ラズベルの機嫌を表すように、秋空はどんよりとした雲に覆われていた。
廊下の掃き掃除を終え、いつもの談話室に顔を出したリリスは、暗いオーラを漂わせる彼にビクリと肩を震わせる。
先週、島民たちの様子を見て、ラズベルが島内を訪れても大丈夫だろうという判断をしたリリスは、ついにその話を切り出した。
途端セドニックは賛成の意向を見せ、「約束でしたもんねー」と説得に協力してくれる。
当の本人は心の底から嫌そうな顔でそっぽを向き、拒否の姿勢を貫いていたけれど、数日の説得の末、昨日になってようやく島内に行くことを承諾してくれた。
そうして訪れた今日、リリスは島内へ行くため、ラズベルに声を掛けに来たのだが……。
「ラズベル様、あの……」
「分かっている」
実にそぅっと顔を覗かせ、恐る恐る声を掛けるリリスに、ラズベルはそれだけ言うと黙り込んだ。
立場上、強く言い出すこともできないリリスは、談話室に入りながら彼の行動を待つ。
すると、遅れて顔を出したセドニックが普段と変わらない様子で切り出した。
「あーれ? まだお出掛けされていなかったんですかー、ラズベル様? サクッと覚悟を決めて行きましょーよー。僕もコッソリ後をつけていきますから」
「……」
「昼食も夕食も奮発しますし、リリス様も一緒なんですから何も心配はいりませんよ?」
「……」
「ラーズーベール様~?」
まるで小さな子供をあやすように、セドニックはご機嫌取りをし始める。
手慣れた様子で手を振ったり、食事で釣ったりする様を見るに、昔はこうやって彼をあやしていたのだろう。
大人になった分やや滑稽に感じるものの、彼らだけの空気に、リリスはじっと黙り込む。
「はぁ」
と、やがて根負けしたのか、盛大な溜息を吐いたラズベルはゆっくりと立ち上がった。
椅子に掛けてあった膝丈のコートを羽織り、渋々眼鏡も掛ける。
ブルーグレーのコートには銀糸と青の糸で小花の刺繍がさりげなく袖口や裾、襟元にあしらわれていて上品だ。
曲がりなりにも王族である彼の衣装は、洗練されていると思った。
「恥ずかしいからやめろ、セドニック。行けばよいのだろう。はぁ、仕方あるまい、島民たちの声は確かに考えさせられるものがあるからな……」
ここでようやく支度が整ったラズベルと共に、リリスは屋敷の正門を抜けると、今ではすっかり見慣れた風景を眺めながら、島の中央へ続く道を歩いて行った。
島には当然馬車のような移動手段はないため、廃王であっても移動は徒歩だ。
普段から敷地内を気まぐれに散策するラズベルは気にした様子もないが、そのことにリリスは少しだけ申し訳なくなる。
だが、こればかりはどうしようもないことだと言い聞かせたリリスは、気を取り直したように歩き続けた。
「お、嬢ちゃん、今週も懲りずに……っと、なんだかとんでもねぇ別嬪な兄ちゃんを連れてんなぁ。まさか、その御仁が例の廃王様かい?」
そして十五分ほど歩き、島民たちが作業する土地までやってきたリリスは、気さくに声を掛けてくれるようになったジェイルたちに目を向けた。
ちょうど休憩中だったのか、ひと固まりになって井戸の水を手に額の汗を拭う彼らは、初めて見るラズベルに少しばかり戸惑った様子だ。
「こんにちは。ええ、こちらはお屋敷のラズベル様です。今回ついに皆さんのお話を直接聞きたいとお越しくださったんですよ」
「おぉぅ……」
そんな彼らに笑顔で答えるリリスの一方、島民たちは恐る恐るラズベルを見上げると、
おそらく、女王の前ではそうしなければならなかったのだろう。
だが、王族に対して染みついた行為を示す彼らに、ラズベルは怪訝を見せ、
「……何をしている。形だけの敬いなど不要だ。全員顔を上げて普段通りにするといい」
「あの、皆さん、ラズベル様はあまりこういうのがお好きではないらしいので、いつも通りお話ししましょう……!」
「そ、そうか」
慣れない状況にお互い緊張しているのか、いつも以上にぶっきらぼうなラズベルと、腰が引けている島民たちの間を取り持つように、リリスは努めて明るく微笑んだ。
そのことで島民たちの雰囲気は幾分和らいだものの、一方のラズベルは、視線を島民たちの斜め上で彷徨わせ、どうにもぎこちない。
これまでほとんど人と関わらない生活を送ってきた彼にとって、人との交流は不得手な部類に入るのだろう。
自分がしっかりしなければと、リリスは心の中で気を引き締めた。
「では、今回は改めてこの土地の現在の栽培状況や困っていること、不満点などを教えていただけますか? ラズベル様、ほかにございましたら……」
「いい。一通り聞こう」
「承知いたしました。それでは不肖、エルネード・ルーキスの出番ですね。お父上の治世の折、子爵位を賜っておりました。ラズベル様におかれましては若き日の陛下と見紛うばかり……」
すると、リリスの問いに颯爽と足を踏み出してきたのは、オールバックにした長髪を一本にまとめた細面の男だった。
ぺらぺらと口達者な彼は、見せたいものがあると前置きし、懐から紙束を取り出す。そこには現在の栽培状況について事細かく記されていた。
「島に来る役人たちの言葉が週を隔て変わってやしないか、また、栽培状況の問いに対し、即座に正確な答えを返せるか、そのあたりを憂慮の末につけているメモのようなものです」
恭しい仕草でまずはそれをリリスに手渡し、彼は説明を続けていく。
当然彼も、ラズベルが識字できないとは考えていないのだろう。
リリスは島民たちに気付かれないよう、相槌を打ちながら、わざと声に出してメモの中身を精査していく。
ラズベルはそんな彼女の気遣いに気付いたようだが、特に何も言わず、時折リリスに視線を送っては質問を呟いてくる。
やはり交流は不得手なのか、直接島民たちに声を掛けるのは難しそうだ。
だが、この土地での話が終わった最後、ラズベルはぶっきらぼうに、
「……貴重な時間を取らせた。母のせいでお前たちに苦しい思いをさせて、すまない。今や何の力も持たない俺だが、少しは力になれる方法を、考えよう」
そう呟いて別の土地へ向かっていく。
島民たちは皆一様に目を丸くして、去っていく廃王を見つめていたけれど、やがて深く息を吐いた彼らは、後を追おうとするリリスに笑いかけ。
「またいつでも来てくれと、あのお方に伝えてくれ」
優しい表情でラズベルの後ろ姿に目を向ける。
「……! はい!」
大きく返事をしたリリスは、満面の笑みを浮かべると、ほかの土地へラズベルを案内していった。