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餃子の男

 この駅の出口は東口と北口で、南口も西口も存在しない。


 北に出ようが東に出ようがあらわれるのはぱっとしない灰色の街だ。ガードの真下にある東口から出ると線路わきの横丁に飲み屋街に通じる細い路地があって、そこを通り過ぎると国道の交差点。そこからは排気ガスにまみれながらグレーのオフィスビルとマンションが並ぶ味気ない歩道をあいつのマンションまで歩いていくしかない。


 歩道のわきには中華料理屋や健康グッズを売る店がときどきあらわれるだけで、面白くもなんともない。歩道には街路樹もなく、夏は溶けそうだし冬は寒風が容赦なく吹きつけて凍えそうになる。


 そして北口は灰色のロータリーで、続く大通りは左右の歩道が屋根のついた商店街になっている。昔ながらの下町とはいえ、他の街とくらべても何がちがうわけでもない。それでも最近は外国人観光客が増えたせいか、観光案内所とお土産屋を兼ねた店もオープンしたが、街にみどころがあるわけでもない。すこし歩けば多少有名な神社があるものの、賑わっているのは正月くらいだろう。


 そのぱっとしない灰色のロータリーを俺はあいつの後について歩いている。東口から少し歩いたところに建つマンションがあいつの住まいで、俺がたまに足を運ぶようになってからもう半年以上になる。


 俺は向こうの都合がよくないとここに来ないし、これまでは外で飲んだり食事をしたこともなかった。出会い系アプリで知り合ったカタカナ職業の男は年上で、かなり忙しいらしく、地方公務員になって数年の俺の方が時間がある。連絡が来て、会おうということになって、俺はあいつの部屋へ行く。やることをやってそれなりに楽しむ。


 そんなあいつがいつものセックスのあとに「小腹がすいたし、外で何か食べよう」と誘うから、浅はかな俺はすこし期待した。でも最初だけだった。あいつは妙に辛気臭い雰囲気で、黙りこくって歩道を歩いていった。一瞬盛り上がった俺の気分はだんだん落ち着いて、というより醒めてきた。


 本当に腹が減っているだけなのだろう。あいつの部屋は清潔で片付いているが、冷蔵庫にはコーラがあるだけでビールはなく、聞くとろくに料理もしないらしい。見た目の印象と違って飲めない体質で、ウイスキーボンボンのアルコールでも気持ちが悪くなるのだという。


 北口のロータリーを抜ける手前で道を曲がると、街灯には「中央商店街」と書かれたちいさなのぼりがはためいている。まっすぐ進もうとしたあいつはふと横の路地をみた。


「珍しいな。並んでない。餃子食べない?」

「餃子?」

「いつもは行列があるんだ。有名なんだよ」


 セックスのあとで餃子か。ムードも何もないな。

 そう思ったのに逆らえなかった。餃子専門店の看板の店は見た目では有名だなんて信じられないくらい小さくて、よくある町のラーメン屋みたいだ。あいつがのれんをかき分けると、濃い灰色の髪を短く切ったおばさんが「何人?」と大きな声で聞く。

 俺をふりかえりもせずにあいつは「ふたり」といった。

「テーブルに横並びでお願いします」


 入って右側に狭い畳の小上がりで、ふるぼけた卓が並ぶ。通りに面した壁沿いにうすい木箱が積んである。手前の方に正方形の調理スペースがあって、換気扇の下で白い帽子をかぶったおじさんが手を動かしている。店内には餃子を焼く香ばしい匂いが流れているが、煙も不快な脂っぽさもない。調理スペースからつながったU字型のカウンターは人でいっぱいだ。小上がりのテーブルは2つ空いているが、横並びにということは相席になるのだろう。


 奥の壁に変色しかけた色紙がびっしりと貼ってある。壁のメニューは飲み物だけだ。老酒や紹興酒もある。あいつは俺を壁の方へ押しやり、俺たちは膝を並べて畳に座った。


「ここ、餃子だけなんだ。二皿来るから」

「え?」


 俺がぽかんとしていると、さっきのおばさんとは別の人が皿とお冷を持ってやってきた。

「もう一枚はすぐ来ます。飲み物いりますか?」

 今度のおばさんにはすこし外国風のなまりがあって、顔立ちは濃い。あいつは勝手知った様子で「いや、いいです」といって、もう箸を割っている。


「自動的に二皿来るんだ。一皿二五〇円。あとは追加を欲しいだけ頼むシステム」

「へえ」


 小さめの餃子が五個、皿にころんと乗っている。割り箸でつまんで口に入れると、皮はカリッとして薄めで、油っ気も少なく、具もあっさりした味付けだ。続けざまに三個食べてしまった。カウンターではおっちゃんたちが昼間からビールや紹興酒を並べ、にぎやかにやっている。俺もビールが飲みたくなったが、隣にいる男は酒が飲めないから我慢した。


「あの」すると耳元でいきなり話がはじまった。「もうやめようと思う」

 俺は餃子の最後のひとつを箸でつまむ。タイミングよく店のおばさんが二皿目を空いた皿の上に置いた。これで餃子が合計十個。

「何が?」

 餃子をほおばりながら聞くと、隣で男はひそひそという。

「だからその……会うのを」

「は?」

「こんなのはダメな気がしてる」

「こんなのってなんだよ」

「きみが僕のところへ来て、それだけっていうのがさ……セフレっていうか」


 いきなりガツンと殴られたような気がした。セフレ?

「ダメって何」

「だからちょっと……やめよう」

「やめようも何も、あんたが来いっていうから来てたんだけど」

「そういうのがよくないなって」

「別れようってことか?」

「別れるっていうか、それ以前だから……」


 ひそひそ声を聞きながら、急に何かが腑に落ちた。半年以上のあいだ寂しくなるとたまに会って、こっちは他に気になる人間がいるわけでもなく、それなりにこの男と何かが――何かがあるつもりだったのに。「それ以前」だったのか。


「だからその……」


 俺の隣であいつがさらに何かいいかけたとき、のれんが揺れて新しい客が入ってきた。中年男の二人連れだった。背の低い方が先に立ち、おばさんに「あーテーブル。いい?」と声をかける。

「相席でお願いします」

「おいよ」

 戸口近くにいたもうひとりは口にまるめた指を持っていく仕草をする。

「ああ? 俺は先にやってる」

 背の低い方がそういって俺たちのテーブルのところで靴を脱いだ。父親くらいの年齢のおっさんで、頭はハゲかかっていて、チノパンに柄物のシャツで、俺の向かいにどっかりと座る。俺たちの時と同じように店のおばさんが餃子の皿を二枚並べると、おっさんは「ビール。大瓶で」といった。


「それで?」話を戻そうと俺は小声でいう。「俺はもういらないって?」

「いや、そうじゃないけど……その……こんなのはよくないかなと……」


 俺はあんたがセフレだなんて思ってなかったけど――とはいえなかった。出会い系アプリがきっかけの関係なんてこんなものなのかもしれない。実際男女の関係みたいに「付き合う」なんてゲイにはない、というやつもいるのはわかっていた。俺はこっそりあこがれてたんだけど。彼氏彼女っていうの。


 でも今思い返してみると、相手の部屋に行ってやることはやってもたいした話もしていないし、初めて街で並んで食ってるのは一皿二五〇円の餃子なわけで、だから予想しているべきなのかもしれなかった。


「あれだけパコパコやっといて『よくない』なんて乙女なセリフだな」

 やっと反撃すると隣の男はびくっとした。「それは――」

「わかったよ」俺は十個目の餃子を口に放り込む。

「もういいよ」

「いや、その、まだ――」


 俺の声が少し大きくなり、その声を聞いて、自分が怒っているのを理解した。俺は昔からあまり怒ったり泣いたりしない。この気持ちは馴染みがないし、あまり好きじゃない。

「いきなりだったからびっくりしたけど。これで最後なんだろ。めんどくさいからさっさと行けよ」


 あいつがびくっとした。中腰になってポケットをさぐり、財布を出すと五百円置いた。俺が眉をあげるとまたびくっとする。なんだよ、と俺は思った。ガタイもナニもあいつのほうがでかいのに、俺がいじめてるみたいじゃないか。


「会計ですか?」

 外国なまりのおばさんが聞くので俺は「餃子もうひとつ。あとビール小瓶」と答えた。あいつが空にした餃子の皿に俺のを重ねると、おばさんは素早くビール瓶、コップ、餃子の三点セットを出してくれた。


 昼下がりのビールはふつうは美味いはずだ。こんな気分でなければだけど。


「まあまあ落ちつきなよ、兄さん」

 相席のハゲかけたおっさんがいった。

「ここの餃子はうまいからさ」

 俺は我ながら感じ悪くじろっとおっさんを眺め、ビールを飲んだ。一杯目が麦茶のように喉の奥に消えて、二杯目を飲んでいると次の餃子が来る。

「気持ちが通じてないってのはきついよねえ」

 俺の眉が意識せずぴくっと動いた。聞いてたのかよ。


 でもそれだけだった。おっさんは別に、俺を気持ち悪いとか珍獣だとか、そう思っている様子でもなく「最近は堂々としてるなぁ」といってカハハっと笑った。「若いっていいねえ」


 若いのがいいなんて、まったく思えない。

 これだから無神経なおっさんは――と俺はまた一瞬イラっとしたが、あっという間に小瓶を空にする勢いで飲んだせいか、その次の瞬間にはあまり気にならなくなっていた。だからいった。

「若くて良いことなんてないですよ」

「時間が味方につくんだよ」


 オヤジ人生訓かよ。

 それでも軽く酔った勢いもあって俺は適当にうなずいていた。こうしているとこのおっさんと昔からの知り合いのように思えてくる。実際、実家の近くにあったカメラ屋のおやじに雰囲気が似ている。こんな感じでカハハッと笑っていたのだ。


 でもこんなオヤジにいったい何がわかるんだろう。彼には家に帰ると嫁さんがいて、大学生くらいの子供がいたりするんだろう。俺にはどちらも一生縁がないのだ。


 俺はビール瓶を逆さに振った。もう一本は多すぎるだろうか。スマホが震えたので膝の上で見たが、着信でもメールでもなく、ただのニュースだった。俺はアプリのアイコンをタップする。位置情報から近くにいるゲイを探してくれるこのサービスは便利だ。世間で圧倒的に少数派だからこそ機能するサービス。


 そのとき影が落ちて俺はスマホから眼を離した。のれんをくぐってこちらへ向かってきたのもおっさんだが、相席のおっさんより背が高く、スタイルも服装もイケてる感じだ。最近たまに聞く「イケオジ」っていうのはこんな感じだろうか。


 ああいう人も悪くないよな、と俺はどうしようもないことを思った。あの人が実はこのゲイアプリに登録していて、この画面に出てきたりしないものだろうか。

 そんな馬鹿げた夢想をしたときだった。その人は俺のテーブルのすぐ近くで止まった。俺はドキッとした。俺が無意識に謎のテレパシーをこの人に向けて発していたらどうしよう――


「いつまでも吸ってんじゃねえ」と相席のおっさんがいった。

「悪い」とイケオジが答える。

「遅いから兄ちゃんに絡んじゃったよ」

「その年でナンパか」

「俺みたいな髪の少ないおっさんはナンパなんて無理」


 イケオジは相席のおっさんの隣に座り、おっさんのビールコップを取り上げる。

「おい、てめえのコップを使えよ」

「わかるだろ。俺は注ぐの苦手なんだ」


 さっと餃子の皿が来た。イケオジは箸を割って餃子を口にほうりこむ。相席のおっさんは黙ってビールを注いだ。ふたりとも黙っているのに険悪な雰囲気というわけでもなく、隣り合わせに座っている様子が妙にしっくりと決まっている。

 そのとき俺に天啓が下りた。――もしかしてこのふたりできてんのか。いやいや。まさか。


 ちくしょう。もったいない。うらやましい。


 心の奥底で思わず本音がもれた。このおっさんたちがゲイでもカップルでもなんでもない、ただの仲の良い友達でも、そう思ったかもしれない。


 もう一皿と頼んだ餃子が前に置かれた。俺はまた空のビール瓶を逆さにして振ってしまい、元に戻した。お冷で我慢しようと思ったとき、コップにドボドボとビールが注がれた。相席のおっさんが大瓶を傾けている。


「えっ」

「足りないんだろ? 一杯だけな」

「あ、ありがとうございます」

 驚いて礼をいった時またスマホが震えた。メッセージアプリを開くとあいつのニックネームが一番上の列にある。

『怒らせてごめん』そう書いてある。

 また腹が立ってきた。俺は勢いにまかせて液晶をタップする。


『俺が勝手に怒っただけだし。あんたにはどうせただのセフレだろ』

『っていうのは、そうは思っていなかったってこと?』


 この無神経が。俺はスマホを握りしめた。頭が真っ白になった。そういえば俺はあいつの話を最後まで聞いていなかったんじゃないだろうか。ここで何か気の利いた返しができれば、案外まだ……


 俺が箸を置いて考えこんでいるあいだに、向かいのおっさん二人はビールも餃子も片づけたらしかった。同時に立ち上がり、イケオジが先に靴を履く。ハゲかけた方のおっさんがポケットから札を取り出すとイケオジに渡した。この店は餃子と飲み物しかメニューがないから、皿数に応じた金額が壁に貼ってある。ビール代を足せば計算は完了だ。


 ひとの気持ちというのもこのくらいあっさり計算ができればいいのに、どうして人間はそんな風にできていないのか。


 ぼんやりそんなことを考えながら俺はハゲかけたおっさんが小上がりに座って靴を履くのをみていた。俺の位置からは薄く残った後頭部の髪がよくみえる。と、その頭が急にくるりと回った。

「兄さんがんばれよ。まだ大丈夫さ」

 そしてカハハッと小さく笑った。


 待っていたイケオジと並んで店を出ていくのを俺は口を開けたままみつめていた。馬鹿みたいだとあわてて閉じる。

 まだ大丈夫かどうかなんて、もちろん誰にもわかるわけがなかった。でも俺はまだあいつに伝えたいことがあるんじゃないだろうか。


 店のおばさんが「餃子は?」とたずねた。

「もうひとつ」

 俺はスマホの画面に向きなおると、あいつに伝える言葉を探しはじめた。



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