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第71話 應治の決心

 日常が返ってきても、楽しいことなんてない。むしろ面倒を引き受けるばかりだ。

 支倉たちとは、悠弥と仲を戻したことで、應治とも微妙な距離感となった。別にそれはいい。いつものことだし、悠弥が支倉たちと仲良くしたがっていたから、合わせていただけだ。

 けれども。

 應治はブラインドを下した。夏の終わりとはいえ、まだ厳しい日差しが、余計に気分を膿ませる。未練がましく暑いから、嫌いだ。ちょうど水がなくなって、空のペットボトルを手に、部屋を出る。

 家政婦以外、どうせ誰もいない家。一人きりなのに、ずっと他人の気配がある。「王様気どり」だと、ケンカのたびに悠弥に言われた。


「オージはいいよなっ!親もうざくねえしっ!なんでもお手伝いにやってもらって、いつでもどこでも王様気分じゃんかっ!このわがままやろおっ!」


 涙ぐんだその顔を、何度ぶん殴ってやりたいと思ったか知れない。仕事仕事で、ちっとも家にいない。成績の話だけ、家政婦や秘書づてに確認してくる親のどこがいいんだ。

 お前には、どんなに忙しくても家に飛んで帰ってきてくれて、誕生日プレゼントやケーキを手に、必死で機嫌をとってくれる親がいるくせに。だから「いつもほったらかしのくせにうぜえ」なんて、ケーキを無視して、俺の家に遊びに来れるんだ。

 それでも。


「お前のために来てやったのに!おれ、誕生日なんだぞっ!」


 そう言って泣かれると、つらかった。大事な誕生日の日に、自分との時間を選んでくれたのだと、思った。應治のことを、気遣ってくれるのは悠弥しかいなかった。

 いつだって何でもできて、そつがなくて、冷たい印象を与える自分は、いつだって「藤貴なら大丈夫」だと、放っておかれることが多かった。悠弥だけがいつも、自分のところにずっと来てくれたのだ。


 どうやら自分は今、相当参っている。それくらい、この夏は最悪の気持ちだった。悠弥がずっとここにいないから。一人きりで、塾と学校と家を行き来するだけの日々。学校の夏期講習も終わった今、喧騒さえ遠い。

 前学期からたまった憂さだが、これまでの越し方を思うほどに――應治は疲れ果てていた。だってこれだけ献身しているのに、悠弥はちっとも、返してくれない。浮気性なのはいつものことだが、今回は別だ。龍堂のことを言われると、いつものことだと、ただ怒って済ませられない。言葉にさえできない。それほどに、ひたすら屈辱で、辛くて、痛くて――体の奥がただれそうだった。

 むしろ、前学期にて、「噴き出した」のかもしれない――そこまで考えて、應治は思考を打ち消した。それだけは、考えてはいけない気がした。

 部屋にまたひきこもる。どうせ一人なら、少しでも狭い部屋の方がいい。


「どうして、俺ばかり」


 無意識にこぼれ出た言葉に、自嘲する。なんてざまだ。思わずベッドに座り込んだ。

 もうすぐ、新学期が始まる。少しは気がまぎれるかもしれない。煩わしい学校だが、何もないよりよかった。

 懸念は中条のことだが、大丈夫だろう。なにより、今は、前学期末ほどの、熱意が持てないでいた。なるようになれ。どうせ俺は関係ない。


 通知音が鳴る。マリヤからだ。


『ごめん、邪魔したよね?』


 應治は自嘲し、スマホを取り上げた。そこで、ノックの音がする。ドアをあけると、家政婦が立っている。


「應治さま。悠弥さまがいらっしゃいました」


 應治は目を見開く。「通してください」と頼むと、荷物を整理し、ブラインドをあけた。まぶしい光が、部屋に差し込む。そこで、悠弥が入ってきた。日に焼けた顔が、にかっと笑う。


「ただーいまっ」

「……ユーヤ」

「すげー疲れたっ!なにか出して!」


 旅の格好のままで、ベッドに寝っ転がる。手ぶらだったが、そのなんとなく、くたびれた居住まいから、空港からすぐに来てくれたのだとわかった。應治は、ざわりと、いらだちに似た幸福が胸に去来するのがわかった。夕立の前の雨雲みたいに、應治の心をざあっと覆う。

 反応の鈍い應治に、悠弥はばたばたと足をばたつかせる。


「はーやーく!のどかわいたっ」

「わかった」


 應治は、部屋を出ていく。家政婦に、アイスティーを作ってくれるよう頼んだ。悠弥が来た。それだけで、應治の心に、光が差した気がした。


「どうだった、旅行」

「べーつにっ!行きなれたとこだし、フツー!」


 つまらなそうに、枕に頬をすり寄せていた。すんすんとにおいをかいでいる。そのしぐさに、應治は、そっと悠弥の側にひざまずく。悠弥に触れると、ふんと鼻をならして、頬をすり寄せてきた。弧を描く唇をなぞると、悠弥は勝ち誇ったように、笑ってきた。

 その時、家政婦が入ってきて、應治は身を離した。悠弥は、「おばちゃん、ありがとー!」とお茶を受け取って飲みだした。

 それから、悠弥の話を、聞いた。

 悠弥は恒例のヨーロッパ旅行に行ってきて、ついさっき空港から親に送ってもらってきたらしい。荷物は今は、悠弥の親が荷ほどきしているのだろう。ひとしきり話して満足すると、悠弥は立ち上がった。「帰る」とじっと應治を見つめて言う。應治は思わずその手を握った。


「雨が降ってるだろ」

「晴れてるじゃんっ」

「降ってる」


 嘘じゃなかった。空はうんざりするくらい晴れているのに、ずっとさらさら雨が降っている。悠弥は「ふーん」と言って、唇を尖らせた。


「なら、濡れちゃうなー」

「泊ってけばいい」

「ん」


 そう言って、悠弥は、應治の肩に、頭を預けた。應治は、肩越しに、スマホを見た。マリヤからの着信だろう。應治は通知をサイレントにした。だからもう、光しか見えなかった。應治は目を閉じた。

 どうにでもなればいい。先とは違う気持ちで思った。

 雨は、本降りになりだしていた。


 ◆


 夜中。目を覚ました。隣に眠る悠弥を見下ろして思う。

 俺が悠弥を守る。だから、これでいいのだと。


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