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1 日常


「ありがとうございました~」

そうくん、美味しかったよ! また来るね」

「うん、ありがとう。また来てや~」


 そうと呼ばれたこの小さなコーヒー店のマスターは、関西訛りの話し方で常連さん達にお礼を言って、ぼちぼちと店仕舞いをはじめる。

 都内に住んで数年経つのだが、使い慣れた関西弁がなかなか直らないのか、最近はこれもこのコーヒー店の個性だと開き直って売りにしている。


 ここは都内の一等地の路地裏に入った所にある、このこじんまりとしたコーヒー店、知る人が知る名店だった。

 いや、だったというのは違うかもしれない……先代のマスターの味を引き継いだこの店はきっと名店で間違ってないし、その二代目オーナーとして働いてる想はきっと名店の店主なのだろう。


「あ~今日も沢山常連さん来てくれて楽しかったな~! 皆美味しいっと言ってくれて安心した。あ、そういえば珍しく多部ちゃん来んかったな〜」

 誰もいない店内で大きめの独り言を呟くが、その表情は曇っているわけではなく、清々しささえ感じられていた。


 数年前、想は一人で関西から東京に俳優になる夢を追って単身で乗りこみ、なんとか無名の芸能事務所に所属していたが、その芸能事務所はかなり悪評高く有名だった様で、数カ月後にはその事務所は跡形も無く消え失せた。

 それでも俳優の夢を捨てきれずにオーディションを受ける日々を送っていたが、とあるオーディションで出会った同年代の演技を見て、自分には叶わない夢なんだと身を持って思い知らされた。


 そして毎日、何の夢も希望もないままこの店にやって来たのだ。


 始めは、隅でちびちびとコーヒー一杯で閉店まで居座る迷惑な客だったと、後にマスターから聞かされることとなるが、この頃の想にはそんな余裕も無く、ただひたすら何もない自分の深夜のバイトの時間まで暇を潰せる都合のいい店だった。


「今日はずいぶん冷えるね」

「っ……は、はい……あ、コーヒーおかわり……」

 慌てておかわりを告げる姿にマスターはふわりと微笑み、想が以前から気になっていたショートケーキを目の前に置く。

「え! これっ」

「ふふふ、これはいつも来てくれてるからサービスだよ」

「あ、ありがとうございます!」

 にっこりと笑う想を見て、今度はマスターが驚く番だった。


「君……いい笑顔してるね?」

「ほ、ホンマですか?」

「ふふ、関西弁か~それもよく似合ってる」

「ありがとうございます!」

「うん、君さえよければ空いてる時はカウンターに座りな? お話も出来るし」

「っ……は、はい!」

 マスターにとっては何気ない気まぐれだったかもしれないが、想にとってこの一日は大きな出来事だった。


 こうしてマスターと毎日話をして仲良くなるうちに、お手伝いを募集していたこの店で想は住み込みで働かせてもらえるようになった。


「いらっしゃいませ~」

「想くん今日も元気だね」

「ありがとうございます! 元気が取り柄なんで」

「ふふ、ちゃんと僕の味も出せるようになったよ? 想は頑張り屋さんだからね」

「ま、マスタ~」

「ほらほら、泣かないの」

「やって……嬉しいこと言うんやもーん!」

「マスター泣かせちゃダメじゃん」

「えー? 僕のせい?」

「マスターのせいや~」

「え~」

 和気あいあいとした、楽しい雰囲気にそこにいるみんなが笑顔になる。常連さん達も想が働き始めてすぐに快く受け入れ、今では想くんにコーヒー淹れて欲しいという声も聞かれることも珍しくない。

 初めは右も左も何も分からなかった想だったが、マスターはコーヒーの淹れ方から接客、料理、それに社会人としての在り方など全てを教えてくれた。


 そして、そろそろ隠居を考えていたマスターに『想にこの店を任せたい』と言われ、ようやく独り立ち出来そうなぐらい軌道に乗ってきたのは最近だった。


 しかし、天涯孤独のマスターに本当の息子のように可愛がってもらっていた想が、ようやく恩返しができると喜んでいた矢先、体調を崩して病院に行ったマスターはそのまますぐに空に旅立った。

 マスターは自分が病気で余命いくばくもない事を知っていたが、想に心配をかけたくないからと、最後まで黙っていた。しかも、想がこの先一人でもやっていけるようにと、この店も全て想名義に変更して。


 恩返しをしたくても、もう返せないことへの悲しみに打ちひしがれていたが、マスターの味を待っている常連さんが沢山いて想を支え、何よりも残してくれたこの店を守っていきたい! と想は立ち上がり、今日まで続けることが出来ていた。


「あ~なんか久しぶりに懐かしいこと思い出してもうたな」


 静かな店内で一人呟きながら、最後のカップを拭き終わると棚へと片付けていると、閉店したはずのドアが鳴った。


 ~ カラン ~

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