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第41話 奴良野家の団欒

 翌日、裏業が目覚めた時、そこは——まだ当たり前だが——奴良野邸だった。

 布団から起き上がり、昨日と同じ着物に着替えようと枕もとを探す。しかし着物らしきものは無い。何故? と首を傾げているとコツコツコツと外から何かをつつく音が聞こえた。

 肌着一枚の状態だったが、仕方がない。裏業は気を張り詰め戸をゆっくりと開けた。


「よっ」

「み、水埜辺殿⁉」

「なんだー? 幽霊でも見たみたいな顔して。失礼な。俺はこの通り生きてるぞ」

「あ……いや……。その感じは間違いなく水埜辺殿だな……」

「どうにもこうにもこの感じは俺だろうな! あはは!」


 どうやらもう何ともないようだ。と、裏業は内心ほっとした。


「…………あー、すまない裏業。本題、これを届けに来たんだが」


 水埜辺は少し申し訳なさそうに視線を外した。何だ、と思った時、裏業はハッとした。今の自分の恰好がだらしなさすぎることに。

 裏業は急に恥ずかしくなり、無意識の勢いに任せて水埜辺の頬を思い切り叩いた。


 ❀


「……良く眠れたか?」

「ああ」

「……んー、いい加減、機嫌を直しておくれよぉ、裏業~?」

「何の話だ」


 身支度を済ませた裏業は現在、奴良野邸の廊下を水埜辺と歩いていた。いつもと違うのは水埜辺の右頬が赤く腫れているくらいだろうか。

 裏業は先ほど裸に近い姿を彼に見られたのだ。機嫌を損ねていると思われていても無理はない。本人はすでに気にしていない様子なのだが、水埜辺にはそれがまだ不機嫌に見えているようだ。


「あ、そうだった。裏業、これありがとうな」


 水埜辺は裏業に昨日から借りていた朝凪を手渡した。


「朝凪……」

「少し刃こぼれしていたらしい。頼守が直したそうだから、あとで確認しておいてくれ」

「あ、ありがとう」


 この刀を母親より継いでから、裏業は数回も抜いていなかった。それは、『裏業』を行う際は専用の刀を使うことが多いためだ。

 錆が酷かったことは知っていたが、もしかしたら抜いていなくてもそれ以上に劣化していた可能性は十分にあった。

 裏業は朝凪に優しく触れ、撫でた。


「それほど、朝凪は知らない間に傷ついていたんだな……。使わないとはいえ、手入れを怠ったりしてすまなかった」


 その言葉を聞いた朝凪はどこか嬉しそうに『キン』と小さく鳴った。

「さて、今日の朝餉あさげはなんだろな~」と水埜辺が楽し気に歩いている。そんな子供のような彼の姿を後方から裏業は眺め続く。

 ふと、目の端にあの松の木が目に入った。


「……な……んで……?」


 その姿に裏業は思わず言葉を失う。昨日までの彼女の記憶では、庭の松は二本だったはずだ。けれど今日、松は何故か一本になっていた。

 この時、裏業の脳内にはある予感が過ぎっていたが、その考察はあり得ないと頭の中から削除した。


「……何してるんだ、お前」

「お。水伊佐」

「おはようございます、兄様、裏業さん」

「水紀里殿、水伊佐殿、おはようございます」


 廊下の向こうから水紀里が朝餉の入った盆を持ち部屋の中へ入る。水伊佐は柱に体重を掛け、じとりと二人を見つめた。


「今日の朝餉はなーにかなー」

「ふふ、兄様の好きな鯖ですわ」


 水埜辺はさっさと水伊佐の眼光など無視して水紀里と一緒に部屋の中へ消えていった。裏業はと言えば、彼が何か自分に言いたげな顔をしていると感じていたのでその言葉を待っている状態にあった。水伊佐は一息吐き、水埜辺に聞こえないくらいの声量で裏業に話した。


「もう兄上は戻ったんだ。確認はしただろう。帰れ」


 その言葉を聞いた時、裏業は何故今まで自分が自惚れていたのか、現実を突き付けられた。

 奴良野家に認めてもらえたと思い込んで、勝手に舞い上がって。結局、簡単ではないのだ。


 彼岸あのよ此岸このよことわりは――難しいのだ。


 裏業は理解が早かった。何を言うでもなく水伊佐に一礼し、室内の水埜辺を少しだけ見た後、その場を去ろうとした。


「え。あ、おい……」


 あまりにも裏業が言われた通りにするので、水伊佐は少しの悪い顔をした。


「? 何か」

「いや、何かって……、お前、兄上のことが好きなんだろ? だからこんな危険な場所まで来たんじゃないのか?」

「はっ⁉」

「だったら意地でも『残ります』って言えよ――って、いたっ!」


 水伊佐は何かで頭をはたかれ、その場に蹲ってしまった。突然のことに、裏業も目を見開いて蹲る水伊佐を見つめる。水伊佐を叩いたのは他でもない、水紀里だった。


「何をギャーギャー騒いでんのよ、煩いわね。朝餉が冷めてしまうから早く中に入ってくださる? ほら、あなたもよ!」

「……え?」

「……あなた、何故顔を赤らめているの。変な人間ね。この男に口吸いでもされたの?」

「口吸い⁉ そんなことするわけっ――つぅ~~~‼」

「黙りなさい。何を向きになってるの」

「だからって殴んな! 兄上に言いつけるぞ!」

「言いつけても兄様は私のことは叱りませんわ。ほら早く!」

「あの‼」


 二人の会話が段々と険しくなっているような気がして思わず裏業は間に入った。


「水紀里殿、私は水伊佐殿に口吸いなどされていません。水伊佐殿、先ほどの件につきましては最もだと思いました。ゆえにここを去るのです。何故止めるのですか? 私がいない方が都合がよいのではないですか?」

「……あー、くそ!」

「まあ。そんなことを口走ったのですかあなた! なんて無礼な……」

「どうしてこいつに優しくする。あんなに嫌ってたじゃねえか!」


 確かに、と裏業は思った。あれだけ敬愛する兄に付きまとう裏業を嫌っていたはずの水紀里が、今は裏業の肩を持っている。


「兄様の大切なお客様だからよ。それ以外に理由なんていらないわ」

「いくら兄上の客だからって、お前……。変わりすぎだろ」


 水紀里は瞬きを一回して裏業を見た。裏業は首を傾げている。水紀里は深呼吸をし、水伊佐を制するように言葉を発した。


「……時として、人間との関わり合いは妖怪の心をも変えるようです。ふふ、私としたことが。どうやら兄様に毒されたようですわね」


 ふふ、と再び笑う。水伊佐はあっけらかんとした表情で頭を抱えた。


「ああ。それはそうと水伊佐」

「あ?」

「早くしないと、朝餉用に焼いた鯖、全て兄様に食われてしまいますよ」

「何⁉ それは早く言え!」


 水伊佐は聞くと裏業のことなどどうでもよくなったのか、意識を室内の水埜辺に向け走り去って行く。そんな焦った水伊佐の顔を見て「……あなたも随分変わったと思いますけどね」と水紀里は小さく呟いた。

 そんな彼女を、横目で見ていた裏業は兄弟仲良いなと他人事のように思っていた。


 ❀


 少々気まずいことになり、裏業は内心ここに座っていていいのかと不安になる。

 左隣には水伊佐、右隣には水紀里、そして正面に水埜辺が座っている。

 家族団欒だんらんの席といってもいいこの状況下に、何故他人の私が座っているのだろう、と考えてしまう。


「裏業ちゃん? どうしたの? 何か考え事?」

「え、いや、その……」


 言えない。先程まで水埜辺のことで言い争いが勃発していたことなど。

 言えない。水埜辺のことで心がざわついていることなど。

 裏業の顔はみるみるうちに赤くなる。水埜辺はそれを心配そうに覗き込んだ。


「何でもない。気にしないでくれ……。……いや……碓氷殿はどうした。兄弟でだけ朝を共にするのか?」


 辺りを見回すが母である碓氷がどこにも見当たらないことが裏業にとって変だと感じた。


「……んー。朝はいつもいないんだ。ほら、ああいう人だから」

「……ああ」


 はぐらかされたな、と裏業は思った。だから無理に反抗せず肯定した。不審気に水埜辺の視線が裏業を指していたが、裏業はそれを無視し白米を口にした。

 もうひとつ気になることがあった。それは水埜辺の顔色のことだ。先ほどまで元気にしている様子だったが、今は額に脂汗のようなものを掻いていた。表情は笑っているのに無理をしているように見えた。


「……何だか、老けたな?」

「急にっ? はは。まあ、裏業よりは数百年以上生きているからねぇ。気分はじじぃさ」

「は?」

「ふぅ、ご馳走様でした」


 半分ほど残して水埜辺は食べることを止めた。水紀里は「お粗末様でした」と嫌な顔をせず片付け始める。これが普段の食事の風景なのだと、次いで食べ終わった裏業は思った。

 ――なんて、温かいのだろう。人間である自分よりも家族らしく食事を摂る彼らを見て、裏業は少し複雑な気持ちになった。彼らは人間よりも人間らしい。


「裏業、水紀里のご飯は美味しかっただろう?」

「美味しかった。ありがとうと伝えてくれ。……私は帰るよ」

「えー? 本人に直接言いなよ~。恥ずかしいのかい?」

「違う。水紀里殿は……というか、ここの人たちは、あまり人間がこの世界にいることが好きじゃないようだから、早く帰るだけだ。それに、先ほど忙しそうにしていたから邪魔はしたくない」

「……そうか? 一人でここから帰れるか? 送っていくぞ?」

「……! それには及ばないようだ」


 裏業は目線を水埜辺から日の差す庭の方へ逸らした。彼女の目線の先には、一匹の水色の蝶々が花の蜜を吸っていた。


「碓氷殿が道標をくださったようだな」


 あの碓氷が人間に手を貸すだなんて、と水埜辺は本気で驚いていた。


「……えぇ、あり得ない……。こりゃあ年中暑い彼岸でも雪が降るかもな」


 蝶々はひらりと体を浮かして裏業の指先に止まった。はたはたと羽を動かしているが飛ぶ様子はない。その姿を可愛らしく思い、裏業は思わず微笑んだ。


「ふふ、そうかもな。……世話になった、水埜辺殿」


 裏業はそっと笑う。碓氷の使い蝶が裏業の指を離れて彼女の周りに鱗粉を巻き始めると、みるみる彼女の姿が消えていった。


 ❀


「……ああ、楽しかったなぁ。頼守……」


 もう少しすれば日が昇りきる。その温かさに瞼が自然と落ちていく。

 ああ、このまま深く深く眠ってしまえたならどれだけ幸せなことだろう。


 ――だが、まだ眠るには早いな。


 水埜辺は庭の松を眺め、きゅっと口をつぐんだ。

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