分かってないわね!この曲はね、私だからこそ歌えんのよ!雑魚は黙ってなさい!」
「なんだとこのヤロー!!」
「ちょ、ちょっと待てって!湯水も圭も落ち着け!もう歌、始まんぞ!」
湯水と圭の喧嘩を、俺はなんとか仲裁していた。二人とも言葉が強い奴らだから、端から聞くとハラハラするんだよな……。
「ほい湯水、マイクだ!」
「ん、すまないわね藤田」
湯水は藤田くんからマイクを受け取り、とうとう歌い始めた。
……♪♪……♪
……私はマイクを握りしめ、その歌を歌い始める。
これはつい最近見つけた歌で、今まで聞いてこなかったジャンルだったけど……今はとてもお気にいり。
哀愁を感じる、絶妙なメロディーラインが、私の琴線に触れていく。
平田の小さく「上手……」と呟く声がする。 ふふん、当然よ。私はほとんどの歌を100点で歌える女なのよ。上手くて当然。
……そう、そうやってずっと100点をとり続けてきた人生だった。
勉強も運動も容姿も、何もかもを100点でいられるように、死に物狂いで生きてきた。
全部、親のために。
♪♪……♪……♪
つい先日、チアキから私の親の近況について聞かされた。
なんでも二人は、私が起こした騒ぎのせいで、職場や婦人会の間で白い目で見られるようになり、それに耐えかねて、パパは仕事を辞め、誰にも行き先を告げぬままに行方を眩ましたという。
そう、あの人たちも、私と同じように評価だけを軸に生きていた。ずっとずっとそうやって、他人に自分の生きる意味を押し付けていた。
でもそれは、本当に生きているの?
……♪♪……♪
……激しいギターのメロディの中に、どこか切ない空気感を孕んでいる。 これが今の私に、すごく刺さる。
♪……♪♪
アキラが私に、愛するってなんだ?って話したことが、今も胸に焼き付いている。
平田が私に、脇役でも生きているんだって言った言葉が、今も心に刻まれている。
ミユの優しいハグの感触が、今も私の肌に残っている。
……ああ。
なんでもっと私は、素直に生きられなかったんだろう?
自分のことが嫌いであることを認めずに、無理やり見ないようにして、傍若無人に振る舞い……多くの人を傷つけた。
立花だって、圭だって、藤田だって、葵だって、平田だって、ミユだって。
……アキラだって。
今になって思えば、私がアキラに惹かれたのは、自分にない素直さを持っていたから……。
真っ直ぐで自分を隠さず、そのままを出せる人間だったから。
そして、それはミユや平田も同じだった。彼女らも自分のことを隠さないで……ねじ曲げないで、真っ直ぐに……生きていこうとしている。
それが、羨ましい。
ぐちゃぐちゃにネジ曲がった私は、もう数えきれないほど、罪を重ねてしまった。
気づくのが遅かった。
遅すぎた。
でもそれは、実は無意識に分かってた。だから死にたかったんだと思う。
アキラと出会って……自分がひどく惨めな、小さくて醜い人間だったことを想い知った。
だからずっと、殺してほしかった。
人に謝ることから逃げたくて、自分の罪を忘れたくて……。
だから……。
…♪♪……♪
だけど、もう死にたいなんて思わない。
私は…………アキラのことを好きになってしまった。
ミユのことを尊敬してしまった。
どうか……この二人のそばに、いさせてほしい。 私という人間を、もう一度立ち直らせてほしい。
……♪……♪♪
私は心からのシャウトを、その歌に込めた。
生きててよかったと、そう思えない人生だった。
ずっとずっと、何かに抑圧されて、その不安から逃げて逃げて……自分を追い込むだけの毎日だった。
でも今は……今は……!
……苦しくて長い人生の中で、誰か一人にでも抱き締められたことがあったっていうことを……もし、あなたが心の片隅に置くことができたら、きっと…………。
アキラ!
そして、ミユ!
私を……私を抱き締めてくれてありがとう!
本当に本当に、ありがとう!
私はあなたたちみたいになりたい!なってみたい!
そのために生きたい!
生きていたい!
生きて!
生きて!
生きて!
そして!私もいつか……!
──傷ついた誰かを、抱き締めてあげるんだ!!
「……………………」
歌が静かに終わった。私はそれを見届けて、マイクのスイッチを切った。
「す、すげ~……。初めて聴くけど、良い歌だったな」
「う、うん……凄かった。舞、歌上手いね」
アキラとミユが話している声が聞こえる。褒めてもらえてるみたいで、私は嬉しかった。
『採点結果:99点』
カラオケの映像を映し出すモニターに、その点数が表示された。「おー!」という感嘆の声が、部屋の中に響いた。
……99点、か。
100点じゃなかったんだ。
「……………………」
私は、みんなの方へ振り向いた。
するとみんなが口々に、「すごかった!」と言ってくれた。
「なんだよ湯水ー!お前超人かよ!99点とか、俺じゃ絶対無理だ!」
「すごいね舞!気持ちもこもってたし、とってもよかったよ!」
「湯水、凄すぎー!どうやってそんな点数出せるのー!?」
「やっば!!プロなれるべ!!」
「湯水さん、さすがだね……!」
「……ちぇ、仕方ない。認めてやらあ」
「……………………」
そうだ、ここの人たちは……私が100点じゃなくても、“ここにいていいよ”って、言ってくれる。
偉いな“舞”。よく頑張った。でも、身体には気を付けるんだぞ?きちんと眠って……ゆっくりして、自分のことも大事にしなさい。たとえお前が100点を取れなくたって……大事な娘であることに、変わりはないから
もちろんだよ“舞”。とっても似合ってる。でも、あなたはそのままでも可愛いよ。いろんな色に染めなくたって……あなたらしい可愛さがあるから。人に合わせなくたっていいの。大丈夫、それを信じて……?
「……………………」
私は、目尻に溜まった涙を、右手で払った。
そうだ、100点じゃなくても……いいんだ。私は、生きていていいんだ。
「……みんな。どうも、ありがとう」
私は自分の気持ちを真っ直ぐに、少しも包み隠さずに、そう言った。