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第42話 巣立ち

「ねえ佐和子、正社員の仕事は見つかったの」

「……まだ」


 鳥海家の十畳のリビングダイニングには、重苦しい空気が立ち込めていた。


「お父さんの知り合いの会社で、事務員を採用してるみたいなんだけど。受けてみるか?」

「……いい」


 あやかし瓦版での仕事が落ち着いてきて以降も、両親に「正社員」として働いている話はしていなかった。


 雇用契約書を見る限り、「株式会社笹野屋」という名称で登記はされているようで、法律上佐和子はそこに雇われていることになっている。だがオンラインニュースの編集記者という職業の性格上、人間社会のネットに存在しない実績を実績として書くことはできない。家族に話すにも、うまく説明できる気がしなくて、佐和子は「アルバイトをしている」と嘘をつき続けていた。


「バイトは熱心に通っているようだし、そろそろ正社員の仕事を探してみるのもいいんじゃない」


 母の言葉に反応することなく、佐和子は席を立つ。


「ごちそうさまでした」

「ちょっと、佐和子」 


 家族との会話を一方的に終わらせて、佐和子は二階に続く階段を駆け上がった。自室の戸を閉めると、そのままベッドにダイブする。


「私が決めること、か……」


 いい歳をして親の脛を齧り、世間には言えない仕事をしている。採用面接で話せるような実績は積めない。あやかし瓦版に勤めている自分の状況を振り返れば、このままではいけないような気もする。少なくとも、世間一般で考えれば。


 それに今回はことなきを得たが、編集部員に悪いあやかしがいなかったとしても、取材先や仕事相手先によっては、同じような目にまた遭う可能性はある。根付のお守りも、万能ではないことが証明されている。


 もしあのままの勢いで噛みつかれて、血を抜かれていたら?

 佐和子は自我を失って襲いかかってくるマイケルの顔を思い出し、ゾッとした。


 ——もしかしたら、いいきっかけだったのかもしれない。きっとあのままなにも起きなかったら、私はあの場所から抜け出せなくなっていた。


 返信しそびれていた山吹のメッセージを開き、文字を打っていく。躊躇しながら、たまに立ち止まりながら。なんとか返信を打ち終えて、送信ボタンをタップする。


「これで、いいんだ。こうすべきなんだよ、きっと」


 そう自分に言い聞かせるように言ったあと。

 佐和子が山吹に返したメッセージには、すぐに既読がついた。



   ◇◇◇



 朝露の光る庭の植木が、微かに揺れる。地鳴りのような声の主が、大声で家主を呼んでいるのだ。


 伝書ガラスや郵便配達などは通すが、約束のないもの、笹野屋家の人間から渡された品物を持たない人やあやかしは、結界に阻まれてこの屋敷の姿さえ見ることはできない。


 多摩の川天狗、黒羽は、屋敷があるはずの林に向かって仁王立ちをしていた。


 いつも通り白い山伏装束を着て、朱塗りの天狗の面をつけたまま、ジリジリと姿の見えぬ家主に向かって怒りを溜めている。


「ここで間違いはないのだな」


 自分の肩にとまる伝書ガラスに向かって、黒羽は問うた。カラスには屋敷の姿が見えているようで、コクコクと頭を上下に降って返答している。


「笹野屋永徳殿。手土産を持って参った。門を開けてくれぬか。いくら大魔王のご子息といえど、客人を無視するのはいささかやりすぎではないのか!」


 地面を揺らす勢いで怒鳴る黒羽の迫力に押されるように、林だった景色が屋敷の外塀に変わる。目の前に現れた重厚な門扉が、音を立てながら開いた。門の近くには誰の姿も見えないが、どうやら入れということらしい。


「出迎えもなしとは。まあいい。玄関はあちらだな」


 大股でのしのしと門をくぐり、建物の入り口に向かった黒羽は、玄関先で立ち止まり、ふたたび叫ぶ。


「笹野屋永徳殿! いらっしゃるか!」

「朝から元気だねえ。もうちょっと静かにはできないのかい? まだ十時前だよ」


 廊下の奥から、まだ眠そうな家主が顔をだした。黒羽を待たせたことなど一ミリも悪く思っていない様子だ。


「もう十時前だ。朝ではない。久方ぶりであるな。ようやくお出ましか」

「ひさしぶりって言っても、そんなにたってないけどねえ」

「佐和子はいるか。顔を見にいくと言ったはいいものの、こちらも代替わりでバタバタしていて、遅くなってしまった」


 黒羽は肩に背負っていた一升瓶を、どしり、と上がり框に落とす。

「『川澄』だ。編集部員たちに振る舞ってやれ」

「おや、悪いね。そういえば川天狗の頭領になったんだって? 風の噂で聞いたよ。おめでとう」

「で、佐和子はいるか」

「相変わらず人の話を聞かないね、君は」


 苦笑いをしながらそう言った永徳は、寝癖の残った頭を掻いた。


「あの子は辞めたよ。もうここにはいない」

「なんだと?」


 黒羽は今にも胸ぐらを掴む勢いだったが、永徳が不快感をあらわにすると、手を引っ込めた。


 あやかしとしての位で言えば、川天狗の頭領は大魔王の子息の足元にも及ばない。永徳は上下関係を嫌うので、黒羽が多少失礼な態度を取っても意にも介さないが、時代が時代であれば粛清されてもおかしくはないのだ。


「もともと、病み上がりの人間を、職業訓練に来させていたようなものなんだ。今は晴れて人間の社会へ戻ったんだよ。めでたいことだ」


 永徳がそう話すと、黒羽は納得がいかないとばかりに質問を投げかけてくる。


「人間の社会へ戻ったのはいいとして、嫁候補ではなかったのか。仕事は辞めても、結婚はできるのではないか」

「ちょっとした事件があってね。怖い思いをさせてしまった。もうあやかしに近づきたいだなんて、思わないだろう」


 黒羽は仮面の下で片眉を上げた。


「襲われたのか!」

「ああ」

「無事なのか?」

「怪我はせずに済んだ」


 永徳の袖の下からわずかに覗く包帯を見て、黒羽は鼻を鳴らす。


「河童の相撲のときもそうだが、貴殿はぬるい。か弱い人間の女を本気で嫁に迎えるつもりだったなら、もっと配慮するべきだ。護衛のひとりもつけずに仕事をさせるとは」

「河童の相撲?」


 予期せぬ言葉だったのか、永徳は眉を寄せる。


「気がつかなかったのか、挙動の怪しい鬼女が付き纏っていたぞ。佐和子を見つけたと同とき、ヤツを見つけてな。それで我は佐和子の側にいたのだ。我が邪魔で、ヤツめ頭を使ったのだろう。客を次々突き落として将棋倒しを起こし、間接的に危害を加えようなどという悪行を……」


 怪我をしていない手の方で、永徳は額を打ち、深いため息をつく。


「……椿か。はあ、迂闊だった。そんなに何度も狙われていたのか、鳥海さんは」

「さっさと嫁にしてしまえば良いものを……中途半端にしておくからそういう輩が湧くのだ。正式に嫁ともなれば、手を出せるあやかしは限られる」

「俺はね、彼女の気持ちを尊重したいんだよ」

「貴殿はそれでいいのか」

「いいんだよ」

「では、佐和子が良しとすれば、我が嫁に攫っても問題ないな」

「……それは困るね」


 それまで穏やかな顔つきだった永徳の表情が、一気に怜悧なものへと変わる。威嚇ではなく、少しでもおかしな行動をすれば、息の根を止めにかかられるような凄まじい気迫を前に、黒羽は冷や汗を垂らす。


「……まあ、しばらく様子を見るとしよう。今が接触するにまずい時期であることは理解した。折を見て尋ねることにしよう」

「彼女が選択した人生を、邪魔するような真似だけはやめておくれよ」


 溢れ出ていた攻撃的な気を引っ込め、念を押すようにそれだけ言うと、永徳は黒羽に背を向けて屋敷の奥へと消えていった。




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