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第7話

 ──あの虫は現実にいたんだろうか。


 どうやら気づかない内に眠っていたらしい。三科家に戻ってから遠慮がちに起こされたものの、その時には虫の残骸があったかどうかなんて、確認する余裕もなかった。


 もしかしたら、アレも夢だったのかもしれない。というか、夢じゃなきゃ起こらない状況だろう。そう思った瞬間、俺は肩の力が抜けるのを感じた。


 フラフラと三科家に戻った俺の姿に、大おじさん達もかなり驚いていた。山育ちじゃない人間に、初日から無理をさせてしまったと思われたようだ。


 あっという間に風呂に放り込まれたかと思えば、優斗からかなり念入りに頭を洗われた。どうやらかなり土を被っていたらしく、いつまでもジャリジャリとした感触が消えなかったようだ。優斗から完了を言い渡されたときには、風呂場の床が泥まみれになっていた。


 二階にある優斗の部屋には、ベッド横に布団が敷かれていた。飲み物や氷枕、細々としたお菓子まで用意されていて、ちょっとした王様気分だ。


 せっかく作ってもらった弁当を食べていないことを思い出し、母屋まで行って謝ろうとしたけど、気にしなくていいから寝てろと言われて布団に転がされた。


 だからこの日記も、寝転びながら書いてる。


 確かに変な感じだけど、体が疲れているわけじゃないから少し退屈だ。


 と言っても、宿泊初日に一人にされるわけもなく、夕食は優斗と一緒に部屋でとることができた。この点に関しては、むしろ気を遣わなくて済む分だけありがたかった。


 大皿にこれでもかと盛られたおかず、おひつに入った米、さらに食べ損なっていた弁当まできれいに平らげて、俺たちはだらだらと夜を迎えた。


 ゲームは極力控えるように注意されたこともあり、二人でひたすら喋りながら、日記に書く記憶の擦り合わせと、日記を書いて過ごす。


 ……外では急に雨が降り始めたのか、バタバタと大粒の雨音が聞こえていた。


「でもビビったよ。陸って疲れるとテンション壊れるんだな」


 枕を抱えるように寝転がったまま、ポテトチップスを口に運んだ優斗が笑う。


「いやー、あんなことになったの初めてでさ。自分でもビビってる」

「緊張してるところに疲れさせちゃったもんな。ホント、今日はがっつり寝ろよ」

「昼まで寝てもいい?」

「許す許す。眠くなったら言えよ、ちゃんと静かにするから」

「気ぃ遣わなくてもいいよ」


 日記を書きながら、いつの間にか寝落ちたらしい。まるでずるずると──引きずり込まれるように、現実の延長のように夢を見た。




 ──小さい子どもになって、誰かの膝に座ったまま頭をなでられている夢だ。


 夢の舞台は最近ではめずらしい、欄間がある広い和室だ。その真ん中で誰かの膝に座っている。壁際には古いおもちゃがたくさん並べられていた。


 見上げようと思っても何故か真上を向くことができず、足を上下させるしかできない。ずいぶん退屈な夢だ。


 俺をなでる誰かは、ずっと俺の頭上でひそひそ呟き続ける。


──いい子、いい子だねぇ。ありがとうねぇ。


 なにに対する感謝かも分からないまま、夢の中の俺は機嫌良く足をばたつかせていた。なでてくる手の感触が、妙に冷たくて気持ちがいい。


 よく見れば、俺を膝に乗せている誰かは着物を着ているらしい。小さな花柄の長い袖が、俺の膝のすぐ脇でゆらゆらと揺れていた。


──ありがとう。ありがとうね。いい子だねぇ。


 何度も繰り返しささやかれる感謝の言葉に、さすがの俺も妙な気分になってきた。理由のない感謝なんて居心地が悪い。


 夢の中の俺は振り返ることも、見上げることもできないまま、その誰かに声をかけた。


「なんでありがとうなんて言うの?」


 なでていた手がピタッと止まり、ゆっくり下に降り始める。


 まぶたに触れた指先は思ったよりずっと細く、とがっているように思えた。そしてとても──冷たい。


 その指が目蓋から鼻、頬を撫でて、やがて口に触れる。


 次の瞬間。


 泥まみれの指が口の中に突っ込まれた。


──重い石、どけてくれたねぇ。


 笑っていたのは、泥だらけのミイラだった。




「うわぁあああああ!!」

「ひぉあああああ!?」


 俺の叫び声に合わせて、優斗が叫ぶ。その声にまた俺がビクついて──夢から覚めたことを知って、心底ホッとした。


 痛いほどドキドキしている心臓を押さえてると、外からかなり強い雨音が聞こえていることに気づく。もしかしたら、俺たちが寝た頃からずっと降り続けていたのかもしれない。


 カーテンの向こうの空は物凄く暗いけど、壁時計は、朝七時過ぎを表示していた。


「……今日めっちゃ暗いな、外」

「いや、最初に言うのがそれかよ」


 俺の悲鳴が心臓に悪かったのか、優斗はひどく疲れた声で突っ込んできた。まだ眠気が覚めない目元を片手で押さえ、あーうーと言葉にならない呻き声を漏らしている。


「あぁああああんもぉー! 今日はめっちゃ寝るつもりだったのにぃー!」


 天井を仰ぎながら恨みがましく叫んだ優斗に、申し訳なくなって頭を掻く。


 俺としても、できれば今日は昼まで寝ていたかった。だけどあんな夢を見て──飛び起きるなってほうが無理だ。


「ごめんって。スッゲ怖い夢見たんだよ」

「陸の声聞けば分かるけど……悲鳴で叩き起こされるなんて心臓に悪すぎるんだよ」


 ようやく落ち着いたのか、優斗が長い溜め息を吐く。すっかり遠くに行った睡魔に別れを告げ、俺たちは仕方なく一階に降りた。


 雨の音しかしない。


 うちの家なら、父さんが出社の準備を、母さんが朝食を並べ始めている頃だ。この家に住んでいる人は誰も働いていないみたいだし、やっぱり朝も遅いのかもしれない。


 だけど静かすぎることに疑問を持ったのか、優斗が首を傾ぎ、リビングの扉を開ける。


 電気もつかず、誰もいない。


「父さん? 母さんもいないの?」


 声をかけてみても、返事はなかった。


「いつもならそろそろ二人で朝ご飯の準備してるはずなのに……まだ寝てんのかな」


 体調を心配しているのか、眉毛をハの字にしたまま洗面所に行く。


 まずは顔を洗ってしまおうと、水道のレバーを上げる。


「……あれ?」


 カコンという音がしたきり、水が出ない。


 念のため何回か上げ下げしても、蛇口からは一滴の水も落ちなかった。


 少しの沈黙、青ざめた顔。


「陸、母屋に行こう」


 俺の返事を待たず、優斗が玄関に急ぐ。


 玄関を出た通り土間では、よりはっきり雨の音が聞こえた。滝のような大雨だ。


 母屋は真っ暗で、ただ、奥の方には人の気配がある。雨音のせいでよく聞こえないが、なにかザワついているようだった。


「おはよう。やっぱりみんなここにいたんだ」


 大人たちが集まっていたのは、家の中央にある応接間だった。


 三方にある襖も閉め切って、ずいぶん狭くなった室内で顔を突き合せて喋っている。確かにこうしているほうが、雨の音が聞こえにくいし、話しやすいかもしれない。


「優斗!」


 優斗のお母さんは俺たちに気づくと、急いで駆け寄ってきてくれた。不安を押し隠してるみたいな顔で、泣き笑いにも見える。


「陸くんも起きちゃったのね。もっとゆっくり寝ていてもよかったのに」

「俺もそのつもりだったんだけど、陸が起きちゃってさ。……父さんは?」

「お父さんは道の状態を見に行ってるわ。すぐ帰ってくるから大丈夫」


 優斗のお母さんの目が、ちらりと奥にいる集団を見た。


 集まっているのは大おじさん似のおばさん三人だ。大おじさんの家族だろうとは思うけど、まだ名前も分からない。


「道は今、大輔くんと賢人が確認に──」

「迎えに行った三人はホテルにいるって──」

「まずは自分たちのことを考えないと──」

「ガスはプロパンだから──」

「水の確保は井戸で──」

「電気なら倉庫に自家発電機があるから──」


 だけど部外者の俺が口を出すのも気が引ける。


「優斗」


 そっと声をかけ、脇を肘でつつく。


 優斗の目が困惑気味に俺を見て──もう一度、優斗のお母さんに向き直った。


「さっき顔洗おうとしたら水、出なかったんだ。もしかして断水した?」

「うん、停電もね。それと昨夜の遅い時間に、ひいおばあちゃんをお願いしている施設から連絡があったの。……ひいおばあちゃん、亡くなったって」

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