パチッと目が覚めた。いつも寝不足で、スマホのアラームが鳴っても一発で起きることがないのに妙にすっきりしている。「変だな」と思いながら天井を見たところで「は?」と声が漏れた。
(天井、こんなんだったっけ……?)
最初に目に入ったのはやけに低い天井だった。その天井の端から透け気味の布が垂れ下がり、四つ角でドレープ状に綺麗に縛られている。
(もしかしなくても、これって天蓋付きベッドってやつなんじゃ……)
最初に頭に浮かんだのは「なんで?」という疑問だった。生まれて三十六年、天蓋付きベッドなんて見たのは初めてだ。そんなベッドにどうして自分が寝ているのだろう。「たしかパンフの修正依頼をして……」と、寝る前の記憶をたどりながら体を起こす。
「……わぉ」
出てきた言葉に自分でも驚いた。まさかそんな外国人みたいな言葉を口にする日が来るとは思わなかった。そのくらいとんでもない部屋がドレープ状の布の向こう側に広がっている。天蓋付きベッドもすごいが部屋全体もすごい。まるでベルサイユ宮殿のようだ。
(いや、ベルサイユ宮殿なんて行ったことないけど)
行ったことはないが漫画やアニメで見たことはある。旅行番組だとかでも見た。それらを彷彿とさせるような部屋の様子に、気がつけばポカンと口を開いていた。そのまましばらく豪華な部屋を眺めていたが、段々と表情が険しくなるのがわかる。ゆっくりと口を閉じ、眉間にも皺が寄っていく。
(どこだよ、ここ)
どうして自分がこんなところに寝ていたのかさっぱり思い出せない。「どうなってんだ」と視線を手元に向けたところで、二度目の「わぉ」という声が漏れた。
なぜか袖口にフリフリのレースが付いている。胸元もたっぷりのレースで飾られていた。おおよそパジャマとは思えない服に「なんじゃこりゃ」と思ったが、視界に映り込んだ寝具に眉間の皺がますます深くなった。掛け布団にはこれでもかというくらい豪華な刺繍が施されている。艶々して見えるのは、もしかしなくてもシルクだからじゃないだろうか。
「マジでどこだよ、ここ」
(こういうときこそ冷静にならないと駄目だ。冷静になるんだ、俺)
まず頭に浮かんだのは、これは夢に違いないということだった。目を開き、もう一度ぐるりと部屋を見る。何度見てもキラキラ目映いベルサイユ宮殿だ。念のためと頬をつねってみたが予想どおり痛い。
(だよな。夢にしちゃあリアルすぎる)
次に慧人が考えたのは誰かに連れて来られたという可能性だった。例えば帰宅途中で事故に遭ったのかもしれない。この仕事を始めてからというもの毎日が睡眠不足でボーッとしてしまうことがよくある。そのせいで地下鉄に向かう階段を踏み外した可能性を考えた。
(そんでもってどこかの金持ちが助けてくれて、ベルサイユ宮殿みたいなこの部屋に連れて来てくれて……なんてこと、あるかーい!)
思わず突っ込んでしまった。大きく息を吐いてから部屋をもう一度見る。
(どこだかわからないけど、俺は今ベルサイユ宮殿的な部屋にいる)
理由はわからない。こういうときはわかっていることから整理したほうがいい。慧人は「よし」と頷くと「俺は佐々野慧人、三十六歳独身」とあえて口に出した。
(記憶喪失ってわけじゃなさそうだな)
名前も年齢も、住んでいたマンションの住所も言える。イベント企画運営会社に勤めていることも、その会社がブラックであることもしっかり覚えていた。もちろん今抱えている仕事のこともはっきりわかる。
半年前、慧人はとある人気ゲームのイベント企画チームに入ることになった。中堅どころが一人、体調不良で離脱したからだ。それからというもの毎日血反吐を吐くような思いで仕事をしてきた。昨夜もドリンク剤を片手にメールチェックをし、出演者からの「プロフィールの変更を……」という文面に「またかよ!」と毒づいたことも覚えている。
(これで何度目だよ)
ため息をつきながら、パンフレットを製作している編集プロダクションに大慌てで連絡した。イベントサイトに載せているプロフィールテキストの修正依頼はメールを送り、ついでに気になっていた別の画像の明るさ調整の件も書いておく。こっちは社内スタッフだから出社したあたりで内線を入れることにしよう。そうやってあれこれしている間に朝の五時になっていた。
虚ろな目で明るくなりつつある窓を見た。貫徹の自分とは裏腹に外は爽やかな春の夜明けといった感じに見える。それに一抹の虚しさを感じつつ、一時間だけ仮眠を取ろうと机の下に潜り込んだ。
机の下は徹夜組にとっての寝床で、そこに毛布を持ち込んで寝る猛者もいる。慧人はそこまでしたことはないものの、段ボールを敷くと暖かいことに気づいたのはつい最近だ。「こんなライフハック、うれしくもなんともねぇよ」とため息をつきながら段ボールの上で横になった。
(……で、目が覚めたらベルサイユ宮殿でした、と)
改めて部屋を見回した。何度確認してもベルサイユ宮殿にしか見えない。少なくとも築三十年以上経ったビルの一室とはまったく違う。「マジでどこだよ」と思いながらベッドから抜け出した慧人は、カーテンに近づくとほんの少しめくって外を見た。
「わぉ」
窓の向こう側に見えた景色に三度目の声が漏れた。思わずそんな言葉が出てしまうくらいの光景が目の前に広がっていた。
窓の外は「ザ・庭園」と言わんばかりの状態で、まさにテレビや動画で紹介されるような西洋風庭園そのものだ。それが延々と続いている。見える角度から、部屋が二階にあることもなんとなくわかった。
(天蓋付きのベッドで部屋の中はベルサイユ宮殿、そして西洋の城にあるような庭……)
不意に“異世界”という言葉が浮かんだ。「いやいや、そんなわけないだろ」と即座に否定したものの、そうした言葉を社内でよく耳にしていたからかなかなか消えてくれない。それどころか見れば見るほど異世界じゃないかと思えてきた。
日本のどこかにはこうした場所もあるだろう。それなのに“異世界”だと思ったのは雰囲気というか空気感というか、そうしたものが日本っぽくないような気がしたからだ。外国の可能性もあるが、慧人はパスポートを持っていない。そもそも会社で寝ていたのに目が覚めたら外国なんてあり得なさすぎる。「異世界のほうがあり得なさすぎるだろ」と乾いた笑いが漏れたものの、頭の中では“異世界転移”というワードがピカピカと点滅していた。
隣のチームがまさにそういう作品のイベントに携わっていた。おかげで言葉やお決まりの設定などはなんとなくわかる。「そういう作品もおもしろそうだな」と思ったこともあった。そのとき仕入れた情報を鑑みるに、こういうのが異世界転移というに違いない。
(なるほど異世界転移か。そりゃすごい。あはははは……って、笑い事じゃねぇし!)
突っ込みながら勢いよくカーテンを開けた。窓に顔を貼り付けて左右を見たものの、とんでもない広さの「ザ・庭園」が続いている。しかも庭園に並行しているかのように建物の壁も続いているようだった。
(まんま城じゃねぇかよ)
これは部屋どころか建物自体がベルサイユ宮殿かもしれない。そう思った慧人は「マジか」とつぶやくと、カーテンを元に戻してフラフラした足取りのままベッドへと戻った。