「あら、瞳子ちゃんいらっしゃい。ごめんなさいね、今俊成出かけちゃってるのよ」
「いえ……、その、俊成の部屋で待たせてもらってもいいですか?」
「ええもちろん。すぐ帰ってくると思うから。あとで飲み物でも持って行くわね」
「お構いなく……」
あたしはドキドキする胸を押さえながらも、俊成の部屋に来た。
おばさんには言えなかったけれど、あたしは俊成が今日出かけることを知っていた。知っていながら部屋に上がらせてもらったのだ。
勝手知ったる彼氏の部屋。迷いなく座布団を出して座る。よし、ここまではいつも通りね。
そんなに時間を置かずにおばさんが飲み物を持ってきてくれた。
「暑いでしょう、クーラーつけるわね。待たせるけどごめんなさいね」
そう言い残しておばさんは部屋から出て行ってしまった。あたしは氷の入った麦茶に口をつける。
落ち着けあたし! らしくない自分に冷静さを求める。
のぼせそうな頭にクーラーの涼しい風が気持ちいい。もう一口お茶を飲めば幾分か鼓動が収まってくる。
「さて」
部屋をぐるりと見渡す。俊成のマメなところがうかがえるように整理整頓されていた。
「え、えっちな本は、ど、どこかしらね?」
覚悟を決められたと思ったのに、あたしはまたのぼせ上がった。
うぅ……、なんであたしがこんなことを……。それもこれも変なこと聞いちゃったからよっ。
※ ※ ※
夏休み前、クラスで友達の女子グループと楽しくおしゃべりしていた時のことだった。
「そういえば彼氏がね」
突然の話題変換だった。でも『彼氏』というパワーワードに無視なんてできなかった。他の子達も同じのようで、場がしん、と静まる。
その子は声を潜めて、こんなことを言った。
「エッチな本を隠し持っていたの」
「やだー」と黄色い声が重なる。あたしも笑いながら聞いてはいたのだけれど、ふと俊成はどうなのだろうと考えた。
一度考え始めると頭から離れなくなって、俊成の部屋はどうだったかしら? なんて、記憶を掘り返して、怪しい場所はなかったかと探る始末だった。
別に、俊成のことを信じていないだなんて、これっぽっちも思ってなんかいない。でも、俊成だって男の子なのよね……と、考えてしまうことはある。
エッチなこと……きっと俊成だって興味がある……はず。そうわかってはいても、なんていうか、そういう本を持っていたら、ショック……かもしれない。
考え出すとキリがなくて。これはもう調べるしかない、だなんて考えてしまって、恥ずかしいと感じつつも実行に移してしまった。
あまりにも恥ずかしくて、葵にも相談できなかった。単独犯と思えば罪が軽く……ならないわよね。
もしこんなことが俊成に見つかったとしても、きっと彼なら許してくれるだろう。それがわかっていながら行動に移してしまったのは、あたしが彼に甘えてしまっているということに他ならない。しょうがないじゃないっ、だって気になるんだもの!
「ふぅ……。お、落ち着いたわ……」
自分にそう言い聞かせて、ついに捜索を実行する。
「まずは、ベッドの下よね」
エッチな本を隠すのはベッドの下が多い、らしい。実際に友達の彼氏はご丁寧に隠し場所として利用していたのだそうだ。
「ん?」
奥の方に何かある……。もしかして、見つけてしまったのかしら?
ベッドの下へと手を伸ばす。何かを掴む感触に緊張が走る。
ま、まさか俊成……っ!? あたしは喉を鳴らすと、掴んだそれを、引き寄せた。
それは箱だった。高さはそれほどでもないけれど、幅はそれなりにある。そう、例えばエッチな本を入れられる程度には。
「……」
いざ目の前にしてみると、勇気がいるのだと実感する。
開けて、もし本当にエッチな本があったらあたしはどう思うのだろう? ううん、なかったとしても不安はあるのかもしれなかった。
俊成はあたし達にあまりエッチな目を向けてこない。それが大事にされている結果なのだとわかってはいても、踏み込んではくれないのだという落胆はあった。
うん、そう思っていたからこそ、キスの回数が無制限になったというだけで嬉しくてたまらなくなってしまったのだ。これなら次に進むのも……近いうちにあるんじゃないかって思った。そううまくはいかなかったのだけれどね。
実は性欲がない……なんてことはないわよね? 友達の話では男の子はそういうことに興味津々みたいだし、実際に今までの男子は欲望を感じさせる目をしていたのを見たことがある。
俊成はどう考えているのかしら……。他の男子を参考にしようとしても、一番重要な彼を知らなきゃどうしようもない。
「考えているばかりでどうなるっていうのよ! 女は度胸! えいっ!!」
うだうだとした意味のない思考を、自分に喝を入れて打ち切る。気合とともに、箱を開けた。
開ける瞬間に目を閉じてしまっていたようで、視界が真っ暗になっていた。怖がってなんかいないと言い聞かせてゆっくりとまぶたを上げた。
「……カマキリ?」
中身を目にして、あたしは思わず首をかしげてしまっていた。
当たり前だけれど、本物のカマキリではない。それは一枚の画用紙に描かれたもの。今のあたしが見れば稚拙に感じられる出来栄えの絵だった。
でも、見覚えがある。いいえ、見覚えがあるなんてものじゃなかった。
「……あたしの絵、よね」
それはあたし自身が描いたもの。そう、幼稚園の頃に描き、俊成に渡したのだ。
記憶が曖昧だけれど、俊成の思い出はちゃんと残っている。あたしだってその時に交換した俊成の絵を持っているのだから。それでも、自分が渡したものは忘れたとは言わないけど、思い出すのにちょっとだけ時間がかかる程度には頭の奥底に仕舞っていたみたい。
虫の絵を描く女の子なんて、今になるとどうかと思う。だけど、俊成はすごく褒めてくれて、すごく喜んでくれていた。そして、こうやって大切に取っておいてくれている。
「ふふっ」
そんな幼い日のことを思い出してつい笑みが零れる。
「…………ふえぇ」
そして、涙が零れそうになった。
俊成もあたしとの思い出を大切にしてくれている。それがやっぱり嬉しくて、とても胸が苦しい。
いっしょにいられて楽しい。とても幸せ。でも、この先の不安がまったくないわけじゃなくて、だから今日は無断で彼の部屋にいる。
俊成が本当にどうしたいのかがわからない。どんな答えを出そうとしているのか、そのためにどんなことを考えているのか。いくらキスをして繋がった気になっても、わからなかった。
彼のペースでいいと言った手前、急がせることもできなかった。自分がどんなに焦って不安が膨らんでも、俊成が焦った末の結果を出す方が怖い。
あたしは俊成の彼女。恋人で、それは葵も同じ。だから、彼が選ぶのは、あたしか葵のどちらかだ。
いつまでも子供なんかじゃない。いつまでも同じ関係ではいられないって、知っている。
「ひっく……ぐす……」
しばらく小さな嗚咽を漏らしていた。こんなところ、俊成や葵には見せられない。
落ち着いてしまえば自分がどれだけバカなことをしていたのかわかってしまう。絵を箱に収めて、元あった位置に戻した。
「……帰ろう」
気持ちをリセットすれば、また笑顔で会えるから。
あたしが立ち上がろうと力を入れた瞬間、ドアが開いた。
「あれ、瞳子ちゃん来てたんだ?」
入ってきたのは葵だった。どうやら帰るタイミングを失ってしまったようね……。
「え、ええ。でも俊成帰ってこないみたいだし、ちょうど帰ろうかなって思っていたところよ」
「そっかー」
葵はニコニコしながら隣へと座る。少しだけ圧力を感じてしまうのはなぜなのかしら?
葵とは俊成のことでよく相談をしている。不安なことだって、たくさん話し合った。
でも、泣いてしまうほどの感情は見せられないでいた。たぶんプライドのせいね。一人で勝手に泣いているところを見られるだなんて、いくら葵相手でも恥ずかしいもの。
だけどいい機会なのかもしれない。この際相談してみようか。考えをまとめようとしていると、葵の方が先に口を開いた。
「トシくんがいないなら帰ってくるまで将棋でもしようよ」
「将棋って、また突然ね」
「いいじゃない。今日の私は絶好調だよ! 勝てる気しかしないんだからねっ」
いつになく自信満々な葵。もう準備を始めちゃっているし、別にいいかと受けることにした。
駒を配置すると、葵の雰囲気が変わった。
スイッチのオンオフがわかりやすいのはいつも通りなのに、どうしてだか、今回はその変化した雰囲気に飲まれそうになっている自分がいた。
目を瞬かせる。目の前にいるのは葵で間違いない。そんなの、当たり前だ。
なのに、葵が葵じゃないみたいに思えてならない。その感覚が拭えなくて、声もかけられなかった。
「瞳子ちゃん」
「ひゃいっ!?」
対局の途中で前触れもなく名前を呼ばれるものだから、恥ずかしくなるくらい変な声を上げてしまった。
葵はそんなあたしをからかうでもなく、静かに続きを口にした。
「夢のこと……なんだけど」
「夢?」
言いにくそうに紡がれた言葉には、ただらない雰囲気があって。今の葵の雰囲気と合わせればどれだけ真面目な話なのかがうかがい知れる。
普通なら、いきなり夢のことと言われてもなんのことだかわからないだろう。だけどあたしと葵の中では「夢」となれば共通する話は一つだ。夢とは思えないほど現実味のある、夢。
「うん。瞳子ちゃんはどう思っているのかなって」
今さらといえば今さらな話だった。
俊成と葵が隣にいなくて、独りぼっちになっている夢。他の夢の時はなんとも思わないのに、その夢だけは妙な現実感があって、それが少なからずあたしを不安にさせる原因の一つだった。
とはいえ、あくまで夢の話。目が覚めれば葵にも、俊成にだって会える。前に聞いたけれど、想い人が夢に出ないのは現実で良い兆候なのだとか。
だから、あまり気にするものでもないのだと、自分に言い聞かせていた。
「そっか」
そんなことを葵に言うと、元気のない笑顔を返された。気になる反応に、どうしたのかと尋ねようとしたら、パチィンッ! と小気味の良い音が室内に響いた。
「ほら、瞳子ちゃんの番だよ」
駒を打ち込んできたのだと気づくのに数秒かかってしまった。逆らえない雰囲気に、あたしは将棋に集中することしかできなかった。
「負けました」
そこからの葵は厳しくあたしを攻め立てた。いつもと違う彼女の攻めに、あたしの守りは簡単に剥がされてしまう。
「ねえ、瞳子ちゃん」
静かな、でも有無を言わせない言葉。勝負に勝ったからなんかじゃなくて、やっぱり今日の葵は何かが違っていた。
あたしには彼女の言葉を待つことしかできない。こんなにも葵からプレッシャーを感じるなんて、初めてのことだった。
「今日はトシくんを抜きにした、私達の話をしようよ」