(やっぱりたった一日で状況把握なんて無理だったか……)
馬車の中に慧人の盛大なため息が広がる。明け方まで家捜しよろしく部屋の中を漁っていたからか、すっかりいつもどおりの睡眠不足に戻ってしまった。ぼんやりした感覚を「社畜に戻った感じだな」なんて懐かしく思ってしまうのも睡眠不足のせいに違いない。
(それよりこいつ、なんで日記一つ書いてないんだよ)
これは昨日から何度も思ったことだ。慧人自身も日記は書いていないが、代わりにアプリの中で「もう無理」だとか「帰らせてくれ」だとか散々愚痴を書き散らしている。誰にも見られることのないメモ用アプリに殴り書き程度だが、書けば少しはマシな気分になった。生きていれば子どもだって言いたいことの一つや二つはあるはずだ。この世界にスマホはないようだから、それなら日記でもあるのではと思って探したもののメモ書き一つ見つからない。
代わりに便せんのような紙とペンを見つけた。本もあった。ということは文字の読み書きはできるのだろう。それなのに落書き一つ出てこない。それどころか愛用品のような物も見つからなかった。
(普通、子どものときのおもちゃとか多少は残ってるもんだよな?)
実家には今でも子どもの頃集めていたトレーディングカードが箱に仕舞われたまま残っている。処分してもかまわないが、なんとなく愛着があって捨てられずにいた。三十路を過ぎた自分でもそうなのに、自分より若そうな「ケイト」の部屋に子どもの頃の物が一切ないのが気になった。
ガラクタだからと昔のものを処分することもあるだろう。それにしてはあまりにも残ってなさすぎる。あれじゃまるで断捨離した後のようだ。そこまで考えてハッとした。
(まさか結婚するから整理したとか……?)
慧人の背筋がブルッと震えた。身辺整理しなくてはいけないほど、この世界の結婚とやらは大変なのだろうか。
「マジか」
つぶやいた声が重々しい。
(俺、これが初婚なんですけど……)
この仕事をしている限り恋愛なんて無理だからと、三十歳の誕生日を迎えたときに恋人も結婚も諦めた。デートする時間どころか休日すらほとんどなく、恋人を作ることもままならないのに結婚なんて難易度が高すぎると悟ったからだ。
(そんな俺が結婚……しかも異世界で……)
初婚が異世界だというだけでも笑い話だというのに、相手はどこの誰かもわからない男だ。そのうえ結婚は身辺整理するほどのことなのだと考えると絶望的な気持ちにしかならない。「マジか」と項垂れる慧人の脳裏に、食事のときだけ顔を合わせた「ケイト」の家族が浮かんだ。
(男と結婚すること、誰も変に思ってなかったな)
それ以前に本当に家族なのかと疑いたくなるような様子だった。最初に違和感を覚えたのは昨日の朝食のときだ。食卓に遅れて現れた自分に誰も視線を向けようとしなかった。「おはよう」のひと言すらない。食事が始まると違和感はますます強くなった。
父親らしき男性は、翌日結婚する息子の顔を一度も見ようとしなかった。母親らしき女性は何度か話しかけてきたものの、最初から答えるはずがないと決めつけているような話し方をしていた。ちなみに高校生くらいの年齢の弟もいたが、父親と同じで一度もこちらを見なかった。
(まるでのけ者って感じだったな)
それは今朝の朝食でも感じた。
(あぁいや、一度だけ声かけられたっけ)
食事が始まってしばらくしたとき、父親らしき男性が「余計なことはするな、それが家のためだ」と口にした。それが自分に向けられた言葉だと気づいたのは、かじったパンを飲み込んだときだった。
(家族全員に嫌われてるっぽかったけど、こいつ何やったんだよ)
ああいう扱いをされるには相当な理由があるはずだ。その理由も知りたくて家捜しをしたのに結局何も見つからなかった。唯一の収穫は「ケイト」の名前が「ケイト・丹下青鏡」らしいということだけだ。「丹下」は「たんげ」と読むのだろうが「青鏡」の読み方がわからない。あれこれ探したもののそのまま朝になり、着替えて朝食を取ったらすぐに馬車に乗るように指示された。
何度目かわからないため息が慧人の口から漏れる。馬車に乗ってどのくらい時間が経っただろうか。街中を走っていたときはまだよかったが、田園風景に変わってからは退屈で仕方がなかった。道が悪いのか時々大きく揺れるせいで寝ることもできない。「早く到着しねぇかな」と思ったものの、それはそれで複雑な気持ちになる。
(男と結婚、身辺整理、家族との不仲……いったいどんなフラグだよ)
半年もゲームのイベントに携わっていたからか「バッドエンドのフラグっぽいよな」なんて思ってしまい、一気に気分が重くなる。
(これから結婚相手の家に行くってのに、この格好ってのもなぁ)
自分の服を見て眉を寄せた。シャツは昨日と同じ真っ白なもので、胸元にヒラヒラしたものがたっぷり付いているのも同じだ。ズボンの色は黒色に変わったもののデザインはシャツ同様昨日のものと変わらない。ショートブーツのような靴も同じだ。どれも普段から使っていたような日常感がある。
(ウェディングドレスを着ろって言われるよりはマシだけどさ)
それでも質素すぎやしないだろうか。ベルサイユ宮殿ばりの建物を思い出すと、ますますそんな気がしてきた。それに馬車に乗っているのは自分一人で家族がついてくる様子もない。嫁入り道具的な荷物もなく、まさに“身一つで嫁ぐ”といった状態だ。それがこの世界での普通なのかもわからない。
(異世界転移とかって、状況やあらすじを教えてくれるストーリーテラー的な人は出てこないのかよ)
思わずぼやきたくなる気持ちのまま窓の外を見る。どこまでも続く青空は会社の窓から見たものと同じように見えた。寒くもなく暑くもないということは季節は同じ春なのかもしれない。違うのは空の下が田園風景ということだけで、不意に貫徹した朝に感じた虚しい気持ちを思い出してしまった。
(なんつーか、どこに行ってもこんな人生なんだな)
どこにいても自分は世の中の小さな歯車、しかも摩耗したらすぐに交換されるような歯車でしかないのだろう。ベルサイユ宮殿に住んでいるお坊ちゃんみたいな「ケイト」になったというのに似たような印象を抱き、眉をひそめた。毎日クタクタになるまで仕事をしてきた日々が慧人の脳裏に蘇る。
任されたり押しつけられたりした仕事を必死にこなすことしかできず、それ以外のことなんて一ミリも考えられなかった。数日先の未来すら真っ暗で目先の仕事を終わらせるだけで精一杯だった。異世界でも似たような人生になるとしたらやりきれない。
(せめて社畜じゃない生活になることを祈ろう)
いや、いっそ何も考えず諦めたほうが、気が楽かもしれない。それでもつい
(異世界転移ってだけでも手一杯だっていうのに、「ケイト」のこともわからないのがなぁ)
ため息が漏れたところで前方に街らしきものが見えてきた。出入り口には大きな門があり、街の奥のほうにはうっすらと小高い山のようなものが見える。そういえば田園風景に変わる前にも似たような門をくぐったなということを思い出した。
近づいてきた門は最初に通過した門より立派なものだった。その門を抜けると馬車の動きがなめらかになる。上下に跳ねることがなくなり、道の両脇には大きく立派な建物が次々と現れた。出発した街はどちらかというと西洋色が強い印象だったが、この街は和洋折衷といった感じだろうか。歩いている人もアジアっぽい服や西洋風など様々だ。
そんな街並みを通り抜けた馬車は、またもや「ザ・庭園」と言いたくなるような場所に入っていった。前方を見るとベルサイユ宮殿とは違う雰囲気の屋敷がドンと待ち構えている。
(老舗旅館と文化財をミックスした感じだな)
しかし完全な和風でもない。近いのは文明開化か大正ロマンといったところだろうか。
(ここに今日から住むのか)
玄関前に到着した馬車がゆっくりと止まった。乗ったときと同じように従者らしき男が扉の前に立ち、台座を設置してから扉を開ける。眼鏡を押し上げようとする右手に気づいた慧人は、「そういやもう眼鏡はしてなかったっけ」と小さく笑ってから馬車から下りた。
見上げた建物はとんでもなく大きかった。今朝までいたベルサイユ宮殿に決して引けを取らないサイズだが、見慣れた雰囲気だからか少しだけホッとする。そう感じてしまうのはいろいろありすぎて感覚が麻痺しているからかもしれない。
「どうぞこちらへ」
玄関前に立っていた男が、そう言いながら招き入れるように左手を動かした。開いているドアの奥はある意味想像どおりの大正ロマン風で、「迎賓館って感じだな」と見たこともない建物の名前を思い浮かべる。立ち止まった慧人を気にすることなく、スーツっぽい服を着た男が建物の奥へと歩き出した。
(メイドがいるってことは執事もいるのか)
男が執事かはわからないがそんなふうに見えた。年齢は自分と同じくらいだろうか。
(でも、この人と自分はまったく違う)
この世界での慧人は何もわからない子どものようなものだ。それなのにいきなり結婚生活に突入とはハードルが高すぎる。笑いたくなるような、それでいてため息をつきたくなるような複雑な気持ちになりながら執事の後を付いていく。こうして佐々野慧人は三十六歳にして初の結婚生活を送るべく、馬鹿でかい屋敷の奥へと向かった。