連休の中日なのに、東京行きの新幹線指定席はガラガラだった。
18時に九州を発って、東京に到着するのが23時半だと考えれば当然かもしれない。彼は引き出物の紙袋を荷物棚に乗せる。明日も休みだから、本当は終電の新幹線で慌ただしく帰る必要はなかった。二次会にも来いよ、と長年の友人である新郎はいったのだが、彼は用事があるといって断ったのだ。
そうか、忙しいのにごめんな、と新郎はいった。スピーチ、よかったよ。ありがとう。彼はうなずき、新郎の斜めうしろにいる新婦に目礼して、披露宴の式場を辞した。新婦の隣には彼女の長年の親友だという女性がいて、彼にはなじみのない方言をまじえた早口で、二次会での手順を説明していた。
結婚式が新婦の地元で行われたのもあって、二次会の幹事は新婦の友人たちがやっていた。彼は披露宴で新郎の友人としてスピーチを終え、もうお役御免である。東京に帰ってしまえば、新郎と会う機会はめったに来ないだろう。二度とないかもしれないが、それでいいのだ、と彼は思った。
友人が結婚して新婦の地元に住むと聞いた時は驚いたが、結局それでよかったのだ。二度と会わなければ、学生時代から長らくくすぶっていただけの感情も思い出も、そのうち忘れるにちがいない。
じゃあ元気で。奥さんと仲良くな、と彼はいった。いいながら、自分の中に特段の感情も浮かばないのをすこし不思議に思った。いや、こんなものなのだろう。学生時代のあれは望みのない片思いだったし、その一方で彼は、結婚したばかりの友人はまったく知らない――想像もしていない生活を送ってもいた。友人はこの先もけっして知ることはないだろう。彼がほんとうはどんな人間なのかを。
披露宴で彼は高校以来の友人として、新郎についていくつかのエピソードを披露した。誠実だがちょっと抜けたところのある新郎の性格について、面白くていい話に仕上げ、出席者から多少笑いをとり、多少しんみりさせる。
ひな壇の新郎新婦は彼の話を聞きながら照れくさそうに笑っていた。新婦が新郎の耳元に口を寄せて、ニコニコしながら何かささやいていた。
新幹線の窓際に缶ビールを三本並べ、ウケてよかったな、と彼は思った。ああいう席で、どうでもよさそうな拍手や微妙な沈黙に包まれるのはいただけない。この旅行は彼にとって仕事のようなものだった。無事ミッションを果たしたのだから、満足していいはずだ。
それなのになんとなく空虚な気持ちだった。彼は窓際に並べた缶ビールの順序を入れ替えてみた。三本ともちがう銘柄で、九州限定販売である。
親族友人同僚一同を呼んだ盛大な結婚式など、彼は望んだこともない。そもそも彼には無縁なものだ。自分がもしそんな結婚式を――万が一――あげるとしても、きっと何らかの茶番劇になる。
今日の新郎新婦にとってそうでないことはわかっている。彼らにとって今日のイベントはリアルな節目だ。だからこそ彼は出席して、自分の役割を果たしたのだ。彼は新郎の友人で、それ以上でも以下でもないから。
列車は夜の中を走っていく。広島で彼のいる車両から何人か降りたが、乗ってくる客はいなかった。岡山到着間近のアナウンスがあると、また数人、荷物を転がしてデッキへ出ていた。彼は一本目の缶ビールをあけたところだった。何気なく立ち上がってみると、車両に残っているのは彼ひとりだった。
まさか、このまま東京まで貸切? いや、そんなことはないだろう。この先乗ってくる客がいるはずだ。そう思ってまた座りかけたとき、自動ドアが開いた。
黒いスーツを着た男の顔をみて、彼はぽかんと口をあけた。向こうも驚いたように目を見開いている。
言葉が出ないとはこのことだ。
「なんでここにいんの?」
男がいった。
「なんでって……東京に帰る途中」
空のビール缶を持ったまま彼はいった。
「旅行?」
「うん、まあ……」
彼は男の黒いスーツ――フォーマルスーツをみつめ、自分もおなじものを着ていることを思い出した。
「結婚式があって」
「こっちで? 親戚とか? いや、九州の人じゃないよな?」
「いや――」彼は新郎の名をいった。「結婚式で」
「マジ? あいつ結婚したの? 九州で?」
「相手が九州の人なんだ」
「うわあ……あ、俺は葬式だから」
男はキャリーをひっぱり、彼の斜め前の席に押しこんだ。
「空いてんな。こんな空いてる新幹線でおまえに会うって、どういうことだよ」
弁当の包みを片手に彼をふりむく。「同感」と彼はいった。
「いやマジ、ありえない偶然だろ。まあこっちは葬式だけど」
「えっと、その――」彼はためらったが、男は屈託なく笑った。
「母方のじいちゃんがね。98歳だったから、まあそんなもんだろっていうか、大往生でさ」
「そうか。でもその、ご愁傷さまです」
とってつけたようなお悔やみになったが、男は気にした様子もない。その雰囲気は彼を和ませた。今日の新郎とちがって、大学卒業前に別れて以来まったく連絡もとっていない相手だ。こんなところで会うなんて予想もしていなかったのに、最初に顔をみた一瞬がすぎれば、あっという間につきあっていた頃の調子が戻るのが不思議である。
「ほんとガラガラだな」と男はいい、立ったまま彼をふりむく。
「そっち、行っていい? どこまで? 東京?」
「東京だけど……おまえは?」
「俺も」
「車掌が来るぞ」
「いいじゃん、誰もいないし。おまえは結婚式、俺は葬式、隣に並ぶとバランスがとれる。ふたりとも結婚式だとちょっとあれだろ」
弾丸のように飛び出した言葉に彼は思わず笑ってしまった。
「あれって、なにがあれなんだ」
「それに俺は結婚式には呼ばれなかったし」
「おまえは友達じゃなかっただろ」
男は弁当の袋を持って彼の席の隣へすべりこんだ。その様子をみて彼はまざまざと思い出す。良くも悪くも男のこういう図々しい態度のせいで、彼は男とつきあっていたのだ。だが今日結婚した新郎は彼と男の関係を知らなかった。同じ大学、同じ学科といっても、男は彼や新郎のグループとはちがう「種類」だった。
大学という場所には動物園のようなところがあり、ちがう種類はふつう交わらない。それなのに彼と男が交わったのは――文字通り交際していたのは、今日の新郎に彼がひた隠しにしていた性癖のせいだ。男とのつきあいは大学三年の冬にはじまり、一年ほど続いた。
「同じ学科だし、まったく友達じゃないってこともなかったぞ」男はしゃあしゃあという。
「おまえを通じてだけどさ。まあ、たしかにご祝儀を包むほどの友達じゃないけど」
勝手に座席のテーブルを下ろして弁当を置き「で、どう? 元気してた?」とたずねたが、彼は無言で新しいビール缶をとった。
「弁当食っていい?」男は無視されたことにも頓着していない。
「勝手に食えよ」彼はそっけなくいった。
つきあっていたといっても、あのころの彼には恋愛をしていたという意識は薄かった。今になって思い起こせば、男同士でやれることの「実験」をしていたようなところがあった。それでもセフレというほど割り切っていたつもりもなかったし、会わなくなったきっかけは彼ではなく男の側にあったはずだ。
――そして今日の新郎はこれらのことをいっさい知らない。
高校のころからの親友といっても、そんなものだ。
「相手の人って誰」
弁当に箸をつけながら男がたずねる。新婦のことを聞かれていると彼は一瞬わからず、反応が遅れた。
「同じ会社らしい。披露宴に同僚がいっぱい来てたな」
「へえ、いい感じだった?」
「良さそうだったよ」
今度は男の方が返事をしなかった。弁当を食べていたのだ。唐揚げがいくつもでかい口に消えていく。大学のころもよく食べる男で、今も変わっていないようだった。ブラックフォーマルがよく似合っている。今日の新郎よりも容姿は整っているといえるだろう。彼はスナックをつまみながらビールを飲んだ。九州限定醸造というから買ってみたものの、何がちがうのかよくわからない。
「なあ、つきあってたんだろ」
唐突に男がいった。
「は?」彼は問い返した。
「あんとき俺と別れたの、そのせいだろ? いいの? 結婚なんかさせて」
はああ?
なにいってんだよ、と彼は思った。それはそのまま口から出ていたらしい。
「え?」と男がいった。「マジ?」
「おまえ何年前の話をしてるんだよ。しかもわけわからん勘違いして」
男は弁当を食べる手をとめている。
「つきあってなかったのかよ」
「当たり前だろ」
彼はビールをぐびっと飲んだ。いきなりあらわれて、こいつはいったいなんだ、と思う。ついさっきまでの、ひとりでしんみり浸っていた雰囲気が台無しだ。
「あるわけないだろ。気配もない」
「じゃ、ずっと片思いだったわけ? 高校からのつきあいだっていってたくせに、マジかよ。乙女すぎ」
ずばりといわれてて彼は押し黙り、男の記憶力の良さにすこし呆れつつ、男とつきあっていた間のことを思い出した。
男がこんな調子だったから、彼は自分の殻を破ることができた。そして男がこんな調子だったから、つきあいつづけるのが怖くなってしまったのだ。
そんな彼の心を知ってか知らずか、男はまたしゃあしゃあといった。
「なんだ。身を引いて損した」
「身を引く? そんなんだったか? 俺の記憶だとたしか、おまえがどっかのアプリで知り合ったやつと」
「いや、あんとき俺はおまえがその……本命とくっついたのかと思って、それで……」
おいおい、乙女はどっちだ。身を引く? おまえがそんなかわいいタマか。
呆れると同時に立て続けによぎった思いを彼は口に出さなかったが、それでもなぜ隣の男がそんな勘違いをしていたのか考えざるをえなかった。別れたのは大学四年の時だ。いったいどんな状況だったか彼は思い出そうとしたが、大学時代の人間関係は迷路のように入り組んでいて、筋道だった説明は浮かんでこなかった。男が今日の新郎について、そんな風にみていたのも知らなかった。
もちろん大学四年間を通して、今日結婚した新郎と彼は親友だった。男とつきあっていたときもそうだったし、周囲の友人は男も女も新郎と彼を「ペア」のようにみていた。でもそれが、男がいったような意味であったことは一度もない。
「本命じゃない」彼は不機嫌にいった。「友達だから」
男は最後に残った漬物を口に入れ、ポリポリ齧った。食べ終わるといった。
「友達って言葉は使い方が難しいね」
「そんなこともない」
「そう?」
食べ終わった弁当のゴミを男はビニールにつっこみ、ガサゴソ音を立てながら訊ねた。
「で、最近どう?」
「仕事? まあまあ」
「じゃなくて、あっちのほう」
聞くな。彼はそういいかけて、あいまいに首をふった。
「いまさら旧交を温めようなんていうなよ」
男は大げさに顔をしかめる。
「まさに今そういいかけたのに。こんなすごい偶然、生かさないともったいないだろ?」
その時シュッと音がして、自動ドアがひらいた。
車掌が通路をやってくる。男がさっと立ち上がって、彼の斜め前の指定席に戻った。
隣を占めていた存在感が消えて、二人掛けの座席がもとの広さに戻る。男は車掌がいなくなっても前を向いて座ったままだった。てっきりすぐ戻ってくるかと思っていたので、彼は拍子抜けした。ぽっかり穴があいたような寂しさを自覚して、そんな自分に驚いた。
このまま何もいわなかったら、たふんこのあとには何も起きない。挨拶ぐらいはするかもしれない。それでいいのか。それとも……。
斜め前の座席に男の後頭部がすこし見えている。
「なあ」
呼ぶと男はスマホを片手にふりむいた。彼が隣の座席を指さすと、スマホをポケットにさっとしまった。ニッと笑って「偶然を生かす気になった?」という。
彼は肩をすくめた。
「ここで会ったが百年目、というやつかも」
「それじゃ仇討ちだ」
ほんの一歩で男は彼の隣におさまった。新幹線はまだ夜の中を走っている。