ため息をついた慧人に、「意味がわかったのか?」とルイスが尋ねた。「たぶん」と答える声にもため息のようなものが混じる。
「この楽譜は“ヘルプ”、つまり“助ける”という意味だと思います」
慧人の説明に鈴の音がチリンチリン! と鳴り響いた。背中に羽を付けた小さな精霊が「大正解!」と両手を叩いている姿が見えそうな気までする。意味がわかったのはいいが、結局今回も音楽とは関係ない言葉だったことに力が抜ける。
(しかも「助ける」ってなんだよ)
これでは精霊が誰かを助けたいのか、それとも助けてほしいのかがわからない。つまり、こうしたやり取りがこの後も続くということだ。思わず「勘弁してくれよ」と愚痴のような言葉が漏れた。
「大丈夫か?」
ルイスが気遣うように声をかける。
「大丈夫ですけど、これがまだ続くのかと思うと頭が痛いというか……。そもそも毎回楽譜にする意味があるのかって話ですよね。そりゃあきっかけとしてはよかったかもしれませんけど、もう二回目ですよ?」
これまで溜まっていたものを吐き出すように、慧人の口からスルスルと言葉が出る。
「今回のだって素直に“助ける”だか“助けて”だか書けばよかったんです。それをこねくり回してこじつけて、どんだけ面倒くさいことをやってるんだって文句の一つも言いたくなりますよ。しかもドイツ語なんてほとんど関係なかったし、英語で何か言いたいのなら最初から英語で書けよって話です。そもそも俺は日本人なんだから日本語で書けよと……言いたくもなるっていうか……」
こちらをじっと見つめる碧眼に気がつき、段々と声が小さくなっていく。口を閉じても視線を外さないルイスに慧人の口元が引きつった。
(……やってしまった)
これでは居酒屋で愚痴をこぼす向こうの自分そのままだ。しかもドイツ語だとか英語だとか、この世界に存在しない言葉まで使ってしまっている。「ケイト」は読書家で物知りということになっているが、それでも意味不明なことを何度も口にすればさすがに怪しまれるに違いない。
「あー……はは、はははは……」
困ったときは愛想笑いだ。頬を引きつらせながら笑う慧人を、なおもルイスはじっと見ていた。生え際に嫌な汗が浮かぶ。
「あー、なんかすみません。今言ったこと、聞き流してもらえるとうれしいんですけど……」
へらりと笑うと、意外にもルイスの表情が柔らかくなった。
「あの……?」
「あぁ、笑ってすまない。変わった奴だと思っていたが本当に変わっているな」
「はは、すみません、変な奴で」
「謝らなくていい。先ほどのようなことも含めておまえなのだろう?」
表情から察するに、どうやら疑ってはいないらしい。そのことにホッとしつつ、せっかくだから「おかしな奴」で貫こうと言葉を続ける。
「これからもたまに……というか、結構な頻度で変なことを口走るかもしれないですけど、こういう奴だと思って見逃してもらえるとありがたいです」
「気にしなくていい。変わっているとは思うが、そういうのも悪くないと思っている」
「そう言ってもらえると助かります」
いや、助かるという返事はおかしいか。しかしほかに適当な言葉が見つからず、誤魔化すように頬を掻くとルイスの顔が真面目なものに変わった。
「おまえのそうした姿を家族は知らないのか?」
「え?」
「物知りなところや饒舌に話をする姿を家族は知らないのかと聞いたんだ」
「あぁ、ええと、そうですね。知らないと思います」
そもそも今の「ケイト」は「佐々野慧人」だ。それにたった一日しかベルサイユ宮殿にはいなかった。誰も中身がこんなだとは知らないはずだ。
「つまり初めて見たときのようなおまえしか知らないということか……。この屋敷でも
「あー……まぁ、そういうのもアリでしょうけど、この先ずっとっていうのはしんどいかなと思って」
答えながら、「ケイト」がどんな人物だったか想像した。考えたところでわかるはずもなく、想像した人物像を演じたところですぐにボロが出るだろう。それに「生き人形みたいな人物」と言われるような人間になりきるなんて無理な話だ。
(それにしても二十三歳でそんなふうになるなんて……もしかして自分の生い立ちに気づいていたのかもなぁ)
ひげ面の父親と美魔女の母親、ついでに横顔しか見ることがなかった弟を思い出し、「あの家族の態度を見れば、自分がいわく付きだってことくらい気がつくか」と想像した。もしかしたら城から追い出された王子だということも知っていたのかもしれない。すべてを知っていたのなら、反応が薄く表情のない人形みたいな人間になったとしても頷ける。
(可哀想だとは思うけど、そんな人になりきるなんて無理すぎる)
そもそも異世界に来たというだけで手に余るのだ。余計なストレスを減らすためにも今の自分を「ケイト」だと押し通すほうがいい。
「前にも言ったとおり、結婚で人が変わることはよくあることです。結婚を機に、せっかくなら残りの人生を自分らしく生きるのもいいかなと思っただけです。それに結婚相手に嘘をつき続けるのもどうかと思って」
そう言いながら胸がチクリと痛んだ。嘘をつくのは忍びないが、この世界で生きるためには仕方ないのだと自分に言い聞かせる。
「わたしが相手だから素の自分でいようと考えたのか?」
「まぁ、そんなところです」
「……そうか」
ルイスの視線が本に戻った。誤魔化しきれただろうかと窺うように見た横顔は、なぜか少し微笑んでいるような気がする。口元は緩やかな三日月型で、目尻も心なしか少し下がっているように見えた。
(なんで満足そうな顔してんだ?)
不思議に思って見ていると、視線に気づいたのかルイスが顔を上げた。
「なんだ?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「何かあるなら遠慮せず言えばいい」
「はい?」
「丹下公のもとでは我慢して過ごしていたのだろう? 先ほどのように吐き出したいことがあるなら吐き出せばいい。意味がわからない言葉には答えられないが、聞いてやることくらいはできる」
「はぁ、それはどうも」
まさか、ねぎらいの言葉までもらえるとは思わなかった。今の声もやけに機嫌よく聞こえたのは気のせいだろうか。
(まぁ、不機嫌になられるよりはマシか。それに仲良くできるならそれに越したことはないし)
できればこのままいい関係を築いていきたい。
「ところでこれなんだが」
ルイスが楽譜を指さした。
「おまえにはこれが楽譜に見えるんだな?」
「はい」
そう答えると、ルイスが指の背を唇に当てながらじっと本を見つめた。
(楽譜が「助ける」に見えるなんて、やっぱり変だよな)
だが、間違いなく精霊は「正解!」と言うように鈴を鳴らした。もしかしたら「ヘルプ」以外にも何か書かれているかもしれない。上半身を少し屈めながらページを覗き込むと、ルイスがチラッとこちらを見たのがわかった。
「あ、すみません」
近づかれたのが嫌だったのかと思い背を伸ばす。すると「いや……このほうが見やすいか」と言って膝に置いた本をこちらに近づけるようにずらした。
「どうも」
「隣に座るか?」
「へ?」
「そのほうが見やすいだろう?」
「いや、大丈夫です。それにその台、二人で座るにはちょっと小さいし」
脚立のような台は大人と子どもなら座れそうだが、大人二人はさすがに厳しい。そう思って断ったのだが、なぜかイケメンの顔が不満そうな表情に変わる。
(さっきから何なんだ?)
あんなに表情一つ変えなかったイケメンの顔が今日はやけによく変わる。首を傾げつつページに視線を戻したところで単語らしきものに目が留まった。
(こんなの書いてあったっけ……?)
楽譜の少し上に「Allegro」という文字が書かれていた。何語かはわからないが、ほかの文字と違い一塊になっているということは単語だと考えたほうがいいだろう。
(アレ……アレゴ、アレグ、アレグ……ロ……アレグロ?)
アレグロという言葉には覚えがある。楽譜の頭部分に書かれている速度記号に、たしかそういう言葉があった。「意味はたしか……」と再び考え込む慧人に、「おまえには今もこれが楽譜に見えているんだな?」とルイスが再び問いかけた。
「そうですけど……」
慧人の返事にルイスが眉をひそめる。
「あの、それが何か……?」
「おまえには楽譜に見えているようだが、わたしには絵にしか見えない」
「……はい?」
「この部分に描かれているのは絵だ。おそらくリンデンの木だろう」
「ちょっと待ってください。リンデンの木って、
「あぁ。特徴的なこの形の葉はリンデンの木で間違いない」
ルイスの指が何かをなぞるように動いた。どうやらハートのような形をした葉が描かれているらしい。だが、慧人の目には楽譜にしか見えない。周りにあるのも文字や記号ばかりで絵のようには見えなかった。
(もしかして精霊が書くものって、見る人によって内容が違うのか?)
そうだとしたら、誰が見るかによって解釈が変わるということだ。それでは自分が読み解いた「助ける」だけでは答えにならないことになる。ほとんどこじつけのような謎解きの答えが複数あるなんて、精霊はどこまで面倒くさいのだろう。
「マジか」
思わず漏れた声に、小さくチリンと鈴の音がした。