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1-2


 ノウ、と彼は施設で他の子どもたちからそう呼ばれていた。


 最初の頃は、彼らがノウをノウと呼ぶたびに、大人たちが「やめなさい」と叱っていた。けれど子どもたちが、

「だって、ノウはノウだもんな? な?」

 と肩を組んで同意を求めてきたときにノウがこくりと頷いたら、嫌なことは嫌と言いなさい、となぜか大人の怒りの矛先はノウに向けられた。

 ノウは嫌ではなかったからそう答えると、少年が勝ち誇ったように「ほらな」と言った。


「ノウはノウだよ」


 誰がどう広めたものか、その日から全員がノウと呼ぶようになった。

 だから本当の名前はもう、忘れてしまった。



 ノウはいつも歌っている。

 暇なときも、そうでないときも。

 無意識にフンフンと声が漏れている。

 時折「うるさい」と殴られるので、頑張って唇を引き結ぶのだが、そうすると今度は鼻から音がでる。

 一度音を鳴らしてしまったら、我慢ができずに結局唇からも歌が飛び出してしまう。

 だから施設ではいつも、厄介者として扱われていた。


 十八になって工場で働きだしてからも、隣で作業しているスタッフたちから「おまえの声をずっと聞いてたら気が狂う」と苦情が出て、クビになった。

 清掃スタッフとして雇われると、「いつも鼻歌を歌ってサボってる」と上司に告げ口をされて解雇された。


「その癖をなおさないとどこも雇ってくれないよ」


 就労支援施設の相談員は苦い顔でそう注意を促してきた。

 でもそう言われても歌はときと場所を選ばずに降ってくるのだから、ノウ自身にもなおしようがないのだった。


 反省の色を見せないノウに周りは呆れつつも、どうにか伝手つてを辿って、機械の製造工場の簡単な雑用の仕事を見つけてくれた。

 その工場内はつねに作業音が響き渡っており、ノウの鼻歌程度誰も気に留めない環境だったからだ。



 ノウの一日は至極単調である。


 朝七時に起きて、ロールパンを二つ食べる。パンにはなにもつけない。本当はジャムをつけたい。赤くて甘い苺のジャムを。でもノウにとってジャムは高級品だった。高いからいつも躊躇する。躊躇して、結果、買わない。それを繰り返すから、冷蔵庫にジャムの瓶が鎮座することは、十八歳でこの部屋に引っ越して以降、この二年間で一度もなかった。施設に居た頃は、個包装のジャムがパンとともに食卓に並んでいたのに。


 それを思えば食生活は、施設の方が充実していたかもしれない。

 しかしよくよく思い返すと、ノウの分のジャムは他の子どもに取られてしまうことが多かったので、いまと大差はないのか。どちらにせよノウの口にジャムが入ることはないのだ。


 ともかく、ノウの朝食はご飯ではなくパンだった。


 食事を終えると歯磨きをして顔を洗う。髪は昔からくせっ毛で、ほわほわと跳ねる。自由な毛先を見てると楽しくなってきて、歌が唇の隙間から零れる。


 似たような色の服が収められているタンスから今日着る服を引っ張り出して、寝間着にしてるジャージを脱ぎ捨て、それを着る。


 整容を終えたら、畳に敷いていた布団をたたんで、隅に寄せる。空いたスペースを雑巾で空拭きをしながらまた歌を口ずさむ。


 簡単な掃除をして、八時には家を出る。

 片道に三十分をかけて工場まで歩く。ルートはいつも一緒だ。川沿いを、流れに従って下る。下る。


 始業は九時。それまでに作業着に着替えて、今日する仕事を聞き取りながらひとつずつメモしていく。ノウがペンを走らせている間に「この愚図」「さっさとしろ」と小突かれ、蹴飛ばされることもあるけど、べつに珍しいことじゃない。


 仕事中は色んな音が鳴り響いている。その隙間を縫うように歌が降りてくるので、ゴミ拾いをしながら、歌う。鉄屑を片付けながら、歌う。お茶を用意しながら、歌う。

 どんな場所にも歌が溢れている。それが心地よくて、ノウは歌いながら手を動かす。


 十二時になったら昼休憩だ。

 鉄工所の裏には小さな食堂があって、ノウは毎日そこで昼食を貰う。メニューはいつも同じ、小さなおにぎりが二つと味噌汁がセットになった、200円のおにぎり定食。おにぎりの具は日替わり。ここではこれが一番安い。

 金欠のノウのために食堂を切り盛りするおばあちゃんが、こっそりとおかずを足してくれることもある。


 一時間の休憩を終えたら夕方の五時まで残りの仕事を歌いながら片付ける。


 終業後は事務所に寄って、日当を受け取る。他の皆はひと月分まとめてもらうらしい。でもノウだけは日当だ。

 いつでもクビにできるからおまえは日雇いなんだよ、と言われたことがある。なるほど、と納得した。いつでもクビにできるのに、こうして働いた分のお金をくれるのだから、ここの工場長は親切だ。


 日当の入った封筒をカバンに仕舞い、帰途につく。

 行きとは逆に、今度は川の流れに逆らって歩く。

 春は菜の花、夏は青葉、秋はススキ、冬は枯れ葉の上の白い霜。河川敷の季節の移り変わりを感じながら朝と夕に通るこの道が、ノウはとても好きだった。


 川を眺めながら足を進め、橋が見える頃に土手を下る。

 河川敷の草むらを進むと、高架橋の下に入ることができた。仕事の帰り道、ノウは必ずここに立ち寄る。


 川の流れる音、車の通過音、虫の声、鳥の囀り、自転車のペダルの音、色々な音が交じり合って、橋の裏側に反響する。それらを聞きながらノウは靴を脱ぎ、裸足になる。

 ツンツンとした草を踏んで、足裏で地面の感触を確かめる。

 そうしてから、少し顎を上げて。


 ノウは歌う。


 思いつくままに強弱をつけて、ひらめいたメロディを拾い集めて音にする。


 この場所は音がよく響く。だからノウは毎日歌いに来る。


 土手の上から、奇妙なものを見る視線を送られることはあるけれど、誰にも怒られないから好きなだけ歌うことができた。


 気が済むまで歌ってから、残りの家路を辿る。

 途中で買い物に寄ることもある。


 家に戻ると晩ご飯の支度をして、シャワーを浴びてから夕食を摂る。食べている間も鼻歌はこぼれる。でもノウは一人暮らしなので施設のように注意を受けることもない。


 ご飯が終われば片づけをして、あとは寝るだけだ。


 テレビもないしゲームもない。携帯電話はある。これがないと連絡が取れないからと就労支援施設の相談員に言われて、一番安いものを買った。でも、着信音を聞くことはほとんどなかった。登録されている番号は、勤め先の工場と就労支援施設の二つだけ。


 友人は居ない。

 ノウはひとりぼっちだ。

 けれど寂しくはない。ノウには歌があるから。


 ご飯が食べれて、仕事があって、歌うことができる。

 単調で変わり映えもなく、面白味もないと、ひとは言うかもしれない。


 それでもノウの毎日はしあわせで、満たされていた。









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