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3-2

「バズったよ」


 意味不明な言葉とともに琉斗が作業部屋に飛び込んできたのは、聡也がこの家に来て二か月が経過した、三月のことだった。


 琉斗がスマホの画面をこちらへ向けて指先でタップする。

 そこから流れてきたのは、琉斗のギターと絡み合う、聡也の歌声だった。    


 川で泳ぐ鳥、ススキが風に穂を揺らす様、赤い夕陽、そういった景色を背景に、歌が流れる。時折ギターをかき鳴らす琉斗の手が映り込む。


 いつの間にこんなものを録ったのか、と聡也は驚いて琉斗を見つめた。

 琉斗は得意げに笑って、

「見て、どんどん拡散されてる」

 と表示される数字が増えてゆくのを喜んだ。


 琉斗の嬉しそうな顔を見て、聡也も嬉しくなった。彼が笑っているとそれだけで胸がポカポカになる。


「これ、リュートにとっていいこと?」


 聡也がそう尋ねると、琉斗の目が一度丸くなって、それからやわらかく細められた。


「聡也にとって、いいことなんだよ」



 『レコーディング』に誘われたのは、その翌日のことだった。


 歌を録ろう、と琉斗が言った。

 彼に連れられて向かったのは、先日訪れたライブハウスからほど近い場所にある、スタジオというところだった。 

 聡也はそこで見知らぬ大人たちに囲まれた。


「お、きみが噂のリュウギョクくんか」


 名刺を差し出しながら、比内ひうちと名乗る髭の男が聡也の顔を覗き込んできた。


「……僕、リュウギョクじゃありません」


 聡也はビクビクしながらも首を横に振った。


 琉斗が前に、ノウと呼ばれていた自分を、切り捨ててくれたから。

 聡也は、聡也と名乗っていいのだと勇気をもらえていた。だからべつの名をつけられるのは嫌だった。

 聡也は『聡也』で、『リュウギョク』なんて名前じゃない。


 比内が「ハハ」と笑った。

 馴れ馴れしく肩を抱かれ、男の方へと引き寄せられた。

 比内のひとさし指が動いて、琉斗の背中を示した。

 琉斗は機械がたくさん並んでいるこちら側(コントロールルームというらしい)ではなくて、防音のガラスで仕切られた向こう側でなにやらべつの人間と話しているところだった。


「リュウの掌中しょうちゅうの珠のことを、通称龍玉って呼んでるんだよ、俺らは。この界隈じゃ有名だぜ。リュウにプロデュースされた奴はとんとん拍子にスターになるってな。どういう経緯で見つけてもらったか知らないが、ラッキーだったな、アンタ」


 肩から比内の重みが消えた。

 解放されて、聡也は慌てて男から離れた。

 彼の言葉の意味がまったくわからなかったのは、聡也の頭が足りないからだろうか。

 少し怖くなって、聡也は部屋の隅で壁に寄りかかって身を縮めた。


「聡也! おいで」


 ドアから顔を覗かせた琉斗が、聡也を手招いてくる。

 声をかけてもらえたことにホッとして、琉斗の元へと駆け寄り、その部屋へと入った。

 ガラスと壁に仕切られた空間の中央には、マイクが立てられていた。


「ブース内はね、きみの声以外の余計な音が一切入らないようになってるんだ。ここできみの歌をきれいに録ってもらおうね」


 満面の笑みで琉斗がそう告げてくる。


「ここで歌うの?」

「そうだよ。こないだバスった曲。あれを歌うんだ。もっときれいに録音できたら、もっとたくさんのひとに聴いてもらえるだろう?」


 なんでもないことのように頷かれ、聡也は困惑した。

 たくさんのひとに聴いてほしい、と願ったことなど、一度としてなかった。

 聡也は、ただ歌いたいから歌う。

 それだけなのに。


 けれど琉斗があんまり嬉しそうなので、聡也は喉元にこみあげてきた言葉を飲み込んだ。


 マイクの前に立たされて、歌っていいよと促された。

 ここに居るみんなに聡也の歌を聴かせてあげよう。

 屈託なく促され、みぞおちがなんだかシクリと重くなった。

 周りを見渡すと、ガラスの向こうで全員が腕を組んでこちらを注視しているのが見えた。


「聡也の好きな歌、なんでもいいよ」


 隣で琉斗がやさしく囁いてくる。

 聡也は靴を脱いだ。河原で歌うときと同じように、靴下も脱いで裸足になった。その足で人工的な硬い床を踏みしめた。


 空気を吸った。

 けれどいくら吸っても歌が降りてこない。

 聡也は泣きたくなって琉斗の方を向いた。


「緊張してるの? 大丈夫だよ、聡也。僕もギターを持ってくるね」


 やわらかな微笑とともに、琉斗が聡也の頭をポンポンと撫でた。

 彼は琉斗の隣に背の高いイスを持って来てそこへ腰を下ろすと、ギターを太ももに載せてポロンと音を出した。


 琉斗の指が奏でる音色は、やわらかに響く。

 音が大気に溶ける。溶ける。溶ける。

 その様を想像しながら、聡也は唇を開いた。

 河原にいるときのように歌は聡也の中に降りてきてくれない。

 それでも琉斗が喜ぶから。

 聡也が歌うと喜ぶから、無理やりに歌を呼んで、歌った。

 琉斗だけを見つめながら、歌った。 





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