ノウの日常に異分子が紛れ込んだのは、冬のある日のことだった。
いつものように仕事帰りに河川敷の土手を下り、裸足になって橋梁の下で歌っていると、音の切れ目で突然雨音のような拍手が割り込んできた。
驚いて振り向くと、背の高い青年がビジネスバッグを小脇に挟んで、両手を打ち鳴らしていた。
「すごい! すごいよきみ! 感動した!」
彼は弾むようにそう言うと、ノウの傍へと走り寄ってきて、ぎゅっと両方の手を握ってきた。
「きみの歌はすごい! 見てよこの鳥肌……って、見えないか」
コートをしっかりと着込んだ自身の腕を見て、青年が明るく笑う。あんまりにも楽しそうな笑顔だったから、見ているノウまでつられてうふっと笑ってしまった。
青年の茶色の目が丸くなる。その目でじっと見つめられて、思わず見つめ返した。ノウの目よりも色が薄い。冬のススキのようだ。
数秒、無言で視線が絡み合う。
青年が相好を崩した。
「きみ、名前は?」
問われて、「ノウ」と答えた。誰かに名前を聞かれることも、人生の中で本当に数えるほどだったし、『ノウ』以外にパッと思いつく名前がなかったからそう答えた。
青年は小首を傾げて、口の中で「ノウ」と呟いた。
「ノウ、僕は
琉斗、と名乗った彼がバッグから皮の名刺入れを取り出し、中から一枚を摘まみだして恭しくノウへと差し出してきた。
ノウはポカンとしてしまう。
自分に向けられている小さな紙がなんのかわからないし、書かれている漢字も難しくて読めない。
琉斗が軽く背を丸め、ノウを覗き込んで眉をくしゃりと下げて笑った。
「受け取って?」
促されて、恐る恐る親指と人差し指でそれを挟んだ。
目の前の琉斗の指と比べると、ノウの手は、爪はガタガタだしあちこちに赤切れもあるしできたなかった。なぜだか急にそれが恥ずかしくなって、ノウは名刺を持った手を素早く腰の後ろに隠した。
「ノウ、もっと歌いたくない?」
突然、琉斗がそんなことを言った。
一瞬の躊躇もなくノウは頷いた。もっとと言わずにずっと歌ってたい。
「僕ももっと聴きたい。ノウ、歌ってくれる?」
琉斗に促され、ノウは息を吸い込んだ。
唇から、音と一緒に白く凍った息が飛び出す。
ノウの声は伸びやかに橋裏に反響して、川の水に押し流されるようにして空気へと溶けていった。
一曲が終わるたびに、琉斗からの拍手が鳴り響いた。
ノウが琉斗と別れて家に帰ってからも、パチパチと乾いた拍手の音がずっと、耳の奥にやわらかく残り続けていた。