「うそ……」
震える指で、紗菜はそっとメールを開いた。そこに書かれていたのは、たった一行だけの、短い文章だった。
『君は、一体何者なんだ?』
鼓動が、時が、世界が、一瞬止まった気がした。
返信は、来てしまったのだ。
「ちょ、紗菜!? どうしたの、固まっちゃって」
向かいの席で、有紀が怪訝そうな顔でドリンクバーのメロンソーダを啜っている。紗菜は声も出せず、ただスマホの画面を指差した。有紀は「なになに?」と身を乗り出し、その画面を覗き込む。
「……え、うそ、マジで!? 返信来たの!?」
有紀の素っ頓狂な声が、テスト勉強に励む学生たちでざわめくファミレスの店内に響き渡る。いくつかの視線がこちらに向くのを感じ、紗菜は慌てて「しーっ!」と人差し指を口に当てた。
「ど、どうしよう有紀……『何者なんだ?』だって……」
「どうしようって、そりゃあ……」
有紀はゴクリと喉を鳴らし、真剣な眼差しで紗菜を見つめた。そして、ニヤリと口角を上げる。
「第二のクイズを送るしかないっしょ!」
「またクイズ!?」
「当たり前じゃん! ここで『私、あなたの過去なんです』なんて言っても、絶対信じないよ。それに、向こうも返信してきたってことは、間違いなく『ポピーの超合金』に心当たりがあるってことだよ! これはもう、確信犯だよ!」
有紀はまるで名探偵のように目を輝かせているが、紗菜の心臓は不安と期待で張り裂けそうだった。確信犯。その言葉が、やけに重く響く。もし本当に、この人が「あの頃の私」だとしたら、彼は今、どんな気持ちでこの短い問いを投げかけてきたのだろう。
その頃、都内の一等地にある、高層マンションの一室。
野口大輔は、書斎のデスクでMacBookの画面を睨みつけていた。差出人『高校二年生 紗菜』からのメールを開いたまま、彼はもう三十分以上も身じろぎ一つしていない。
(ポピーの超合金……ロケットパンチ……)
その単語は、彼の記憶の海の、深い深い場所に沈んでいたはずの宝箱を、無理やりこじ開けるような響きを持っていた。四十数年間、誰にも話したことのない記憶。いや、記憶と呼ぶにはあまりに曖昧で、個人的すぎる思い出のかけら。
大学のサークル室の、自分の机。そこに飾っていた、宝物の超合金。友人とふざけていて、ロケットパンチを飛ばしてしまい、机の隙間に落ちて取れなくなった。結局、見つからずじまいで、ひどく落ち込んだ。そんな些細な、取るに足らない出来事。
なぜ、それを。会ったこともない高校二年生が知っている?
放送作家という職業柄、奇妙なメールを受け取ることは少なくない。だが、これは質が違う。ストーカーや狂信的なファンが、過去のブログや雑誌のインタビューを漁って得られる情報ではない。これは、あの場にいた「自分」しか知り得ないはずのディテールだ。
野口はここ数年、奇妙な感覚に苛まれていた。時折見る、知らないはずの風景の夢。初めてのはずの場所で感じる、強烈なデジャヴ。そして何より、鏡に映る自分の姿を見るたびに感じる、かすかな違和感。まるで、借り物の身体を生きているような……。
彼は無意識に、傍らに置いてあったブラックコーヒーのマグカップを手に取った。返信ボタンを押した指が、かすかに震えている。
『君は、一体何者なんだ?』
それは、画面の向こうの見知らぬ少女へ向けた問いであると同時に、彼自身が長年抱えてきた、自分自身への問いでもあった。
「……よし、決めた」
ファミレスの喧騒の中、紗菜は顔を上げた。有紀の言う通りだ。ここで尻込みしてどうする。扉は、もう開かれようとしているのだから。
「第二のクイズ、送ってみる」
「その意気!」
有紀がガッツポーズを作る。紗菜は深呼吸を一つして、返信画面を開いた。指先はまだ少し冷たいが、もう迷いはなかった。
件名:Re: 突然のご連絡失礼いたします。
本文:
野口大輔様
お返事いただき、ありがとうございます。
私が何者か、という問いにお答えする前に、もう一つだけ、記憶の扉を叩かせてください。
もし、私の記憶が正しければ、あなたは大学時代、サークル室の自分の席で、いつも同じマグカップを使っていたはずです。
そこに描かれていた、黒いキャラクターの名前を、覚えていらっしゃいますか?
これならどうだろう。超合金の話よりも、さらにパーソナルな記憶。あのマグカップは、彼がいつも使っていたもの。そして、そのキャラクターの名前は、サークルの仲間内だけの、ちょっとした合言葉のようなものだった。誰もが知る有名なキャラクターではない。知っているとしたら、あの時の、あの場所にいた人間だけだ。
紗菜は本文の最後に、再び『高校二年生 紗菜』とだけ署名した。
「……送信」
今度は、有紀の手を借りるまでもなく、自分の指でクリックした。送信完了の文字を見届けて、紗菜はスマホをテーブルに置く。心臓は、先ほどよりもずっと穏やかだった。やるべきことはやった。あとは、天命を待つだけだ。
「……返事、来るかな」
「絶対来るよ」
有紀が、確信に満ちた声で言った。
その言葉通り、返信は驚くほど速かった。二人がテスト勉強の続きに戻って、まだ数ページも進まないうちのことだ。
ブブッ。
テーブルの上で、再びスマホが震える。紗菜と有紀は、弾かれたように顔を見合わせた。
差出人は、やはり『野口大輔』。
紗菜は震える指でメールを開く。そこに記されていたのは、たった一言。
そして、その一言に続く、決定的な文章だった。
『カリメロだ』
間違いない。あのキャラクターの名前。
紗菜は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚。そして、その短い返答に続く文章に、紗菜の視線は釘付けになった。
『明日、会えないだろうか。どうしても、君に直接会って話がしたい』
会う。その二文字が、紗菜の頭の中で大きく反響する。ついに、この時が来たのだ。過去と現在が、交差する瞬間が。
隣で覗き込んでいた有紀が「……っしゃ!」と小さな声で勝利を噛み締めている。
紗菜は、ただゴクリと唾を飲み込み、画面を見つめ続けることしかできなかった。
明日。自分だったはずの男に、女子高生の自分が、会いに行く。それは、想像しただけで、めまいがするほど非現実的な出来事だった。