日常が返ってきても、楽しいことなんてない。むしろ面倒を引き受けるばかりだ。
支倉たちとは、悠弥と仲を戻したことで、應治とも微妙な距離感となった。別にそれはいい。いつものことだし、悠弥が支倉たちと仲良くしたがっていたから、合わせていただけだ。
けれども。
應治はブラインドを下した。夏の終わりとはいえ、まだ厳しい日差しが、余計に気分を膿ませる。未練がましく暑いから、嫌いだ。ちょうど水がなくなって、空のペットボトルを手に、部屋を出る。
家政婦以外、どうせ誰もいない家。一人きりなのに、ずっと他人の気配がある。「王様気どり」だと、ケンカのたびに悠弥に言われた。
「オージはいいよなっ!親もうざくねえしっ!なんでもお手伝いにやってもらって、いつでもどこでも王様気分じゃんかっ!このわがままやろおっ!」
涙ぐんだその顔を、何度ぶん殴ってやりたいと思ったか知れない。仕事仕事で、ちっとも家にいない。成績の話だけ、家政婦や秘書づてに確認してくる親のどこがいいんだ。
お前には、どんなに忙しくても家に飛んで帰ってきてくれて、誕生日プレゼントやケーキを手に、必死で機嫌をとってくれる親がいるくせに。だから「いつもほったらかしのくせにうぜえ」なんて、ケーキを無視して、俺の家に遊びに来れるんだ。
それでも。
「お前のために来てやったのに!おれ、誕生日なんだぞっ!」
そう言って泣かれると、つらかった。大事な誕生日の日に、自分との時間を選んでくれたのだと、思った。應治のことを、気遣ってくれるのは悠弥しかいなかった。
いつだって何でもできて、そつがなくて、冷たい印象を与える自分は、いつだって「藤貴なら大丈夫」だと、放っておかれることが多かった。悠弥だけがいつも、自分のところにずっと来てくれたのだ。
どうやら自分は今、相当参っている。それくらい、この夏は最悪の気持ちだった。悠弥がずっとここにいないから。一人きりで、塾と学校と家を行き来するだけの日々。学校の夏期講習も終わった今、喧騒さえ遠い。
前学期からたまった憂さだが、これまでの越し方を思うほどに――應治は疲れ果てていた。だってこれだけ献身しているのに、悠弥はちっとも、返してくれない。浮気性なのはいつものことだが、今回は別だ。龍堂のことを言われると、いつものことだと、ただ怒って済ませられない。言葉にさえできない。それほどに、ひたすら屈辱で、辛くて、痛くて――体の奥がただれそうだった。
むしろ、前学期にて、「噴き出した」のかもしれない――そこまで考えて、應治は思考を打ち消した。それだけは、考えてはいけない気がした。
部屋にまたひきこもる。どうせ一人なら、少しでも狭い部屋の方がいい。
「どうして、俺ばかり」
無意識にこぼれ出た言葉に、自嘲する。なんてざまだ。思わずベッドに座り込んだ。
もうすぐ、新学期が始まる。少しは気がまぎれるかもしれない。煩わしい学校だが、何もないよりよかった。
懸念は中条のことだが、大丈夫だろう。なにより、今は、前学期末ほどの、熱意が持てないでいた。なるようになれ。どうせ俺は関係ない。
通知音が鳴る。マリヤからだ。
『ごめん、邪魔したよね?』
應治は自嘲し、スマホを取り上げた。そこで、ノックの音がする。ドアをあけると、家政婦が立っている。
「應治さま。悠弥さまがいらっしゃいました」
應治は目を見開く。「通してください」と頼むと、荷物を整理し、ブラインドをあけた。まぶしい光が、部屋に差し込む。そこで、悠弥が入ってきた。日に焼けた顔が、にかっと笑う。
「ただーいまっ」
「……ユーヤ」
「すげー疲れたっ!なにか出して!」
旅の格好のままで、ベッドに寝っ転がる。手ぶらだったが、そのなんとなく、くたびれた居住まいから、空港からすぐに来てくれたのだとわかった。應治は、ざわりと、いらだちに似た幸福が胸に去来するのがわかった。夕立の前の雨雲みたいに、應治の心をざあっと覆う。
反応の鈍い應治に、悠弥はばたばたと足をばたつかせる。
「はーやーく!のどかわいたっ」
「わかった」
應治は、部屋を出ていく。家政婦に、アイスティーを作ってくれるよう頼んだ。悠弥が来た。それだけで、應治の心に、光が差した気がした。
「どうだった、旅行」
「べーつにっ!行きなれたとこだし、フツー!」
つまらなそうに、枕に頬をすり寄せていた。すんすんとにおいをかいでいる。そのしぐさに、應治は、そっと悠弥の側にひざまずく。悠弥に触れると、ふんと鼻をならして、頬をすり寄せてきた。弧を描く唇をなぞると、悠弥は勝ち誇ったように、笑ってきた。
その時、家政婦が入ってきて、應治は身を離した。悠弥は、「おばちゃん、ありがとー!」とお茶を受け取って飲みだした。
それから、悠弥の話を、聞いた。
悠弥は恒例のヨーロッパ旅行に行ってきて、ついさっき空港から親に送ってもらってきたらしい。荷物は今は、悠弥の親が荷ほどきしているのだろう。ひとしきり話して満足すると、悠弥は立ち上がった。「帰る」とじっと應治を見つめて言う。應治は思わずその手を握った。
「雨が降ってるだろ」
「晴れてるじゃんっ」
「降ってる」
嘘じゃなかった。空はうんざりするくらい晴れているのに、ずっとさらさら雨が降っている。悠弥は「ふーん」と言って、唇を尖らせた。
「なら、濡れちゃうなー」
「泊ってけばいい」
「ん」
そう言って、悠弥は、應治の肩に、頭を預けた。應治は、肩越しに、スマホを見た。マリヤからの着信だろう。應治は通知をサイレントにした。だからもう、光しか見えなかった。應治は目を閉じた。
どうにでもなればいい。先とは違う気持ちで思った。
雨は、本降りになりだしていた。
◆
夜中。目を覚ました。隣に眠る悠弥を見下ろして思う。
俺が悠弥を守る。だから、これでいいのだと。