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第79話 ひとりぼっち

 人を殴ったのは初めてだった。まさか、それが悠弥だとは思わなかった。振り切った拳が、しびれるような痛みを放ちだす。自分まで痛いなんて、知らなかった。

 應治は、自分の息が上がっているのを感じた。よくわからない震えが、体に走っていた。


「ふぇ……?」


 悠弥は應治を見上げていた。何が起こったのかわからないのだろう。呆けた顔で、尻もちをついている。ただ、打たれた方の頬に手をやり、その熱に驚き、手をのけた。「ヒッ」と声を漏らす。


「あ、あが、あっ……!」


 ばたばたと手足を蜘蛛のようにばたつかせ、後ろに尻で逃げを打った。そのみっともない様に、應治の心は余計に冷えていった。


「二度と面を見せるな」

「あが……」

「お前にはうんざりだ」


 應治は両の拳を握りしめた。打った方の節がきしんで痛んだ。悠弥は動転しきっており、聞いていない。「あが、あが」というだけの生き物になっていた。應治はいっそ、泣きたい気持ちになった。こんなものに――そう思うしかなかった。應治は涙を耐え、悠弥に繰り返した。

 應治の言葉は、数回目で悠弥にさすがに届いた。悠弥はぽかんと應治を見上げる。


「え――?」

「お前にかかわったすべてに、後悔しかない」

「おー、じ?」

「消えろ」


 消えてくれ。頼むから。

 應治は、目を固くつむり、悠弥に背を向けた。そして、歩き出す。振り返ることはなかった。


「オージ、君?体育館、逆だよ……?」


 マリヤがのこのこと、ついてきた。應治は、ひどく残忍な気持ちになった。足を止めると、顧みもせず、告げる。


「お前とも終わりだ」

「え……?」

「別れる。二度と俺の前に現れるな」


 マリヤのぼけっとした空気が固まった。何を言われているのか、わからないという様子だった。まさか、自分が切られるとは思わなかったのだろう。馬鹿な女だ。さっきだって、自分たちに引いていたくせに――友人を失った自分に、気遣いの言葉もかけられないくせに。

 應治は振り返り、くり返した。


「別れる。もう俺にかまわないでくれ」

「え……」

「わかったな」


 そもそも、許可を取るような力関係でもない。ただ、人としての義理だ。そのまま、通り過ぎる。マリヤが、「オージ君ッ……」とか細い声で叫んだ。


「いいのっ?わ、私、あのこと――」

「言いたいなら、言えばいい」


 應治は冷たい声で吐き捨てた。

 まさか、ここまで強気に出てくるとは。こんな女ごときに――いったい自分は、どれほど自分の地位を、下げてしまったんだろう。應治は情けなかった。


「えっ……」

「お前も共犯だ。学校にいられなくなる」

「わ、私はそんな……」

「試してみたらいい。もっとも、友達もいない、成績も振るわないお前の言葉を信用して、かばってくれる人間がいるとは思えないけどな」


 マリヤの白い顔が真っ青になったのを、肩越しに確認して、今度こそ應治は去った。

 顔だけが取り柄のバカ女が。あいつとのことがなければ、誰がお前なんかと付き合うものか。お前が何をしようと、俺に届かない。

 だから、なにも失うものはない。――そこまで考えて、應治は足を止めた。人知れず来ていた校舎裏――もとより、どこに向かうつもりもなかった。帰ったって、何かあるわけでもないのだから。

 そうだ、自分に失うものはなかった。本当に、何も。ただ、失い続けただけで……。影をじっと見下ろす。がくりと肩が下がった。長身を折り曲げ、應治はうなだれた。

 失うものなんて、ない。ただ、ずっと自分は一人になるのが怖かった。

 そして、今――應治は本当に、独りだった。

 背から、悲しみと孤独が駆け上ってくる。目頭からそれは零れ落ちた。

 ひとりだ、俺は。

 日のおちる影の中、應治はうずくまって泣き続けた。


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