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第57話 男の約束


「隼人、ちょっといいか?」


 翌日。床上げをした隼人が、早速体慣らしに風呂の掃除をしていると、父に声をかけられた。


「お父さん。どうしたの?」

「ちょっと二人で、話をしよう」


 隼人は頷いて、風呂を流した。濡れた手足を拭き拭き、隼人は父と自室に向かった。

 正座して向かい合う。


「体の具合はどうだ?」

「うん、もう大丈夫だよ。熱も下がったし」

「そうか。無理するなよ」

「ありがとう」


 父は押し黙る。それから、意を決したように口を開いた。


「隼人、どうしてこんな怪我をしたんだ?」


 隼人は固まる。父の様子からあたりはついていた。ついにきた、というのが正しい気持ちだ。しかしそれと、返答の準備ができているかはまた別である。何も言えないでいると、父が言葉を継いだ。


「転んだとか、そんな怪我じゃないだろう? 喧嘩か? 誰にやられたんだ」

「お父さん」

「単刀直入に聞く。隼人、お前、いじめられていたのか?」


 隼人は心臓がひゅっと縮んだ気がした。体の芯が、凍えたように冷たくなる。父は、すっと数学の教科書を差し出した。


「勝手に見てすまない」


 言いながら、ページを繰る。件のおびただしい落書きで止まる。隼人は、縮み上がり、目をそらした。それでもそらし切る度胸もなくて、そっと盗み見る。


「これはお前の字じゃない。そもそもお前は、教科書にこんなことする子じゃないね」


 体中に汗がにじむ。隼人の手は、ぶるぶる震え出す。父は、そっとその手を包んだ。隼人は思わず顔を上げる。


「隼人」


 父の目はいたいほど真剣だった。誤魔化すことはできない。それくらい、心配をかけた。しかし。話せない。膝の上の――父の手の中の拳を握りしめた。隼人は唇を噛みしめる。

 父は目を伏せる。


「母さんも月歌も心配しているよ」


 やっぱり、気づいてたのか。母と姉は、わかっていて気づいていない振りをしてくれていた。二人の心に、隼人は胸が痛くなる。隼人は項垂れた。


「もちろん、心配しているから、話せというわけじゃない」

「……お父さん」

「皆、お前の味方だ。父さんたちを信じて、話してみてくれないか」


 ここまで言われてしまっては、もう言わずにいることは出来なかった。

 隼人は背骨が突き出そうなほど背を丸め、そして観念した。


「お父さん、ごめんなさい」


 隼人は途切れ途切れに言葉をつむぎだした。


「教科書、こんなにしちゃって」

「お前がやったんじゃない。誰にやられたんだ?」


 隼人は、顔を上げ、すべてを話しだした――。



「そういうことだったのか」


 隼人の話を聞いて、父は腕組みをして、低く呟いた。顔はものすごく渋い。


「この怪我は、リンチとかじゃないんだ。一対一で殴られたから」

「それでも、殴ってきた子――一ノ瀬くんが嫌がらせをしてきたんだろう?」

「うん。たぶんだけど……」

「そうか……」


 父は目を固く閉じ、それから決然と開いた。


「隼人、その小説、父さんにも見せてくれないか?」

「えっ?」


 隼人は虚を突かれ、戸惑う。父は、うんと頷いた。


「日記代わりに書いているんだろう?」

「うん」

「ちょっと見せてくれ」


 ものすごくきまりが悪かったが、父の目があまりにも真剣なので、隼人はおずおずとノートを差し出した。父はノートを受け取ると、二、三枚ページを繰る。ものすごく汗が出た。

 他人と身内では、知られる恥ずかしさが違うのは何でだろうか。

 父は顔を上げ、「ありがとう」とノートを大切そうに胸に抱いた。そうして、強い声で続ける。


「よく話してくれた。あとは父さんにまかせなさい」

「えっ?」

「学校に行って話してくるよ」


 強い目で、父は隼人を見つめる。隼人はというと、驚きに言葉を失っていた。


「一ノ瀬くんとも、親を交えて話そう」

「――ま、待って!」


 隼人は立ち上がり、父を制した。


「俺、このことは自分で解決したい」

「……隼人」

「心配かけたのに、ごめんなさい。けど、俺、大事にしたくない」


 隼人は、ぐっと胸に拳を当てる。間違ってるかもしれない。父に頼むほうが、きっと安全だし、正しいのだと思う。今だって、怖いし迷っている。

 けれど。


「俺、一ノ瀬くんに自分の力で立ち向かって、勝ちたいんだ!」


 この気持ちに噓はなかった。

 父は黙っていた。ただ静かに隼人を見上げ、そして頷いた。立ち上がると、肩に手を置いた。あたたかなものが、肩から広がる。


「わかった」

「お父さん」

「けれど、約束してくれ。気が変わったら、すぐに言うこと。……世の中、どうしようもない人はいるからな」


 父の目は、真摯で、隼人の決意の前には言いたくないことを、あえて言ってくれているのだとわかった。隼人はその目を真っ直ぐ見つめ返し、笑った。


「わかった。ありがとう、お父さん!」


 そうして、二人は拳を合わせたのだった――。




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