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第23話 残業の明かりに思うこと

 夜の帷とばりが降り、日本庭園の石行燈に朧げな光が宿る。屋敷を守る主のごとく、両手を広げたような格好で枝を伸ばした大島桜は葉桜になり、庭園のあちらこちらに花びらの絨毯を作っていた。


「だいぶ遅くなってしまったなあ」


 永徳はそう呟きながら玄関で下駄を脱ぎ、長い廊下をこえたところで、奥の襖から光が漏れているのに気がつく。腕時計の針を確認すれば、午後九時を指している。あやかしの面々がこの時間まで残業をすることはほとんどない。イベントごとの多い繁忙期や、自分が力を入れている特集記事を抱えている時は遅くまで残っていることもあるが、今の時期は比較的落ち着いているので、遅くとも八時には全員いなくなっている。


「……考えられるのはひとり、だな」


 永徳は襖をそっと開いた。隙間から覗き込むと、ダークグレーの厚手のカーディガンを羽織った、華奢な背中が見える。


 長い両腕を組み、永徳はため息をつく。襖に頭をもたれかけて目を瞑ると、静まり返った編集室内に響く乾いたキーボードの音に、耳を傾けた。


 ——まあ、頑張ることは悪いことじゃないからね。


 人形のように表情の乏しかった佐和子だったが、仕事をこなしていくうち、少しずつだが笑顔を見せるようになり、目にも光が宿るようになってきた。今はあやかし瓦版での仕事にやりがいを見出し始めたタイミングなのだろう。


 ——もうしばらくは、見守っておくか。


 彼女の努力が行き過ぎなければいいな、と密かに願いつつ、永徳は屋敷の台所へと向かった。


 やかんに蛇口から水を入れ、コンロの火にかける。茶棚から柚子蜜の入った瓶を取り出し、茶器の準備をしたところで、ふと、眉間に皺を寄せてお茶を運んでくる母の面影が頭をよぎった。


「あなたは無理をしすぎよ。いくら体が丈夫だからって」


 受験勉強をしていたとき、仕事を終えて遅くに帰ってきたとき。疲れているであろう息子に、そう言いながら母は柚子茶を淹れてくれた。


 残念ながらと言っていいのかわからないが、父親の血のせいか、「疲れ」という概念を実感することもなく、この甘い飲み物のありがたみの半分も享受することはできなかったのだが。それでも母の淹れてくれたお茶は、心の内側をいつも温めてくれた。


 この柚子茶は富士子のために、山本五郎左衛門が疲労回復のまじないを込めたものだった。あやかしと違って体が脆く、疲れやすい人間のために。


「もうすぐ、四十九日か」


 やかんが湯気を吹く。コンロの火を止めて、永徳は柚子蜜をスプーン二杯湯呑みに入れた。お湯を注ぐと、爽やかな果実の香りがあたりに広がる。


 過酷な環境に負傷した雛鳥は、暖かい毛布に包まれて傷を癒し、今は飛ぶ練習を始める段階に差し掛かっている。旅立ちへの道筋が見えてきたことで、少しだけ寂しいと思ってしまうのは、ひさびさに関わった人間だからなのか。それともなにか別の感情が動いているのか。


 永徳は襖の前に柚子茶を乗せた盆を置くと、ノックをし、そそくさと屋敷の奥へと隠れた。


「若様、ご機嫌麗しゅう」


 奥にある自室に入ろうとしたところで、背後から声をかけられ、永徳は振り向く。


「やあ、よく来てくれたね。父が暇を出したばかりなのに、呼び出してしまってすまない」

「五郎左衛門様のご子息の御呼びとあらば、いつ何時でも駆けつけまする」


 そこに佇んでいたのは、髪を一本にまとめ、着物を着た女児のようなあやかし。しかし背中には昆虫のような羽が四枚生えている。永徳に尋ねられれば、彼はあどけない表情でにこりと笑う。


「わたくしをお呼びということは、富士子様の件でなにかお知りになりたいことが?」

「話が早くて助かるよ。両親の婚姻のことで、君に聞きたいことがあってね」


 永徳が自室を指差せば、彼女は頭を垂れたあと、部屋の中に入っていく。遠くの方で編集室の襖が開く音を聞き、永徳も慌てたように自室に入って行った。

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