その後も慧人が「こんにちは」と言うとチリンチリンと返事をするように鈴の音が鳴った。ここまで反応してくれるなら、もしかして精霊と何か話ができるかもしれない。そう思ったものの何を訊ねてもチリンチリンとしか聞こえない。ページに書かれている楽譜も「ドシドシ」ばかりになり、すっかり「ミレミレ」は消えてなくなっていた。
(まぁ、とりあえず収穫はあったからいいか)
精霊は人の心を読むことができる。もちろん言葉も理解しているのだろう。だから返事をするように鈴の音が鳴るに違いない。考えていることすべてを読めるのかまではわからないが、少なくとも思い出を読めることはわかった。だからピアノを弾くことが好きだった過去を読み取り、挨拶を楽譜にするなんて面倒くさいことをしたのだ。
(しかも俺の勘違いまで読み取って、勘違いのまま楽譜を書くなんてな)
これではやり手なのか間抜けなのかよくわからない。それとも精霊はそういう形でしか人と関われないのだろうか。
(でも、それじゃあ占術師はどうやって言葉を聞き取ってるんだ? それとも鈴の音っぽく聞こえるのは俺だけで、占術師には人の言葉で聞こえてるってことか?)
読んだ本には「占術師は精霊の言葉を聞く」としか書かれていないため、どんなふうに聞こえているのかまではわからない。
(もしくは言葉で聞き取ることができる特別な人だけが占術師になれるってことか……?)
それなら占術師が一人しかいない理由もわかる。
(でも、自分にしか聞こえないってことは絶対に聞き逃せないってことだよな。そういうのって重圧とかすごそうだな)
この国は精霊を神様みたいに思っている。精霊の力で国が成り立っているとみんなが信じて疑わない。その精霊の声が聞こえるのがたった一人だけだとしたら、その一人が国を支えているようなものだ。実質的な政治は国王やほかの貴族だの専門職の人だのが手分けしてやっているのかもしれないが、占術師は必ず一人しかいないと書いてあった。替えがきかない立場がどれだけ大変か、大きなイベントに関わるたびに痛感したのを思い出す。
(そういうこともあってルイスの悩みの種になってるってことか)
ジェレミに聞いた話では、ルイスのように精霊を感知できる人は少ないらしい。占術師を輩出する玉条の家の人間でもそう多くないそうだ。
(あれ? でも俺はこうして精霊の書いた本を見つけたよな? それに鈴の音も聞こえるし……)
だが、「ケイト」は国王と美魔女の間に生まれた子どもで玉条とは関係ない。どういうことだと首を傾げる慧人の耳にドアが開く音が聞こえた。急いで精霊の本を棚に仕舞い、隣の棚へと移動する。そうして何食わぬ顔でファントスを見た。
「夕食のお時間です」
「わかりました」
いつもどおりファントスに連れられて食堂に向かった。部屋に入るなりジェレミに抱きつかれ、美形の両親が微笑ましいといわんばかりの表情でそれを見ている。初対面のときの様子からして両親は「ケイト」のことを受け入れているようだが、おそらくジェレミがあれこれ話してくれていたからだろう。「まるで恋文のようだった」と口にした父親の言葉を思い出し、ありがたいと思いながらも「何を書いたんだろうなぁ」と若干心配になる。
ふと、ルイスが自分を見ていることに気がついた。顔ではなく体のどこかをじっと見ている。視線は胸より下だが足元よりは上だろうか。
(……あ)
そういえば書き換わった楽譜を何度か指先で擦ってしまった。触っただけで勘づかれた以前のことを考えると、今回も気づかれている可能性が高い。
(見逃しては……くれないか)
今度こそ逃げられないに違いない。前回のことを思い出した慧人は、肉厚のビーフステーキ的な料理に舌鼓を打つこともできず、ジェレミの話も曖昧に頷き返しながら夕食を食べ進めた。
食後、ジェレミたちを見送った慧人が食堂を出ようと振り返ると目の前にルイスが立っていた。「やっぱりなぁ」と既視感を覚えつつ、誤魔化すようにへらりと笑う。
「精霊の本を見つけたのだろう? なぜ言わなかった?」
「あー……まぁ、そうかもなぁとは思ったんですけど、もしかしたら違うかもなぁと思ったっていうか……はは、あはははは」
ルイスの眼差しは冷たいままだ。厳しい視線に口元がヒクッと引きつった。一歩後ずさりながら周囲を確認する。
前回詰め寄られたとき、いつの間にか片付けのメイドたちが姿を消していた。ファントスまでも廊下で待っていたということは、あの場にいた全員がルイスの様子を察して立ち去ったほうがいいと判断したのだろう。なんとも優秀な使用人たちだ。
(ファントスは……いるな。ハントとかいう新顔もいる)
メイドたちも片付けの手を止める様子はない。ということは前回ほど怒っていないということかもしれないが、大勢がいる中で手を嗅がれたり顔を近づけられたりするのは困る。慧人がさらに一歩後ずさると、逃がさないとばかりに右手首をがっしりと掴まれ「げ」と小さく声を漏らしてしまった。
「書庫へ行くぞ」
「へ? あ、ちょっと、」
手首を掴んだままルイスが歩き出した。足の長さが違うからか、それともルイスが早足だからか引きずられるように付いていく。何も言うことなく黙々と歩く背中からは、それなりに怒っているように感じられた。
(もうちょっと調べてから話すつもりだったんだけど、やっぱり黙ったままってのはまずかったか)
ほかにも話のネタになるようなものも見つけたいと思っていた。だが、この様子だと黙っていたのは失敗だったかもしれない。「この世界もホウレンソウが大事ってことか」と思いながら小走りで付いていく。
ルイスが無言で書庫のドアを開けた。中に入っても掴んだ手首を離そうとしない。足を止めたのはほんの少しの間で、何度か鼻をクンクンと鳴らすと通路を歩き出した。向かう先には慧人が日参している棚がある。「まさか匂いでわかるのか?」と驚いている間に精霊の本の前にたどり着いてしまった。
迷うことなくルイスが例の本の前に立った。これも精霊を感知する能力の一端ということだろうか。
「なるほど、たしかに精霊が書いた本だな」
本の背表紙を見た碧眼が慧人を見た。「ですよねぇ」と笑いながら、視線を逸らすように今度は慧人が背表紙を見る。
「なぜ言わなかった。余計なことはするな、変わったものや見慣れないものにも触れるなと言ったはずだ。それがおまえ自身のためだとも言ったはずだが?」
「もちろん覚えてます。ただ、先に一通り調べておこうと思ったというか、興味深い現象が起きてるんで最後まで確認してから報告しようと思ったというか……」
答える声が尻すぼみになっていく。視線を合わせなくても感じる鋭い眼光に「ひぇ」と首をすくめた。
「ジェレミのことは聞いてるな?」
ジェレミと聞いてちろっと視線を向けた。
「小さい頃、池で溺れた話ですか?」
「そうだ。あれは精霊の仕業だ。精霊は驚いただけでも人に危害を加えることがある。精霊側にその意図がなくてもだ。そうした精霊の扱いは玉条の人間でも難しい。だからこそ占術師は敬われ尊ばれる。玉条の人間でもないおまえが精霊に干渉すれば何が起きるかわからない。そもそもなぜおまえが精霊の本を見つけられるのかわかっていないのに、迂闊に精霊に近づくなど……なんだ?」
真剣な顔で話しているルイスが眉をひそめた。おそらくじっと見ていることが気になったのだろう。
「何か言いたいことでもあるのか?」
「いや、俺のこと本当に心配してくれてたんだなぁと思って」
前回とは違い、今の言葉は間違いなくそういう内容に聞こえた。「やっぱりいい奴だ」と思い、正直にそう答えたのだがルイスの表情が変わった。
「……何を言っている?」
まるでおかしなものを見るような眼差しに変わる。一瞬「あれ? 違ったか?」と思ったものの、心配していないのならわざわざ「おまえのためだ」なんて言うはずがない。
(もしかして自覚がないとか……?)
大いにあり得る。慧人はファントスが口にした「口下手」という言葉を思い出した。なるほど、あれは比喩ではなく本当のことだったのだ。
(これじゃあ勘違いされまくりだろ)
人は見た目や言葉遣いで相手を判断する。ルイスは間違いなくとんでもないイケメンだが、表情が変わらないせいか冷たい印象を与えていた。言い方がきついからか余計にそう感じられる。だが、ジェレミが言うとおり本当は優しい性格なのだろう。それが伝わらないのは、やはりもったいない。
(せめて本人にその自覚があれば、もう少し言い方とか気をつけそうなものだけど……って、そうか、誰からも指摘されたことがないのか)
貴族の中でも上位の家柄らしいルイスに「おまえって口下手だよな」なんて言う人はいないだろう。
(ファントスなら言いそうだけど、さすがに主従関係だと言えないか。……あー、そういう意味でも俺のほうから話しかけろって言ったんだな)
にやりと笑うファントスの顔が見えた気がした。「まぁいいけどさ」と思いながら改めてルイスを見る。
「前回もちょっと思ったんですけど、ルイスっていい人ですよね。普段はまぁ、ちょっと取っつきにくい感じもしますけど、こうやって俺のこと心配してくれてるところとかいい人だなと」
「……何が言いたい」
「だから、いい人だなぁって思ったって話です。それにジェレミも言ってましたよ。ルイス兄様は思慮深くて優しい兄だと。なるほどなと思いました」
ルイスの眉間に皺が寄った。イケメンだとそういう表情をしても様になる。どこまでも完璧な顔の作りに感心していると、なぜかムッとした表情に変わった。
「わたしのことを嫌っていたんじゃないのか?」
「へ?」
予想外の言葉に間抜けな返事をしてしまった。
「それってどういう……?」
「初対面での印象は最悪だったはずだ。その自覚はある」
「それはまぁ、多少はそう思いましたけど……でも、別に嫌うほどのことじゃないと思います」
「お飾りだと言われたのにか?」
「正直、何もしなくていいなんてラッキーくらいに思ってました」
「何もしなくていいか……つくづくおかしなやつだな」
「はは、どうもすみません」
へらりと笑うとルイスが呆れたような顔をした。
(今考えれば、精霊と接触させないためにああいう言い方したのかもしれない)
そのくらいルイスにとって精霊は注意すべき存在なのだろう。ただ、それを伝える言い方や態度がまずかっただけだ。「やっぱり不器用なんだな」と思いながら掴まれたままの手を持ち上げ、「手、離してもらってもいいですか?」と伝えた。すると慌てたようにパッと離し、なぜか顔まで逸らした。よく見ると横顔の目元が少し赤くなっている。
(それに、案外純情青年なのかもしれないし)
普段の様子やジェレミの話から、ルイスはイケメンで優秀な完璧人間だとばかり思っていた。だが、そうじゃない一面もあるのだと段々わかってきた。
(そういうところ、あの父親は気づいてそうだけどな)
イケオジの父親から全幅の信頼を置かれているのは間違いないだろう。だが、ルイスを見る父親の眼差しにはどこか心配するような雰囲気が滲んでいた。塾講師をしていたときに何度も見た、進路相談に来る親を思い出させる眼差しだ。美人な継母もジェレミの兄として頼りにしているようだが、それが負担なっていないか気にしているのもなんとなく感じていた。
(「ケイト」の家族とは大違いだ)
出世には利用するが息子としては見ていないひげ面の父親と、家族との仲介などする気がなさそうだった美魔女の母親を思い出すとため息が漏れそうになる。ちなみに「ケイト」の両親や弟の顔はすでにぼんやりとしか思い出せない。たった一日の家族だったからそうなるのも当然だ。
(「ケイト」の記憶は、これでほとんどなくなったってことか)
これまでどう生きてきたか、何を考えていたかは最初から記憶にない。家族の顔もほぼ忘れ、ベルサイユ宮殿のようなあの部屋もいつか忘れてしまうのだろう。
(そのうち「佐々野慧人」のこともこんなふうに忘れるのかもな)
不意に浮かんだ考えに背中がゾクッとした。「佐々野慧人」の記憶はまだあるが、顔はもはや雰囲気しか思い出せなくなっている。そのうち住んでいたマンションや仕事のこと、それに実家のことさえ忘れてしまうのかもしれない。
慧人の胸に例えようのない思いがこみ上げてきた。まるで大きな穴がぽっかり空いたような感覚に、泣きたいのか笑いたいのかわからない気持ちになる。喉元までせり上がってきたよくわからない感情をグッと抑え込み、精霊の本を棚から引っ張り出した。
「これ、精霊が書いた本ですよね」
本の表紙を見たルイスの表情が険しくなった。おそらく新しい悩みの種が増えたと思っているのだろう。それがもう一つ増えるなと思いながら口を開いた。
「これ、精霊がその場で書き換えている本ですよ」
「……なんだって?」
「何日も見ていて気づいたんですけど」という言葉にルイスの眼差しが鋭くなった。向けられた迫力ある視線を愛想笑いで躱しつつ、「というより、目の前で書き換わるのを見たので間違いないです」と続ける。
ルイスが澄んだ碧眼を見開いた。そのまま再び本の表紙を凝視する。
「本当なのか?」
「はい、この目で見たので間違いないです」
「精霊が書き換えている本だと……?」
どうやらそういう本はルイスも初めてらしい。唇に指の背を当てながら食い入るように本を見つめている。
(今はこの本や精霊のことに集中することにしよう)
それがいい。そうしてルイスとの距離を縮めれば、きっと友人くらいにはなれるはずだ。そうなれば自分も自然に「ケイト」だと意識できるようになるかもしれない。それがここで生きていくための最善策だ。
(その結果「佐々野慧人」だということを忘れることになるかもしれないけどな)
いや、今は考えるな。そう言い聞かせながら、手にした本を開くルイスの手元を見る。開いたページには相変わらず「ドシドシ」の楽譜があちこちにあった。思わず「ハロー」と思い浮かべた慧人の耳にチリンと鈴の音が聞こえた。