コハクに促されるままに、聡也はシェアハウス前で待機していたタクシーに乗り込んだ。膝の上には、楽器の入った黒いケースが置かれている。慌ただしく家を飛び出そうとした聡也に、ヒイラギが渡してくれたものだ。
「リュウんとこ行くなら、要るっしょ」
なんでもお見通しという顔で、ヒイラギが笑った。聡也は戸惑いながらもそれを受け取った。
外は雨だった。
フロントガラスに降り注ぐこまかな雨粒を、ワイパーが規則正しく拭ってゆく。ときおり、ゴムがキュッと音を立てる。対向車のタイヤが、水しぶきを上げて通り過ぎてゆく。ウインカーがカチカチカチと鳴った。横断歩道の信号もピヨピヨと鳴いている。
家に閉じこもって感情を煮詰めていた聡也にとって、久しぶりの外だった。季節はいつの間にか秋になっており、空気も少しだけ冷たかった。
音がいっぱいだ、と車に揺られながら思う。
雑多な音は心地よく、昔の聡也であればきっと歌っていた。タクシーの中でも、外を歩いていても、歌が降りてくれば迷わず歌っていた。
歌はずっと聡也とともにあった。『魂の音』の欠片たちだ。
でも聡也に精霊の姿は見えない。草壁聡也は草壁聡也にしかなれない。『魂の音』には戻れない。
聡也が聡也のままで、倒れたという琉斗の元へ行ってできることが、あるのだろうか。にわかに不安がせりあがってきた。
それでも、と聡也はケースを胸に抱きこんだ。
『魂の音』として繰り返し生きて、繰り返し死んだ、あの記憶は……「彼をたすけて」と言っていた『魂の音』の声は、幻なんかじゃない。
聡也は琉斗をたすけなくてはならない。その結果、琉斗とさよならをすることになったとしても。
「んなガチガチになんなよ」
隣から伸びてきた華奢な腕が、聡也の肩を抱いた。帽子を目深にかぶったコハクだ。半分以上顔を隠しているのに、きれいだとわかるのがすごい。
「リュートは、病院?」
「いや。家に居る」
「倒れたの、大丈夫?」
「自分で確かめろよ」
琉斗の容態を知りたいのに、コハクはずっとこんな調子で、具体的なことはなにも教えてくれなかった。
やがて見慣れた景色が窓の向こうに現われ始めた。
聡也が溺れた川と、河川敷、高架橋……曇り空だった上空は、白く明るくなりつつあった。もうすぐ雨があがるのかもしれない。
川沿いを進んで、大通りを曲がる。あとすこしで琉斗の家だ。
胸がドキドキと騒ぎだした。琉斗は大丈夫なのだろうか。熱はあるのか。コハクにお願いしたら、病院へ連れて行ってくれるだろうか。家に入って、聡也はまずなにをすればいいのか……。
迷っているうちに車が止まった。後部座席のドアが自動で開いた。考えるよりも先に体が動いた。聡也は車を飛び出して、玄関へと走った。
ドアレバーを引く。鍵はかかっていなかった。ドアは大した抵抗もなく開いた。
「リュートっ!」
聡也は勢いよく屋内へと足を踏み入れた。シェアハウスは土足のままで出入りする仕様になっていたから、玄関で靴を脱ぐのを忘れてしまった。そんなことに気を回す余裕もなかった。
倒れた琉斗はどこに居るのだろう。自分の部屋だろうか。とりあえず聡也はバタバタと廊下を走り、一階のリビングのドアを開けた。
「えっ? なに? ……聡也? なんで?」
琉斗がソファから立ち上がりかけの中途半端な姿勢で、ポカンとこちらを見ていた。コーヒーのいい香りがしている。
「……リュート……あれ? 寝てなくていいの?」
聡也はパチパチとまばたきをした。倒れたと聞いていたのに、いま目の前に居る琉斗は……痩せてはいたけれど、具合が悪そうには見えない。
「まだ夕方だから、横にはならないよ。……っていうか、なんで聡也が?」
「え? だって、えぇ? リュートが、倒れたって……」
聡也は混乱して、無意味に楽器ケースを抱きしめたまま視線をうろうろ彷徨わた。
琉斗が腰を伸ばして、姿勢を正した。それからすこし強い目でこちらを見た。
「きみの仕業か、コハク」
「オレの仕業じゃなく、オレのおかげの間違いだろ」
コハクの声が後ろから聞こえた。リビングのドアをくぐったコハクが、帽子を脱いで軽く頭を振った。金の髪がさらさらと揺れる。
「おかしな嘘で聡也を騙すなんて」
琉斗が眉を吊り上げた。その険しい表情に、聡也はごくりと唾を飲み込んだ。前に琉斗に叩かれたときのことが、勝手に脳内に呼び起された。
聡也の怯えが伝わったのか、琉斗がハッと肩を引いた。
「……ごめん、大きな声を出して」
覇気のない声で謝って、琉斗が頭を下げてくる。
聡也はううんと首を横に振った。怒っている琉斗は怖い。怖いけれど、そんなことで琉斗を嫌いになるはずがない。
聡也の頭に、ポンとなにかが乗った。振り返ると、コハクがポンポンと手を弾ませて、きれいな顔に苦笑をよぎらせた。
「悪かったよ、騙して」
「だました?」
「リュウが倒れたってのは、嘘。ずっと倒れそうに青白い顔してたけどな。おまえはおまえで頑張ってたし、リュウもリュウで踏ん張ってたけど……待ってやろうと思ってたけど、時間切れだ」
時間切れ……。聡也は思わず壁の時計に目を向けた。そういう意味じゃねぇよとコハクが笑った。
「オレのオフが終わんの。悠長におまえらに付き合ってる暇がなくなんの。わかるか?」
コハクは聡也がシェアハウスに来てから、よく顔を出してくれていた。いまはオフだからと言って聡也に歌のアドバイスをくれたり、ギターの弾き語りを聞かせてくれたりもした。
コハクの口からはたまに琉斗の近況も語られたから、琉斗のところにも顔を出しているのがわかった。
コハクは本来、たぶん、忙しいひとなのだと思う。とても人気のあるロックバンドのボーカルで、聡也と気安く会話をしてくれるけど、琉斗が居なければきっと、雲の上のような存在なのだ。
彼の貴重な時間を、聡也はそうと気づかぬままに貰っていたのだ。
「コハク……ありがとう」
「バカおまえ、改まんなって。リュウが倒れたって嘘ついたのは悪かったけど、おまえもリュウもキッカケがないとまだずるずるお互い我慢してんだろ。いい加減、もういいにしろよ。胎割って話し合え。な?」
な? という言い方が、コハクにしてはやわらかな音の響きだった。
その声に背中を押されるようにして、聡也は琉斗へと視線を向けた。
琉斗はなにかを我慢するような表情で、両手をグーの形に握りしめていた。
琉斗の方からは、近寄って来れないのだ。なぜだか聡也はそのことがわかった。
聡也が病室で、琉斗と口を利かなかったから。
あれからずっと、琉斗と会うことなく、シェアハウスに引きこもっていたから。
だから琉斗は、な? と促されても、聡也へと手を伸ばすことができないのだ、と。
聡也はそれを理解して、自分の方から、琉斗へと歩み寄った。
琉斗のススキ色の瞳が、怯えるように、警戒するように、こちらを見ている。聡也を傷つけることを恐れて、ただ立ち尽くす彼が、かわいそうで、いとしくて、胸が熱くなった。
「リュート」
聡也は両手を伸ばして、硬く握られた琉斗のこぶしを、左右の手でそれぞれ握った。楽器ケースを脇の下に挟んだ格好でそうしたから、力が上手く入らなかった。でも、振りほどかれることはなかった。
琉斗が泣きそうに顔を歪めた。そうや、と音もなく名前を口にされる。
聡也の名前を、たぶん、一番たくさん呼んでくれたひと。
聡也はぐつぐつと煮詰めていた言葉を琉斗に伝えるのは、いまなのだと思った。
「リュート、僕ね、リュートに伝えたいことがあるの」
聞いてくれる? と尋ねたら、琉斗がゆっくりと頷いてくれた。