琉斗は初対面のその日から毎日、ノウの歌を聴きに来た。
そして三日目にはノートを手にしていた。
「ノウの曲を書き留めてもいいかな?」
書き留める、という意味がわからなかったけれど、ノウは頷いた。
琉斗はノウが歌っている間、鬼気迫る表情でずっと鉛筆を走らせていた。
ノウが歌い終わっても琉斗の手は止まらなかった。
淀みなく動く鉛筆の先が丸くなってゆくのが面白くて、ノウはそれをじっと見下ろしていた。
「できた」
琉斗がようやく顔を上げた。
「見て、ノウ」
誇らしげに広げられたノート。そこにはオタマジャクシのような黒い記号が踊っていた。
これはなに? と問うと、「音符だよ」と琉斗が答えた。
音符ってなんだろう。首を傾げたノウへと、琉斗が弾むように告げてくる。
「さっきのノウの曲を書いたんだ」
ノウの曲、と言われてもよくわからない。
「見てて」
琉斗が音符のひとつを指さして、「ら」と声を出した。
「ら、ら、ら~ら、らら」
琉斗の指が五本の線の上を滑る。音符に行き当たるたびに彼の口からは、さっきのノウの歌と同じメロディがこぼれた。
ノウは目を思い切り見開いた。
すごい。
すごい。
「なんで歌えるの?」
僕の歌なのに、どうして琉斗が歌えるんだろう?
一度聴いただけなのに、まるきりさっきのノウの歌そのものだった。
不思議に思って訊ねると、琉斗がくしゃりと笑った。
「こうやって楽譜にすれば、誰でも歌えるんだよ。ねぇ、ノウ。きみの歌に伴奏をつけたい。今度、ギターを持ってきてもいい?」
ギター、というものがよくわからなかったけれどノウは頷いた。琉斗がすごく楽しそうだったから、きっとノウにとってもそうなんだろうと思えた。
翌日、琉斗は黒い大きなケースを背負ってきた。
興味津々で見つめるノウの前で、琉斗がケースを開いた。
中には、きれいな飴色の木でできた楽器が入っていた。クラシックギターというのだと、琉斗が教えてくれた。
琉斗はギターを抱えると、地面に座り込み、なにやら少しあちこちを触りだした。
ノウはその間に琉斗のノートをパラパラと見た。
昨日よりも音符がたくさん増えていて驚いた。
「ノウ、聴いてて」
琉斗がそう言って、息を吸い込んだ。
ポロン、と音が鳴った。
琉斗がギターを爪弾く。ポロン、ポロン、と曲が奏でられる。ノウの歌だ。
ノウは琉斗の隣に腰を下ろした。地面は冷たい。でも靴を脱いで、靴下も脱いで、裸足の足を土の上に置いて、ノウは唇を開いた。
琉斗の出す音に合わせて、歌が下りてくる。
ノウは歌った。
琉斗のギターと、ノウの声が混じり合う。
気持ちいい。
音が橋裏に反響する。幾重にも重なって、響いている。
ポロン……。
最後の一音が鳴ったとき、ノウの目から涙がこぼれた。なんの涙なのか、自分でもよくわからない。
琉斗がぎょっとしたようにギターを傍らに置き、ノウの肩を掴んだ。
「ごめんっ! ノウ、嫌だった?」
焦ったように尋ねられ、ノウは首を横に振った。
「ううん。リュートの音は、気持ちよかった」
気持ちいいのに泣いてしまうなんて、自分はどこかおかしいのだろうか。
でも中々涙を止めることができずに目をごしごししていると、琉斗がノウを抱きしめてきた。
琉斗の温もりと、琉斗の匂い。
それがノウの肌に沁みて、なぜだか胸がぎゅっとなった。
「ノウ、あのさ」
「うん」
「僕と一緒に、音楽をやらないか?」
「うん」
「……え?」
琉斗が抱擁をほどいて、目を丸くした。
「え? いま、うんって言った?」
「うん」
こくりとノウが頷くと、琉斗が鼻の頭が触れそうなほどに顔を近づけてくる。
「僕、本気で誘ってるんだけど」
「うん」
「本当に僕と一緒に活動してくれる?」
「歌えばいいんでしょ?」
ノウは笑った。まだ涙の名残で目の奥が熱かったけれど、それは不快な熱さではなかった。
「リュートがギターで、僕が歌えばいいんでしょ? 歌うよ、僕。歌いたい。リュートのギターで歌いたい」
「ノウっ!」
琉斗がまたノウを抱きしめてきた。
しがみつくような強さで抱きしめられて、息苦しいほどだ。
「ノウ、仕事を辞めてくれる? それで僕の家で一緒に暮らそう。ずっと音楽のことを考えていられるよ。僕がぜんぶノウのいいようにしてあげるから。ノウ、一緒に暮らそう」
耳元で琉斗の熱い声が囁く。
ノウは頷いた。
後先は考えない。
いま、自分がそうしたいと思ったから、頷いた。
躊躇はなかった。
出会ったばかりの琉斗。それでも彼は、ノウにとってはいま一番身近な人間で、そして、一番あたたかなひとだったから。
琉斗の抱擁が深くなった。
抱きしめる腕の力が心地よい。ノウは、琉斗に溺れてしまいそうだと思った。