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第170話 ゆっくり、ゆっくりと

 葵の涙を目にして、俺は胸が締めつけられる思いをした。


「葵……?」


 言葉をかけるかどうかと迷っていると、隣に座っている瞳子が葵の様子に気づいた。心配そうに彼女の顔を覗き込む。


「瞳子ちゃん? え、あ……」


 葵は遅れて頬に伝う雫に気づく。


「ごめんね……。別に悲しくて泣いたわけじゃないんだよ」


 恥ずかしそうにハンカチで涙を拭う葵。言葉通り、悲しみを表情で見せることもなく、それどころか照れ笑いすら浮かべていた。


「トシくんと瞳子ちゃんといっしょにいられて……それが本当に嬉しくてね。それだけで胸がいっぱいになっちゃったみたい」


 無理をして笑っている……わけではない。誤魔化そうと取り繕っているわけでもなかった。

 それでも、俺には葵のこの笑顔を見つめるのがつらすぎた。


「……あたしもよ。ずっとこうしていたいと、本気で思うわ」


 瞳子が葵の手を両手で包み込む。

 青い瞳が潤んでいて、今にも泣いてしまいそうだった。それでも涙が零れることはなくて。瞳子の表情を見ていると俺の方が泣いてしまいそうになる。


「……っ」


 魅力的すぎる二人の女の子。

 そんな二人に胸が苦しくなるほど愛されている。本当に恵まれていて、贅沢なことだ。


 けれど、俺達の関係は簡単に作り上げられたものではない。

 幼い頃から少しずつ築き上げてきた。互いの良いところや悪いところでさえも隠すことなくさらし合ってきた。

 仲良く遊んだ。好意を表してきた。言い合いもした。ケンカだってした。仲直りをしたり、助けたり、助けられたりして……。たくさんの思い出があった。

 だからこそ信頼している。同じ時を同じ場所で過ごしてきたからこそ、俺への気持ちが嘘偽りのものではないと断言できた。


 変わらなければいいのに。ずっと三人で仲良く過ごしていけるだけで幸せでいられるのに。

 それでも変わらずにはいられない。だって俺達は歳を取っていくから。

 俺もいつかはおっさんになる。前世のように……いや、前よりはマシなおっさんになるつもりだけども。


「そうだな。俺も同じ気持ちだ。葵がいて、瞳子がいて……三人で一緒に居られる時間が幸せでたまらないよ」


 葵の手に重ねられた瞳子の手。俺は彼女達の手をさらに上から包んだ。


「トシくん……」

「俊成……」


 潤んだ黒と青の瞳が向けられる。

 まったく、二人とも可愛いなぁ。

 葵も瞳子も本当に美人になった。容姿はもちろんのこと、中身も美しく気高く……俺以上にものすごく成長していた。

 ずっと近くにいたからこそ知っている。二人がどんな経験をして、どれだけがんばってきたかということを。

 だから、俺は答えを出さなくちゃいけないんだ。


「デートを続けよう。今日は特別な日だ。ずっとここにいるのは勿体ないよ」


 覚悟は決めてきた。二人にもそれは伝わっているだろう。そのつもりで、今日という日に臨んでくれていた。


「……そうだね。デートはこれからだもんね」

「久しぶりに三人で遠出しているんだもの。俊成の言う通り、次に行かなきゃ勿体ないわ」


 葵と瞳子が温かな笑顔を向けてくれる。

 想いは膨らんでいる。気持ちが抑えられないほど大きくなっている。

 だけど破裂させるわけにはいかない。そんな雑に終わらせていい気持ちではないから。

 これだけ待たせたのに、葵も瞳子も忍耐強く待ってくれたのだ。俺を急かさないように、焦らせないように、根気強く待ち続けてくれた。

 だったら二人にとって少しでも良い形で伝えたい。楽しんで、落ち着いて、そしてゆっくりと気持ちが整理できますように……。

 自分勝手だとわかっていながらも、そう願わずにはいられないのだ。



  ※ ※ ※



 水族館を出た。

 外に出た瞬間、冷たい風にさらされて身震いする。自然と俺達はくっついて歩いた。

 温まるついでにウィンドウショッピングをした。三人で思い思いの感想を言い合ったりして盛り上がった。

 以前はよくあった光景。俺達にとって楽しい時間だ。


 だけど終わりは近づいてくる。

 店を出れば日が暮れかけていた。時計を確認すれば、ディナーを予約していた店に向かわなければならない時間だった。


「少し歩くけど、大丈夫か?」

「もちろんだよ。トシくんと瞳子ちゃんが一緒ならどこまでも歩けちゃうんだから」

「葵がそう言っている時が一番信用ならないんだからね。俊成……途中で休憩できるところはあるのかしら?」

「葵の体力込みでちゃんとリサーチしているからな。いくつか休めるポイントを頭に入れてある。なんだったら横になれる場所だってあるぞ」

「私なんでそんなに信用がないの!?」


 葵がプンスカと怒る。俺と瞳子はやれやれと息をついた。


「ぷっ」

「ふふっ」

「あははっ」


 俺達は揃って噴き出す。

 こんな他愛もないやり取りが楽しくて、心の奥底から笑いが込み上げてきた。


 体力があまりない葵。彼女に足りないところは他にもあって、それ以上に数えきれないほどの良いところがある。

 瞳子もそうだ。完璧に見えがちな彼女だけど、苦手なことや嫌いなことがある。

 そうやってダメなところがあっても、そんなものは問題にならないくらいの魅力に満ち溢れていた。

 そして、それは俺もだ。少なくとも、葵と瞳子はそう思ってくれている。俺が知らない俺の良いところを、ちゃんと見てくれている。


「ゆっくり歩こう。せっかくのディナーだ。少し運動してお腹が減った方が美味しく食べられるよ」

「そうだね。たくさん歩いてお腹を減らさなきゃだね。ふふっ、ディナーだなんて大人っぽいよね。どんな料理が出るか楽しみだなぁ」

「あたしも楽しみ。俊成はどんなお店に案内してくれるのかしら。それにしてもクリスマスなのによく予約が取れたわね」


 手を繋いで、両手に葵と瞳子の温もりを感じる。

 三人で仲良くおしゃべりをしながら歩いた。ゆっくり、ゆっくりと。時間を惜しむかのように俺達の足取りはのんびりしたものだった。

 できれば今日が終わらないでほしい。そう願いながらも、俺達の足は確かな終わりへと近づいていた。


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