それから数日。
リズの頭の中にはしょっちゅうレオが出てきていた。
「シュテファンさまのお相手が気になるんだけど……」
シュテファンのことを考えて戦略を練っていたはずが、しかしいつの間にか、レオのことを考えている自分に気がついてリズは頭をふる。
ここ数日は珍しく夜会の予定がまったくない。
年頃のレディとしては焦るべき状況だが、リズはどこかホッとしていた。
本気であれ戯れであれ、恋というものに振り回されることに少し疲れてしまった。
午前中はゆっくり休養を取り、午後からは運動不足解消と窮屈なドレスのせいで肩凝りが酷いため、母お手製のジャージに着替えて庭で剣の素振りをすることにした。
「リズ、いつも思うわ。前世の、電球とジャージやフリースは最高のアイテムだったわね……」
「お母さま、同感です」
「今生のドレスはことさら重たくて、頂けないわ」
そしてリズの母は、ドレスの重さに耐えかねてジャージに似た素材で部屋着を作ってくれたのだ。もちろん母も着用している。
しかしこの時代は、なぜか部屋着でもコルセットをつけるという厄介な習慣がある。それに辟易した母がコルセットをしているように見える魔法をかけた。完璧な部屋着である。
「えい、やあ、えい、やあ」
月に二度来てくれる剣術の先生に習った型を丁寧に復習する。前世の記憶があろうが魔法が使えようが、剣術の上達を願うならコツコツ練習するしかない。リズは運動音痴であるので、ことさら練習が必要である。
「シュテファンさまとまた手合わせ願いたいわ」
シュテファンの動きは教則本のように美しかった。王家をお守りする近衛騎士団の隊員たちが入れ替わり立ち替わりシュテファンと稽古をしており、リズもそこに混ぜてもらった。
ちなみに今リズが振っている木製の剣は、訓練のためにとシュテファンが特別に贈ってくれたものだ。リズが太い枝を振り回しているのを見て、良いものを選んでくれた。これがリズにぴったりで、素振りが楽しくなっている。
「お屋敷での手合わせ、本当に楽しかったわ……」
(でもレオさまの正体も気になって仕方がないのよね……)
思い余ってアンナベルに手紙を書いてみたが、侯爵家の嫡男ということしか知らないとのことだったし、特に馬愛好家だという話も知らないとのことだった。
「……魔法もかけてみたけれど……ダメだったのよね」
まれに、魔法使いでもないのに心をがっちりと防御した人がいる。日常的に相手に本心を悟られてはいけない立場の人に多いのだが――。
「レオさまは侯爵家のご子息、そこまでだとは思えないのよね……」
等間隔に並べた巨大な藁人形を強かに打ったところで、母がお茶にしましょうと呼びに来た。今日の訓練は終わりにする。
「そうそう、エリザベス。明日の朝、例のものが届くそうですよ」
優雅に紅茶を飲みながら母が言う。
「わ、楽しみ!」
「まったくあなたときたら……ちっともレディらしくしないんだから……でもあれは便利よね」
「はい、お母さま」
二人して笑い合う。
翌日。
リズと母が待ち望んだソレは――屋敷の玄関に鎮座していた。
「うん、形もほとんど記憶にあるものと同じだわ」
「まったく……密かに自転車の改良をしていたなんてね……驚いたわ」
前世の『便利さ』を覚えているリズの今生での不満はいくつかあるが、その中の一つが移動手段の少なさだった。現時点で貴族令嬢に許された手段は、馬車か徒歩、これだけなのだ。これにリズは、貴族の男性が乗り始めている自転車を加えることを思いついた。
ただし、現存する自転車の形態のままでは危なくて乗れない。
ので――前世の記憶を頼りに自転車職人に改善を頼んでみたのだ。改良すること数度、ようやく前世で見慣れた自転車に近いものが仕上がった。
「さすがに電動アシストは無理?」
「お母さま、そもそもこの国には電気もバッテリーもないですから……」
残念ね、と、母が笑った。
「行ってまいります、お母さま」
「ああ、本当に? 本当に追跡に行くのね、大丈夫なのね? というか自転車……あなた今生では練習していないでしょう? せめて補助輪つきにしたら……」
大丈夫大丈夫、と、手をひらひらと振ったリズは軽やかに自転車にまたがる。
「リズ、ちょっとお庭を走ってからになさい! あなたは筋金入りの運動音痴なのよ!」
「はーい」
母の忠告に従って、庭をよたよた、どたんばたん走る。
「お嬢さま、後ろを支えましょう」
と、見かねたメイド頭が飛んできた。
「ありがとう!」
(おかしいわね、もう少しスムーズに乗れると思ってたわ)
「お嬢さま、お願いですから完璧に乗れるようになってからお外へ出てくださいましね」
メイド頭と二人で芝生に倒れ込み、ハイ、と、頷くしかなかった。
ソレから数日後、今日のリズは裾や袖の膨らんだドレスではなく、丈の短いスカートの下に足首のところですぼめた女性用のズボンを着用している。
「ドレスも嫌いじゃないけれど、やっぱりこっちの方が動きやすいわね……」
ともすると動きが『今生らしくない』ことになるため、普段以上に気を付けなくてはならないが――。
「出発!」
街を走る練習が必要かと思ったが、こちらは前世で乗り回していた感覚を覚えていたため、人混みを巧みに乗ることが出来た。
「ふふ、何をやっても完璧よ!」
ただし、石畳の上は非常に乗り心地が悪い。それはリズが悪いのではなくて……。
「あうあうあう……悪路ってこれよね……ええい、魔法よ!」
凸凹のある石畳を滑らかな石畳へとかえたうえで、自転車にも安定感を足すよう魔法をかける。
微調整を加えながら自転車を飛ばす。
「ひゃっほーう!」
坂道を勢いよく下る。新鮮な空気が頬にあたって気持ちがいい。
「あ、いけない!」
慌ててブレーキをかけた。
急停車したのはわけがあった。行く手に馬車が止まっている。
「朝から元気だねぇ……レディ・リズ」
窓から顔をだしたのは、満面の笑みのシュテファンだった。近衛騎士団の制服を身に着けている。これからそちらの仕事なのだろう。
「まぁ! シュテファンさま、おはようございます」
「勢いよく坂を下りてくる姿が見えて、思わず馬車をとめてしまったよ。それ、自転車かい?」
「はい」
「いいね、ちょっと……触らせてもらえないだろうか? ずっと興味があったんだ」
なんてすばらしい日だろう、と、リズの心はたちまち明るくなる。馬車から降りたシュテファンに自転車を渡し、乗り方を簡単に説明する。
「乗ってみてもいいかな?」
「どうぞ!」
シュテファンが嬉々としてリズの自転車に跨る。少しよろけたものの、あっさり乗りこなしてしまう。
「まあ、素敵……!」
その間、リズの心はふわふわと舞いっぱなしである。
なにせ、外とはいえ二人きりである。シュテファンと手が触れたり、シュテファンの体に触れたり……。なにより、目新しい自転車というもののおかげで、互いに笑いっぱなしである。
(ああっ、幸せ……)
――この笑顔を、いつも誰に向けているのだろうか。
――この自転車で、シュテファンはどこへ行くのだろうか。
そんなことも思ってしまうが、何より、シュテファンと一緒に笑いあえることがリズは素直に嬉しかった。