琉斗の家で歌を好きなだけ歌う日々が訪れた。
琉斗は仕事へ行くと言って家を空けることが多い。けれど帰ってくるとギターを持って、聡也の隣に座り、聡也の声に合わせて弦を奏でる。
琉斗の音はとても気持ちいい。
好きだな、と聡也は思った。
琉斗のギターが好きだな。琉斗の指の動きが好きだな。穏やかな琉斗の声が好きだな。
琉斗のことが、好きだな。
歌いながら琉斗を見ると、彼も手元から視線を上げてこちらへ目を向ける。目が合う。やわらかな笑みに目が細くなる。
琉斗の微笑は聡也の胸をあたたかくする。
しあわせだ。
しあわせだった。
二人きりの空間は、しあわせで満たされていた。
一日の中で本当の意味で琉斗と二人の時間、というのは夜だけだ。
昼間は琉斗は仕事へ出かけるし、家政婦の浅間さんと重田さんが日替わりで、冷蔵庫に料理を詰め込んだり部屋の片づけをしにきたりする。
施設育ちではあるけれど、他人に世話を焼かれることに慣れていない聡也は家政婦さんにどう対応していいかわからずまごついていたが、浅間さんも重田さんも聡也が居ることを特に気に留めずに自分の仕事を淡々とこなしていた。
彼女たちの準備する料理が一人分から二人分に増えたことに関して、聡也は一度ごめんなさいと謝罪をしたことがある。
僕の分までごめんなさい、と。
すると浅間さんはメガネを冷たく光らせて、重田さんは細い眉をクイと上げて、異口同音にこう答えた。
「慣れていますのでお気遣いなく」
慣れている、というのは家政婦の仕事に、という意味だろうか。聡也はよくわからずに、へどもどと頭を下げて、彼女たちが来る時間は作業部屋へこもるようにした。
昼間にひとりで過ごす聡也を気にかけてくれたのだろうか、ある日琉斗が、
「聡也も一緒に行く?」
と仕事場に誘ってくれた。
自分がくっついて行っていいものかわからずに返事ができない聡也へと、琉斗がやさしく笑いかけてくる。
「今日は歌がいっぱい聴けるから楽しいと思うよ」
その言葉に興味を引かれて、聡也は彼についていくことを決めた。
琉斗は徒歩で行ける距離にある、『ライブハウス』という場所へ聡也を案内した。
「いまからリハーサルなんだ」
琉斗はそう言って、聡也の手を引いてステージに上がった。
ステージ上には琉斗の作業部屋にもあった楽器がいくつか並んでいた。
こんな場所に上がっていいのかと聡也は心配になったが、周りで忙しそうに動き回るひとたちは誰も注意をしてこなかったのでホッとした。
「聡也、見て」
琉斗がステージの端に立ち、眼下に広がるフロアを指さす。
「ここが客席。夜になったらひとがたくさん来るよ。想像してみて。お客さんがぎっしり入ってるところを。みんなが聡也の歌を聴きにくるところを」
聡也は目をまん丸にした。
琉斗はなにを言ってるのだろう。
聡也の驚きを受けて、琉斗が軽く笑った。
「いつかきみもここで歌うんだ。きっとみんな、きみの歌を好きになる」
「……僕……」
「きみならすぐに、ここを満員にできると思うな」
キャパが足りないぐらいだ、と屈託なく琉斗が話す。
その顔は夢物語を語る子どものようで、とても楽しそうだった。
だから聡也は、僕はあの河原がいいよ、という言葉を飲み込んだ。
こんな四角い場所よりも、河原の、高架橋の下。あそこの方が何倍も魅力的に思えたけれど、それを口にしてしまったら聡也の顔から笑顔が消えてしまうだろう。
ほどなくして、『リハーサル』が始まった。
聡也は客席の一番後ろで、ステージから奏でられる音楽を琉斗と二人で聴いた。
しばらくもぞもぞと身じろぎをしながら琉斗と並んで立っていたけれど、途中で我慢ができなくなって外へ飛び出した。
なんだか息苦しい。
冬の冷えた空気を肺に吸い込むと、少し気分が落ち着いた。
「聡也」
呼ばれて振り返る。追いかけてきた琉斗が軽く眉を寄せて、聡也を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「……うん。音がいっぱいで、驚いちゃった」
「そっか」
ひとつ、頷いて。
でもね、と琉斗が口を開いた。
「あそこに立てるようになれば、聡也は歌を仕事にできるんだよ。好きなだけ歌って暮らしていけるんだよ」
好きなだけ歌える。
その言葉にこころが刺激された。
けれど、先日、河川敷で琉斗に誘われたときほどは、胸はときめかなかった。
好きなだけ歌うためには、あんな、無機質な場所に立たなければならないのか、と聡也は少しかなしくなった。
「かわらに行くね」
と、聡也は言った。いつもの河原に。
唐突な宣言に琉斗は瞬きをして、それから破顔した。
「僕も行くよ。ギターを持って行こうか」
「うん! リュートのギター、好き」
「僕も、聡也の歌が好きだよ」
一度琉斗の家に戻り、ギターを持って二人で河川敷へ行った。
土手を下って橋梁の下で聡也は裸足になり、冷たい土を踏みしめて立った。
ポロン、と琉斗のギターが鳴る。
川のせせらぎ、橋を通る車の音、河川敷で遊ぶ子どもの声。それにギターの音色が重なる。
聡也は唇を開いた。
白い息とともに歌が飛び出す。
楽しかった。
琉斗と二人で歌うのはとても楽しい。
琉斗さえ居れば、『ライブハウス』なんかで歌わなくて聡也は満たされる。
そう思いながら、歌った。