ベッドの上であぐらをかいた慧人は、一度目を閉じると「落ち着け、俺」と何度かつぶやいてから目を開けた。
(まだここが異世界だと決まったわけじゃない)
悪あがきをするようにそう考えた。頬をつねって痛かったからといって夢じゃないとは言い切れない。むしろ夢であってほしい。そう願いながらも首筋に冷や汗のようなものが流れるのを感じ、腹の底がゾッと冷えるような感覚になった。
(……いくら考えてもこの状況、異世界転移っぽいよな……)
異世界転移は漫画や小説などで大流行のジャンルだ。そう、娯楽の一ジャンルであって現実に起こることじゃない。それなのに自分はこうして謎の場所に来てしまった。しかも会社で寝て次に目が覚めたらここでした、なんてあり得ない状況だ。聞いていたストーリー展開とあまりに似すぎていて笑いすら出てこない。
(こんなことになるってわかってたら、そういう本一冊くらい読んでおいたのに……)
話を聞いて興味を抱いたものの、仕事が忙しすぎて実際に作品を見ることはなかった。そのことを今さらながら後悔する。
(異世界転移って、どうやったら元の世界に戻れるんだ……?)
考えたところでわかるはずがなく、そもそも戻ることができるかすら怪しい。
(こういうのって、大抵事故に巻き込まれて実際は死んでるとか、あとは召喚されてどうこうとかって話が多いって言ってたっけ)
同じチームの誰かがそんな話をしていたのを思い出した。
(ベッドに寝てたってことは召喚ってのとは違うってことだよな……?)
それなら、やっぱり事故か何かで異世界に来たということなのだろうか。元の世界で自分がどうなったか気になるものの、今はこの状況を把握するほうが先だ。
(まずはここがどこで、なんでベルサイユ宮殿的なところで寝てたのかだよな……)
ふと「このまま元の世界に戻れなかったらどうなるのか」なんてことを考えてしまった。戻ることができなければ、このままここで一生を過ごすことになる。
(そうか、ここで年取って死ぬってこともあり得るのか)
そう思うとなんともいえない気分になった。向こうも決していい環境とは言えないが、それでも二度と戻れないかもしれないと思うと一種の郷愁のようなものを感じる。
(元の世界に戻れるといいなぁ)
もはや神頼みの心境だ。だが、祈ったところでどうにかなるわけでもない。
(戻る方法を探さないとな……いや、まずはここがどこかわからないと駄目か。それから戻れるのか調べて……戻る……会社に戻る……)
不意に「本当にあの状況に戻りたいか?」と思ってしまった。「いやいや、そりゃ戻りたいだろ」と突っ込んだものの、本当にそう思っているのか聞かれると自信がない。そう思ってしまうような生活を送っていたからだ。
大学進学とともに上京した慧人は、卒業後はアルバイトをしながらなんとか今の会社に就職することができた。はじめはイベントに携われるのだと夢や希望でいっぱいだった。ところが、そんなキラキラしたものはすぐに木っ端微塵に砕け散った。
とにかく仕事量が多くて休みがほとんどない。会社に連泊するのは日常茶飯事で、始発で帰って部屋の滞在時間がシャワーを浴びる三十分だけという日もあった。
(なぁにが人手不足だよ)
思い出すと腹が立ってきた。そもそも社畜まっしぐらな生活になってしまったのは、現場の意見を聞かずにあちこちから受注してくる上の人間のせいだ。人手が足りないのに次々と新規の仕事を請け負うせいで、仕事量に耐えられなくなった社員が次々と辞めていく。それならと募集をかけても会社がブラックすぎるからとすぐに辞めてしまった。入社して三日目でいなくなった新入社員が出たかと思えば、「この会社に自分、合ってない気がしたんで辞めます」という書き置き一枚で消えた中途採用者もいる。
(俺、ほんとにあの生活に戻りたいのか……?)
寝る直前に見た朝日と虚しい気持ちを思い出した慧人の口からため息が漏れた。戻ったら修正を依頼したパンフレットのチェックをし、出演者の事務所に即日チェックバックを頼まなくてはいけない。編集プロダクションにはひたすら頭を下げて入稿作業をしてもらう必要もあった。そこからイベント当日までは怒濤のチェックと調整で、しかも週明けからは別のイベントの準備を始めるという話も出ている。
(そんなことになったら詰む。間違いなく詰む)
眉間の皺がどんどん深くなる。異世界転移というとんでもない状況と、戻ればまたブラックな環境で社畜人生を歩むことになる現実にすべてを投げ出したい気分だった。いっそのこと異世界で有給休暇と洒落込もうか、なんて笑いたくなった慧人の耳に「トントン」とドアを叩く音が聞こえた。
「はい」
咄嗟に答えてしまい、「しまった」と慌てて口を閉じた。ここがどこで自分がどういう状況かわからないのに返事をしてよかったのだろうか。焦る慧人をよそにドアが開く。
「お目覚めでございましたか」
入ってきたのは濃いグレーのロングスカートに白いエプロン姿の女性だった。見た目から察するに四十代くらいだろうか。よく見ると着ているのはロングスカートではなくワンピースで、以前企画したコンセプトカフェのメイド服に似ているような気もする。
誰だろうとメイドらしき女性を見ていると、慧人の視線に気づいたのか女性がチラッと振り向いた。その眼差しに慧人はドキッとした。
(睨まれた……?)
気のせいかと思ったが、どうもそうじゃない気がする。視線だけでなく表情からも刺々しいものを感じる。決して友好的とはいえない女性の雰囲気に困惑していると、「お早くお召し替えを」と言って女性がドレープ状の布の奥に視線を向けた。視線を向けると、窓と反対側の布の向こう側にポールハンガーらしきものが見えた。どうやらそこに着替えが用意されていたらしい。
「朝食に遅れることはなりません。お早くお召し替えをなさってください」
声も刺々しい。察するに、どうやら自分は歓迎されていないようだ。豪華なベッドで寝ていたが、もしかして招かれざる客状態なのだろうか。自分の立場や状況がわからず戸惑う慧人に、メイド姿の女性が「ケイト様?」と訝しがるような顔をしながら名前を呼んだ。
「はいっ。……って、え?」
名前を呼ばれ、つい条件反射で返事をしてしまった。しかしすぐに「どういうことだ?」と眉を寄せる。
自分はまだ名乗っていない。それなのにメイドらしき女性は名前を呼んだ。そういえば刺々しい雰囲気ではあるものの警戒しているようには感じられない。言葉遣いも丁寧で、しかも名前に様まで付けている。
(前からの顔見知りってことか?)
しかし見覚えはなく完全な初対面だ。それに様付けされるような立場でもなければ、ここは自分の家でもない。
不可解な状況に女性を視線で追っていると、閉まっていたカーテンを次々と開け始めた。さっきめくったときにそれなりの重さを感じたが、女性は手慣れた様子でカーテンを開け、それを房が付いた金色のロープのような紐で手際よく縛っている。明らかに毎日やっているといった雰囲気だ。
観察するようにじっと見ていたからか、視線に気づいたらしい女性がくるりと振り返った。そうしてベッドの上であぐらをかいたままの自分を見て眉間に皺を寄せる。
「もしや体調が優れないのでございますか?」
「あ、いえ……」
モゴモゴと答える慧人に女性がますます不審そうな眼差しを向ける。そんな女性の横に大きな鏡があることに気がついた。姿見なのか、それなりの大きさの鏡にはベッドにあぐらをかく自分の姿が頭のてっぺんまで映っている。……そう、映っているのはおそらく自分だ。
(誰だ、あれ)
ベッドの上にいるのは自分じゃない。それなのに頭を少し傾けると鏡の中の誰かも同じように動いた。膝に置いた右手の指をトンと動かすと、やっぱり同じように鏡の中の指が動く。
(……マジか)
まったく見覚えのない若い男はまさかの自分だった。年齢は二十代前半といった感じで、アラフォーの自分とは顔立ちも髪型もまったく違っている。一緒なのは黒髪黒目ということだけで、そういえば眼鏡をかけていないのに鏡に映る男の姿がはっきり見えていることに気がついた。
(異世界に来ると視力まで回復するのか。そりゃあ便利だな……なんて思うか!)
そう突っ込みながら右手で前髪をぐしゃっと掻き混ぜた。すると鏡の中の男も同じ仕草をする。前髪を摘んで引っ張る仕草も、痛みに眉を寄せるのもまったく同じタイミングだ。やはり鏡の中の男は自分で間違いない。脳裏に“中身だけ異世界転移”という言葉が浮かび、「なんじゃそりゃ」と思わず気が遠くなりそうな気持ちになった。
「ケイト様?」
明らかに不審がっている女性の声に、慧人はあぐらをやめてベッドの上で正座をした。そのほうが鏡に映っている人物に合っているような気がしたからだ。そんな慧人に女性が変なものでも見るような表情を浮かべながら口を開く。
「明日は
膝に乗せた自分の両手を見ながら神妙に女性の話を聞く。そうしながら「情報量が多すぎだろ……」とわずかに顔をしかめた。
(っていうか明日結婚ってなんだよ。そんな大事なこと、急に言うか? もっと事前に言ってくれないと用意とかどうすん……だよ……)
胸の中で愚痴を言いながら、ハタと気がついた。結婚のような大事なイベントを直前になって本人に言うとは思えない。おそらくもっと前から決まっていたことのはずだ。それなのに初めて聞いたようにしか思えないのは、この人物の記憶が一切ないからだ。
(おいおい、マジかよ)
自分が佐々野慧人だということはわかる。保育園で滑り台から落ちて大怪我をしたことも、中二で初めて片思いした女子が美優という名前だったこともしっかり覚えていた。それなのに「けいと」と呼ばれているこの人物のことはまったくわからない。
(そこ、一番重要なところだろ……)
そう思っても頭に浮かぶのは佐々野慧人のことばかりで、「けいと」のことは年齢もこれまでの人生も何も浮かばなかった。
(ちょっと待って。こんな状態なのに明日、誰かと結婚するってのか?)
メイドらしき女性は何ちゃらというご子息に嫁がれる、と口にした。嫁がれる、つまり自分は嫁ぐ側として結婚するということだ。しかも相手はご子息ときた。「自分のこともわからないのに知らない男と同性婚って、なんじゃそりゃ」と頭を抱えたくなる。
「お召し替えされていないということは、もしやこちらがお気に召さなかったということでございましょうか」
女性の刺々しい声に慌てて頭をブンブンと横に振った。それに眉をひそめながらも「では、お早くお召し替えを」と言って女性が部屋を出て行く。
「……マジか」
漏れた言葉はそれだけだった。
慧人はノロノロとベッドから下りるとポールハンガーに近づいた。下がっているのは真っ白なシャツと焦げ茶色のズボンで、別に珍しいところは何もない。それなのに「あぁ、異世界なんだな」と思ったのは、胸元にヒラヒラがたっぷり付いたおかしなデザインのシャツだったからだ。ズボンもなんとなく古めかしいデザインに見える。ポールハンガーのそばにはショートブーツっぽいこげ茶色の靴が置いてあるが、それもどことなく古臭いデザインだ。
(とりあえず着替えるか)
朝食に遅れるなということは、きっと呼びに来るつもりなのだろう。その前に着替えておかなければまた変な目で見られそうだ。
そう思いながらズボンを脱ごうとしたところで手が止まった。しばらくパジャマとおぼしきズボンを見つめ、それからおそるおそるウエスト部分を引っ張って中を覗き込む。
(……よかった)
もし
(ベルサイユ宮殿に褌はさすがに似合わないか)
そもそもここはベルサイユ宮殿じゃない。いや、異世界でのベルサイユ宮殿かもしれないのか。そんなどうでもいいことばかり考えてしまうのは現実を直視できないからだ。
「マジでどうなってんだよ」
つぶやいた声に「ん?」と首を傾げた。今の声は聞き慣れた自分の声じゃない。どうしてもっと早くに気づかなかったのだろう。
(気がついたところでどうしようもないけどさ)
ヒラヒラしたパジャマを脱ぎ、着替えを持って大きな鏡の前に立った。パンツ一丁という間抜けな姿だが、どこからどう見ても見慣れた自分とはまったく違う若い男が映っている。目の下にクマはなく、猫背っぽい感じもない。身長はよくわからないが高すぎず低すぎずといったところだろうか。肌は心なしかピチピチしていて髪の毛にも艶があるように見えた。鍛えているとは言いがたい体つきだけが元の自分と共通しているように見える。
(俺、異世界に来て若返っちゃったわー……)
頬を引きつらせながらも笑ってしまった。鏡の中でへらりと笑っている顔が無性に腹立たしくなり視線を逸らす。こうして佐々野慧人は、どこの誰だかわからない若い男として翌日知らない男に嫁ぐことになった。