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断章【紫紺のイーヴルアイズ-烙印の傷跡-】
断章【紫紺のイーヴルアイズ-烙印の傷跡-】
なりちかてる
異世界ファンタジー冒険・バトル
2025年03月14日
公開日
1.4万字
完結済
ここではない、どこかの場所の物語。 奈落よりのものを駆逐するアリアンフロッドの戦士、夕里菜と郁歌はダンジョンを探索し、フロアボスである"凍える斧"との対決を果たすのだが……。

朝焼けに花束を

 これは、現代から召喚され、奈落よりのものとの戦いを強いられた、夕里菜たち、アリアンフロッドの物語。

 死を迎えることなく、何度も戦い、仲間との絆を深め、時に裏切られながらも、一歩ずつ、歩み続けてきた彼女たちが手にするのは、果たして砕かれた夢想の欠片か、或いは、勝利の盃か。

 英雄たちの願いが届くことを期待して、物語をはじめるとしましょう……。


 □       ■   △


 目覚めた時、視界は藍の色でいっぱいだった。

 空の深い蒼色ではない。

 太陽の光の届かない、水の澱んだ池みたいな色——。


 巨大な筒状の強化ガラスのなかに充たされた、藍色の液体のなかに、わたしは浮かんでいた。

 声を出そうとすると、口からぶくぶくと、泡がこぼれていった。


 ——そうか、死に戻りになったんだ……。

 これで、何度目の復活になるのだろうか。

 死んだ瞬間の時のことは、まったく思い出すことができない。


 ガラスのなかは、回復用の水薬で充たされていて、溺れることはない。

 それでも、目覚めた時はつい、もがくように、手足を動かしてしまう。

 水薬は全身に染み渡り、重傷や手足を切断されていたとしても、肉体をもとの状態に戻すことが出来る。


 今回は、腕も脚も大丈夫だが、下半身にかなりのダメージを受けているようだ。

 肉体の損傷は、完全に回復するが、傷跡は残ってしまう。

 仲間たちのなかには、顔や首筋、肩や二の腕、手の甲など、衣服などで覆い隠すことのできない部分にひどい怪我を負ってしまい、その傷跡のせいで、アリアンフロッドを引退してしまった者もいる。


 腹部を見下ろしかけて、わたしは顔を背けた。

 今回は運がよかった……と思うべきだろうか。

 あぁ、でも——。

 戦いが続く日々に、肉体だけでなく、心も疲弊しきっている、と感じることもあった。


『おっと、これは失礼した。目覚ましの設定をミスってしまったようだねえ』

 のんびりとした声が、頭に響く。

 耳から聞こえてくる、というよりも、脳に直接、響いてくるかのようだった。


『ごめんごめん。肉体の再生にもうちょっと、かかるから、眠るといいよ。それじゃ、また』

 声は一方的に告げると、正面のガラスにうっすらと映っていた人影が、退いていった。

 同時に、眠気が強くなる。

 麻酔効果のレベルを上げたのだろう。

 目を閉ざして、深呼吸をすると、意識も遠のいていった……。


   ☆   ★     ○


 ぶるっと、わたしは体を震わせた。

 寒気が、足元から忍び込んできている。


 岩肌で作られた通路がまっすぐ、正面へと続いている。

 視線はわずか、十メートルも満たず、闇へと溶け込んでしまっている。

 通路の壁には、魔力で灯を光らせられるランタンが掛けられていて、それが前方と後方へ、果てしなく続いていっているのは、わかる。


 遠くでは水音が響き、この迷宮内は様々な魔力(プライマリア)で満ちているのは、わかる。

 四大の他に冥府や死霊、それに、奈落もわずかに感じられる。

 ここは、探査済みの迷宮で、罠や徘徊しているエリオンなども、低レベルのものに限られるので、それほど警戒することもない。

 だが——何故だか、わたしは先程から、寒気を強く、感じていた。


「ユリ……」

 すぐ隣にいる郁歌(ふみか)に、腕を掴まれた。

 指を絡められ、ぎゅっと握られる。

 そこだけ、暖かい空気に包まれたような気分になる。


「郁歌さま」

 指を握り返しながら、彼女の顔を見る。


 ——郁歌……。

 戦友、などという言葉では収まりきらない、半身とでも言ってもいい相手。

 彼女は、相棒でもあり、わたしの恋人でもあるパートナーだ。


 すらりとした長身に、腰まで伸びた黒髪が美しい。

 日焼けなど、一度もしたことがないのではないか、と思わせる白い肌に柳眉が、とっても映えて見える。

 きりっとした眼差しは、常に落ち着いていて、どっしりと構えている。

 ぎゅっと握られた掌から、彼女の体温が流れ込んでくるかのようだった。


 今は、紫色を基調にしたマントと一体になった肩当てと白銀の胸当て、さらに腰のところに大きなリボンの飾りのある、ゆったりとしたスカートを穿いていた。

 いずれも、体力増強や防御力の増す呪鍛(エンチャント)がなされており、見た目以上に郁歌の身を護ってくれている。


 わたしも、郁歌と同じように、この迷宮に挑む時に、それなりに備えている。

 上衣は郁歌と同様、マントと一体化した、桜色を基調に、刺繍の入ったケープに、チュニック、右腕には魔力を帯びた鋼糸で補強した革の籠手を身につけ、動きやすいように、ミニスカートを穿いている。

 刺繍は、防御力を増す魔力が織り込まれており、さらにわたしと郁歌の肉体を護るように、守護の呪文を使っている。


 ふたりとも、防具には地下でも明かりを提供する「灯火」の呪文がかけられ、さらに、わたしに手首には魔力を調整するブレスレット型の調律具(アチューンド)を嵌めている。

 ブレスレットは、わたしの精神を安定させ、いくつかの呪文と魔力を溜め込めることが可能となっている。


 いや——これでもまだ、迷宮を探索するには、充分ではない。

 肉体的には万全でも、わたしたちが迷宮で対決するエリオンは精神や魔力に影響を及ぼす特殊な種もいるからだ。

 エリオンは、似たような姿形、属性を有したものも多いが、固有のものがほとんどだ。

 何度も対決し、勝利している相手であっても、決して油断はできない。


 わたしと郁歌は、これまでずっと、何度となく、生死を共にしてきている。

 死線をくぐり抜けたこともあるし、どちらか一方、あるいはふたりとも、命を散らしたこともある。

 それでも、わたしは郁歌の隣にいるのは自分であり続けなければならない、と思っていた。


 郁歌が振り返し、微笑み返してきた。

 氷の美姫と呼ばれる郁歌の笑顔をじっくりと眺められるのは、わたしくらいのものだろう。

 あまり余裕のない状況なのに、誇らしく感じてしまう。


 わたしと郁歌は、魂の絆(スピリットリンク)で魔術的に接続された状態となっており、感情や意志、魔術に対する抵抗力、それに魔力量なども共有している。

 何度も——それこそ、悦びも苦痛も、ふたりで分かち合ってきている。

 死すらも乗り越え、わたしたちは絆を育んできていた。

 どんな絶望的な状況に陥っても、郁歌がいれば、恐くない——そうやって、乗り越えてきているのだ。


 そして、わたしたちは、地下通路をずっと歩き続け、突き当たりにまで、やって来た。

 正面には、巨大な両開きの扉があり、しっかりと閉ざされている。

 扉は、わたしの背の倍くらいはあり、ふたりだけでは、とても動かせそうにない。


 が——閉ざされた扉の向こうから、気配を感じる。

 わたしには、『鑑定眼』や邪悪感知の魔力はないが、郁歌の能力を借りて、感じているのだろう。

 肌の上を、静電気が走り抜けていくような、ぴりぴりとした感覚だ。


 おそらく、”凍える斧”だろう。

 今回の討伐の対象で、風雪による攻撃と精神汚濁を行ってくる相手だ。

 斧刃状の頭部と長い触手、枯れ木のような体躯を持ち、なかなか、やっかいな敵ではある。

 わたしと郁歌のふたりだと、かなり苦戦すると思ってもいいだろう。


 ——死に戻り、となるかもしれない。

 ダンジョンに、”凍える斧”が出現した、という情報がもたらされた時、真っ先に討伐に名乗りをあげたのが、郁歌だった。

 それこそ、わたしを置いて、ひとりでも討伐へと向かいそうな勢いだった。


 そんな彼女の反応を見るのは、珍しい。

 はじめて、と言えるのかもしれない。

 この間の、大規模なエリオンの襲撃から、どことなく、郁歌は浮き足だっている、というか、機嫌悪そうにしていたり、会話をしていても、まったく聞いていなかったり、デートに遅刻するどころか、すっかり忘れていた、ということもあった。


 直接、彼女に聞けばよかったのかもしれない。

 でも——何となく、聞けないまま、今日まで過ごしてしまっていた。

 今回の討伐を無事、終えたら、聞いてみよう——。


 心に決めて、わたしは郁歌と先遣隊として、迷宮探索に加わっていた。

 先遣隊の役目は、討伐対象となるエリオンの出現するボス部屋を特定し、可能ならば、属性や特殊攻撃の種類などを探ることだ。


 先遣隊だけで、撃破することは目的ではない。

 それは、禁じられている行為のひとつだ。

 わたしたち、グラディウスのメンバーはほぼ、死ぬことはないが、中途半端に討ち洩らしたエリオンは耐性を身につけ、さらに強力な存在となって、立ち塞がってくるからだ。


 郁歌が、扉に手をかけた。

 もしかしたら、郁歌はふたりだけで、”凍える斧”の撃破を考えているのかもしれない——。

 そう思っていたが、もう、間違いないだろう。


 郁歌は、歴戦の勇士だ。

 単騎ではなく、複数の名のあるグラディウスが共同戦線を張るような、奈落よりのものとの大きな戦いに、郁歌は数回参戦しており、絶望的な状況でも死に戻りはせず、英雄的な奮戦ぶりでも有名だ。

 きっと、”凍える斧”とも戦ったことはあるのだろう。


 握った手と手の肌を通して、彼女の士気の高さを感じる。

 その時の記憶なのだろう——精神の絆を通して、”凍える斧”との戦いの内容が、わたしにも流れ込んできていた。

 郁歌は、ふたりでも勝算はあると踏んでいるに違いない。

 一般的な“凍える斧”ならば、わたしと郁歌でも、何とか倒せるレベルだ。


 ふたりだけで、ボス部屋に飛び込んでいくのは、かなりリスクは高い。

 だけど——彼女の足手まといには、なりたくない。

 郁歌が望んでいるのなら、それに従うまでだ。


 郁歌の焦りの感情は、迷宮に入ってから、さらに拍車をかけているように感じられる。

 歩き方も早足だし、わたしが出遅れても、いつもなら待ってくれているのに、先へと歩き出してしまっている。


 それほど、力は入れていないのに、ボス部屋の扉は、ゆっくりと開いていく。

 わたしはごくり、と唾を飲み込むと、郁歌に続いて、ボス部屋へと脚を踏み入れていった。


     ◆   □   ■


 ”凍える斧”が、触手を薙ぎ払った。

 びゅんっ……と、風を震わせ、それが雪に覆われた洞窟の床を打つ。

 雪が舞いあがり、再び、視界が薄氷と雪の欠片で閉ざされる。


 吹雪が正面から吹きつけ、頬に痛みが走る。

 ”凍える斧”は風を使った属性攻撃も加えてくることで知られている。

 今のは直撃ではないが、防護の魔力を突破して傷を負わせてきているのだから、かなりの強敵ということになる。


 雪煙で、周囲は閉ざされてしまっている。

 風がまったく予想もしない方角からごうごうと吹きつけ、聴覚も戦いの役には立たない。

 しっかりと脚を踏みしめていないと、雪で転倒する、ということもあり得る。


 『鑑定眼』の能力を習得している郁歌のお陰で、互いの位置や洞窟のなかの”凍える斧”の動きなどは、だいたい、頭のなかでわかっている。

 そうでなければ、アウトだったろう。

 このような密閉された空間では、相手のほうが有利になってしまう。


 ——メーア。情報を表示して。

 ひと呼吸、置くと、わたしはメーアに命じた。


『……了解』

 虚空から、不機嫌そうな声がすると、”凍える斧”のデータが空間に投じられた。


『凍える斧——Lv35

種族……奈落よりのもの

属性……冥(歪)

状態異常……なし


プライマリークラス……奈落よりのもの

セカンダリークラス……なし


生命力/魔力=1080(925)/185(180)』


 空中に、窓のようなものが開いて、そこに文字と数値が表示された。

 郁歌ならば、もっと詳しく、わかるのだろうが、彼女の能力を借りている状態では、これが限界のようだ。

 命じてもいないのに、メーアがその隣に、比較の意味だろう、わたしのデータを表示させる。


『夕里菜——Lv12

種族……人間

属性……なし

状態異常……なし

天賦……白銀の印


プライマリークラス……軽戦士

セカンダリークラス……斥候


生命力/魔力=120(112)/150(125)


筋力値……08

器用度……12

敏捷性……15

耐久力……11

判断力……20

意志力……18


武器——「ミスティルティン(スタッフ)+05」

防具——「ヴァンガード・アーマー+08」

盾/アクセサリー——「シルヴァンオーブ+15」』


 わたしと郁歌のレベルの合計は二十五。

 一方の”凍える斧”のレベルは三十五。

 レベルの差は十も開きがある。


『無謀、無遠慮、無益の三重苦ですわね。第三者から見たら、郁歌さまは、何かに取り憑かれているとしか、思えませんわ』

 メーアが、よく通る声で、わたしの耳もとに囁いた。


 彼女はディストリクト・モータル——わたしの生活をサポートするために、人格の一部を独立させ、諸々の命令を実行してくれる、使い魔のようなものだ。

 姿は、妖精(フェアリー)のようで、白い肌にトーガのようなものを身につけ、肩から翼を生やしている。


 メーアに実体はなく、物理的に影響を及ぼすことはできない。

 わたし以外には見えず、他の者と会話することもないが、戦闘中など目が離せない時には、かなり頼りとなる存在だ。


 ディストリクト・モータルは、誰でも使いこなせるものではなく、アリアンフロッドのなかでも、わたしと数人に適性があるくらいだ。

 外見は、本人の願望や理想的な自分や異性の姿を映しだしている、とも言われているが、妖精の姿をしているということは、わたしの精神年齢はまだまだ、幼いということなのかもしれない。


『十のレベル差は、この状況では、かなり大きいですわよ。さらに、先遣隊が自ら戦闘に突入するなど、別の目的がなければ、考えられませんわ。何が郁歌さまを駆り立てているのでしょうか』


 レベルは、色んな要素が影響するものの、合計したレベル同士が、正面から戦って、同じ結果となるのが目安とされている。

 十以上もの差があっても、スキルや装備、または状況によって、勝つことはあり得る。

 実際、”凍える斧”以外のエリオンではあるが、郁歌とふたりで、十近いレベル差の相手と戦い、勝利したこともある。


 床からびりびりと、細かい振動が伝わってきた。

 ——郁歌だ。

 彼女が歌いながら、戦っているのだ。


 郁歌は、吟遊詩人(バード)の特殊スキルを得ている。

 歌うことによって、声の届くすべての対象に魔力の効果を届けることが出来る。

 全身にかけられている防御の効果に上乗せをし、さらに古代に鍛えられた魔槍、『ブリューナク(ネームド:ロングスピアー)+50』で戦うのが、彼女のスタイルだ。


 肉体強化のバフなどなくても、運動神経は同じグラディウス——「フィアナ・フィン」のメンバー、いや、桜ヶ咲学院の全アリアンフロッドのなかでも、彼女がトップクラスなのは、間違いないだろう。

 体術を応用して、狭い足場でも巧みに遮蔽物を利用し、素早い攻勢と守勢の切り替えを駆使して、敵を翻弄してしまう様は、戦闘中でも思わず、見入ってしまうほど。

 鮮やかに宙を舞い、敵の攻撃を弾き、返す槍の穂先でざっくりと深傷を与える様は、動画にして、あとで視聴したいくらいだ。


   ■ △   ▲   ▽


「これで、終わりよっ!」

 郁歌が、ブリューナクを振りかぶった。

 ブリューナク・タイプのロングスピアー——『血盟の絆』と名付けられた槍を大きく、振りかぶった。


 石突きが床にくっつきそうになるくらい、背中を反らす。

 魔槍の穂先が、赤熱した光を放つ。


 郁歌がまとう天空の魔力が高められているのを感じる。

 こんな地下深くだと、天空の魔力は弱められるか、限界値は伸びないのだが、数値が急激に伸びて、さらに限界を一気に突破してしまう。

 防御もすべて投げ打った、必殺の技だ。


『砕け散れっ! 星火の凱旋!』

 郁歌の叫び声と共に、槍が投じられる。

 と同時に、空間に何とも言えない音が充たされた。


 魔槍が、咆哮をあげているのだ。

 獲物の肉を喰らい、返り血を浴びる悦びを、槍が歌い上げている。

 『血盟の絆』は、戦いに一度、投じられれば、血を見ずに済むことはない、と言われている。

 持ち主とは常に魔力結合となっている状態にあり、使い魔のように意思疎通も可能のようだ。


 ボス部屋の空気を引き裂きながら、『血盟の絆』が”凍える斧”を目指して、まっすぐに飛翔する。

 素早さに、槍を目で追うことは出来なかった。

 赤熱した槍の穂先が空間に描かれた、緋色の光の軌跡で、何とか槍が放たれたことは、わかった。


 洞窟の暗がりのなかを、閃光と火花が散り、轟音が響いた。

 地響きが空気そのものを揺らす。


『まずい……まずい、まずいですわよ!』

 メーアが珍しく、動揺したような大声をあげる。


 ——なにが……。

 問い返そうとした時——『血盟の絆』が、遂に”凍える斧”の体を粉砕した。

 槍の穂先が樹の幹に突き刺さり、そして、体が一気に膨張したかと思うと、木片が爆発したように四散する。

 もうもうと煙が充ち、洞窟のなかを覆った。


「やった……」

 つぶやくように言ってから、郁歌がその場に座り込んだ。


 脱力したのだろう。

 私もサポートしたとは言え、正面から”凍える斧”と戦いきったのは、郁歌ただひとりだ。

 それだけ、疲労も濃いのだろう。


『まだ! まだ、ですわよ』

 メーアに促されて、わたしは郁歌をかばうように、前に出た。

 郁歌の生命力はゼロにはなってはいないが、残りは一桁だ。

 魔力貯蓄量に至っては、すべて使い切ってしまっていた。


 ——感じる……。

 わたしには、魔力検知は不完全にしか出来ないが、敵意のようなものが向けられていることは、わかった。


 洞窟の向こうで、もうもうと待っている煙の向こうで、人影が動いているのを、わたしは見た。

 それが、”凍える斧”の幹に刺さったままの『血盟の絆』を引き抜いた。


 ——え……どういうこと……。

 『血盟の絆』は、持ち主である郁歌以外には、絶対に従わない。

 魂の絆を通して、郁歌と結ばれているわたしでも、『血盟の絆』を手にするのがやっとだ。


「やめて!」

 『血盟の絆』が、叫びを放っていた。

 流血を求める、悦びの声で再び、空間が満たされる。


 緋色に染まっていた『血盟の絆』の槍の柄が、いつの間にか、深い藍色と灰色、それに漆黒の色に染まっていることに気づいた。

 何者かが、『血盟の絆』を構える。


 反射的に、体が動いた。

 動けない郁歌の前で、両手を広げた。


『夕里菜さま……あぁっ!』

「ユリ!」

 郁歌とメーアの叫びが、同時に聞こえた。


 衝撃を感じた。

 熱さを腹部に感じる。

 体が宙を舞い、そのまま、洞窟の床の上を転がっていく。


 『血盟の絆』を、正面から食らったのだ。

 無事で済むはずがない。

 ——ここまで、かな……。


 ボス部屋の壁まで飛ばされ、ようやく、わたしの体は止まった。

 力が入らず、そのまま、ずるずると、脱力したまま、横たわる。

 体を丸くすると、『血盟の絆』がまだ、体を貫いているのがわかった。


 口のなかに、鉛が流し込まれたような感覚を覚えた。

 腹部はひどく熱を帯びているのに、手足の先、首筋や背中が冷えていくようだ。

 どくっ、どくっ、と心臓の音が直に伝わってくるようだった。


 痛みなどは感じない。

 感覚が、麻痺しているからだろう。

 そのうち、痛みが巡ってきて、意識を失ってしまうのだろうが、死に戻りとなるのか、または、ぎりぎりで踏みとどまるのか。

 今は自分のコンディション・モニターを覗き見る余裕もない。


 不意に、体がふっと浮き上がる感覚がした。

 視野から、迷宮が消え、音も色も、冷たさや熱さも消え去ってしまう。

 そして——わたしは、誰もいない、巨大なテーブル状の石柱の真ん中に立っていることに、気づいた。


 全裸で、怪我をしていたはずなのに、まったくの無傷だった。

 ——ここは……。

 声を出そうとして、唇は動くのに、まったく音が出て来なかった。

 石柱の上に立っているのに、足の裏からも、何も感じない。


 ——ここは、アストラルフィールドだ。

 記憶にはないのに、ここが現実世界ではなく、異界であることを理解した。

 汗など流れないのに、ひやりとしたものを感じる。


 はやく、ここから逃れないと……。

 二度と、取り返しのつかないことになるだろう。

 周囲は白黒で塗り固められたような空間で、ピラミッドや塔、トンネル、階段などが見える。

 深いクレバスのようなものもあり、そこから落ちたら、地面に落ちることもなく、永遠に落ち続ける、ということもわかる。


 斜面の下、ずっと遠いところに、影のようなものが蠢いているのが見えた。

 エリオンだ。

 ここが現実世界ならば、まだ物理的や魔術的な手段で、駆逐することも出来るのだが、このアストラルフィールドでは、期待できない。

 魂を死滅させたくないのなら、近づかないほうがいい。


 だけど——エリオンに見つからず、接触もせず、このアストラルフィールドから現実世界へ帰還することなど、本当に出来るのだろうか。

 歩き出しながら、わたしは徐々に絶望的な気分に染められていった。


     ◆   □   ■


 ゆっくりと、意識が戻ってくる……。

 瞬きをすると、ぼんやりとしていた視野が、はっきりとしてくる。


 ——ここは……。

 上体を起こす。

 ベッドに横になっていたらしく、布団を除けて、床に足の裏をつけた。

 同時に、照明がついた。

 ぱっと、部屋のなかが明るくなる。


 まぶしさに、わたしは目を細める。

 明るさに慣れてから、周囲を改めて見渡す。


 ——ここは、どこだろう。

 見覚えのない、個室のなかだった。

 ベッドと、その脇にある収納のある小さなテーブル、それに、ドアと反対側に窓があるだけ。

 ひどく、殺風景だ。

 壁紙すらなく、コンクリートがそのまま、露出している。

 さらに、窓のところには、重厚なシャッターが降りていて、外の風景を眺めることもできない。


 スリッパすらなく、わたしは床の上を歩いていった。

 着ている服も、全裸ではなかったが、ゆったりとした水色の貫頭衣で、隙間だらけなので、すーすーする。

 下着は穿いていないので、落ち着かない。

 窓のところまで歩いてみたが、ガラスの向こうはやはり、頑丈そうなシャッターが降りている。

 板状のもので、防火用のものに似ている。


 ——というか、これは外に逃げ出さないためのものでは……。

 ガラスをこんこん、と叩いてみるが、こちらもかなりの厚みがある。


 ドアへと向かうが、驚いたことに、こちら側にドアノブはなかった。

 金庫の扉のようで、かろうじて壁との境目があるので、ドアとわかるが、そうでなかったら、壁と区別がつかなかっただろう。

 試しに、ドアをノックしてみるが、反応はない。


 騒ぐのも、見苦しいので、わたしはぐるりと部屋のなかを一周すると、ベッドに座った。

 マットレスは固く、ぎしっとも言わなかった。

 体を後ろに預けて、脚をぶらぶらとさせていると、突然、がちゃりと音が鳴った。

 ドアが持ち上がり、スライドして開口部が見えた。


「あれ……起きてたんだ」

 白衣を着た、背の高い女性が入ってきた。

 丸眼鏡をしていて、黒髪を首筋のところでまとめている。

 綺麗な女性だった。

 唇が薄く、額を大きく出している。

 ガラスの反射で瞳から表情などは読めない。

 白衣のポケットに両手を突っ込んでいて、どういうわけか、棒状の体温計を咥えている。


 右手をポケットから出すと、その手に懐中時計が握られていた。

 蓋を片手で開け、文字盤を覗き込む。

「時間は……っと。〇九三〇ぴったり、か。謹慎時間、終了だ。おめでとう、宮前中尉。解放だ」

「え——」


 瞬きをして、白衣の女性を見上げる。

「聞こえなかったか? 謹慎終了だよ。サインは……後でいいか。さっさと、ここから、出た出た。こんな場所、あんただって、長居したくはないだろう?」

「謹慎……になっていたんですか」

「そりゃ、そうだろう。先遣隊が、後続のグラディウスのメンバーに連絡もなく、エリアボスに攻撃して、デスポーンしてしまったんだからな。まぁ、あんたは郁歌に乗せられたので、罪は軽いんだろうけどさ。あ~詳しい話はあと、あと。さぁ、時間は有限なんだ。行った、行った」

 肩を叩き、わたしを強引に小部屋から連れ出した。


「夕里菜先輩!」

 小部屋の向こうは、長い廊下になっていた。

 ドアが等間隔にあり、謹慎用の部屋が並んでいるらしい。

 わたしのように、謹慎中の人がいるのかは、まったく外からでは、わからなかった。


 廊下の壁際には、質素なベンチが置かれているのだが、それに座っていた女性が、顔をあげた。

 ——同じグラディウス団『フィアナ・フィン』のメンバーのひとりで、後輩の沙保里だ。

 目が合った途端、表情が崩れる。


 あっ……これは、拙い……。

 後退ってみるが、遮る間もなく、相手は勢いよく走り寄ってきた。

 次の瞬間、わたしは抱きしめられていた。

 ぎゅうっと、きつく抱きしめられて、呼吸も出来なくなってしまう。


「こらこら、椋梨(むくなし)少尉。ロストから回復したばかりの相手に、無茶しない」

「だって……どれだけ、あたしが心配したか。この際、理解してもらわないと」

 相手は、少し抱く力を緩めてはくれたが、まだ、体を離そうとはしなかった。


「郁歌はまだ、謹慎中だが……とにかく、トラブルは勘弁な。それと、宮前中尉は奈落よりのものに、意識野の書き換えがなされる寸前まで、いったみたいだからね。記憶もある程度、リセットされているはずだよ」

「うっそ……それって、かなりヤバいじゃん。先輩、あたしのこと、わかります?」


 ようやく、相手が体を離してくれた。

 落ち着いて、改めて、全身の姿を眺めてみる。


 背は高く、わたしが背伸びをして、ようやく頭が並ぶくらいだろうか。

 髪は長く、腰まで届くくらいはある。

 染めているのか、毛髪の尖端は黒いのに、根元は栗色の濃淡のあるグラデーションで、まじまじと見入ってしまう。


 ハイウエストの、ネイビーブルーの地にクリムゾンレッドのチェックの入ったスカート、ワイシャツの胸もとには、臙脂色の大きなリボンを結び、黒いボレロを着込んでいた。

 少し日焼けをしており、肌が露出した部分は褐色だった。

 桜色の唇や涼やかな眼差し、綺麗に切り揃えられた眉など、みんな振り返ってしまうような美人だ。


「大丈夫……そこまで、リセットはされていないから」

「じゃ、名前は? あたしの名前。言ってみて!」

「沙保里さん……だよね」


「えぇ……ちょっと、ショックぅ。沙保里さん、じゃなく、沙保里ちゃんって、いっつも呼んでくれてたじゃあん」

「軍医としては……あんまり、記憶の捏造はして欲しくないなぁ」

「捏造ではありません! あたしのなかでは、いつだって、沙保里ちゃん、夕里菜ちゃんって呼び合っているんだから」

「あーはいはい。そうですか……こっちは、連続三勤務なんだ。静かに仕事させてくれよ」


 □       ■   △


「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ!」

 沙保里の激高した声を聞いて、わたしは地面から顔をあげた。

「逃げないで!」

 郁歌の腕を掴んで、強引に振り向かせる。


 いかにも迷惑そうな表情を、郁歌は浮かべている。

 芝生に座り込んでいるわたしと沙保里、それに、渡り廊下でわたしたちを遠巻きにして眺めている,他の生徒たちを見やる。

 このまま、ここで話し合いを続ければ、噂話はあっという間に、学園の隅々まで行き渡ってしまうのだろう。


 問題が大がかりなものになれば、グラディウスたちの士気を低下させた、ということで、懲罰にかけられてしまうのかもしれない。

 それは、わたしも望んではいない。

 でも——沙保里も、一度、感情に火が付けば、一歩も引かないだろう。

 記憶が抜け落ちていても、沙保里の直情な性格はわかっている。


「……逃げてはおりません」

 郁歌も負けず、沙保里の目を見返して、ゆっくりと言った。

 眼差しを正面から受け止め、睨み返す。


「ユリ……いえ、夕里菜さんを今回、ロストさせてしまった責任は、私にある、ということです」

「だからって、魂の絆まで解除するだなんて、やり過ぎじゃないか」

 郁歌は、首を横に振った。

 赤みがかったポニーテールが、ゆっくりと揺れる。


「私は、ユ……夕里菜さんと、魂の絆を結ぶ資格がない、ということを実感しました。彼女はもっと、彼女の身を守り、彼女の立場を理解してくださる相手と、パートナーを結ぶほうがよろしいのではないかと思ったからです」

「理解? なぁ、夕里菜さんのことを一番、わかっているのは、郁歌先輩じゃないのかよ。あたしはいつだって、ふたりをずっと、眺めてきたんだ。憧れていたって言ってもいい。それを——たった一回の失敗で、失ってしまってもいいのかよ」

 沙保里が、郁歌の両肩を掴んで、そう言った。

 顔を近づけ、噛みつきそうな勢いだ。


 郁歌はあっさりと、沙保里が掴んでいた手を肩から外させた。

「喧嘩なら、買いますわよ」

 沙保里が無言で、脚を引いた。


「ちょ……止めて、ふたりとも」

 わたしは芝生から立ち上がった。

 このままなら、本当にふたりは口ではなく、体を使って戦いはじめそうだった。


「喧嘩はしないけど……格闘技訓練なら、してもいいけど。なぁ、郁歌パイセン」

 油断なく、身構えながら、沙保里が挑発する。

「あなたとは、ことごとく、意見が対立しておりましたけど。珍しく、今だけは同意できるわね。今だけ、ね」


「やめて……沙保里ちゃん。正直、今回の件は正直、実力不足を思い知らされた。ロストだけでなく、アストラル界へ追放されて、魂の書き換え寸前まで至ってしまったのは、自分の判断ミスと思っているわ。もう一度、チャンスが与えられるとしたら、やり直したいと思っていたけど——それが、郁歌さまの判断なら……」

 そこから先は、言葉にならなかった。

 顔を、俯かせる。


 体が震える。

 唇がわななき、涙が零れそうになり、瞼をぎゅっと閉ざす。


 わたしには、郁歌と過ごした日々の記憶は、それほど残っていない。

 魂の奥底には、もしかして、記憶が残されていて、それを通して、郁歌との繋がりを感じているのかもしれない。

 それに、悔しさもある。


 このまま、郁歌はわたしとの魂の絆を解除し、他のグラディウスの他のメンバーと新たな絆を結ぶのだろうか。

 そうなったら——。

 あぁ、そんなこと、たとえ、仮の話であっても、考えたくはない。


「では、郁歌さま。あたしが夕里菜さんを貰っても、文句はないってことだね」

 沙保里が、わたしの体を抱き寄せながら、言った。

「……勝手になさいな」

「寝取られても、それでも、構わないんだよね。目の前でキスをしても……いちゃいちゃしても、まったく平然としていられるってことだね」


 沙保里が、わたしの顎をつかみ、じっと見つめてくる。

「寝取られって……別に夕里菜さんが嫌がっていなかったら、それでいいのではないかしら」

「本当に?」

 煽るように言い、沙保里が抱きしめてくる。

 お尻を掴み、さらに、胸を弄られた。


「ちょ……沙保里ちゃん?」

「……先程、言いましたわよ。嫌がっていなかったら、と」

「これが、嫌がっているように見えるって? むしろ、逆じゃない」

「その前に、風紀を乱す行為は、止めておきなさいな」

「そう?」


 沙保里が、あっさりとわたしの体から手を離した。

「じゃ、さっさと魂の絆を解除しちゃいなよ」

 郁歌が、わたしを見る。

 目と目が合うが、すぐに視線を逸らされてしまった。


 郁歌が、近づいてくる。

『コンディション・モニター、オープン』

 唱えると、ウィンドウが目の前に現われる。


『魂の絆——夕里菜-郁歌

魔力結合状態:相互

状態【人格】:OFF

状態【霊話】:ON

状態【視野共有】:OFF

状態【呪文抵抗】:ON

状態【魔力譲渡】:ON』


 ウィンドウの枠内に、『郁歌との魂の絆を解除しますか?』の選択肢が出る。

 ふたりで同意して、解除を選ぶと、魂の絆は解かれてしまう。


 絆が維持された状態だと、いつでも、どこでも会話が可能だった。

 それが解除されてしまえば、結びつきは失われてしまう。

 ずっと、繋がっていただけに、それが断たれてしまった場合、不安な気持ちになってしまうかもしれない。


 でも——郁歌は望んでいるのだ。

 今のわたしでは、郁歌の役には立てない……。

 それならば、郁歌の望むようにしてあげるべきだろう。


 もしかすると、郁歌はもう、次に絆を結ぶ相手を選んでいるのかもしれない。

 それは、同じ『フィアナ・フィン』のメンバーかもしれないし、まったく知らないグラディウスのメンバーかもしれない。

 郁歌の隣に、自分以外の者が並び、行動を共にする——。


 悔しいし、情けなくなってしまう。

 どうして、自分ではないのだろう、と考えてしまう。

 ロストしてしまったことが、すべてなのだろうか。

 もう一度、すべてやり直したい——でも、それは、もう無理なのだ。


 わたしは、ゆっくりとモニターに指を伸ばした。

 深呼吸をする。

 体が拒絶している——いやだ、押したくはない。


「——では、いいのですわね」

 郁歌が声をかけてきた。

 わたしは——顔をあげることができなかった。

 顔を俯かせたまま、頷く。


 視線を逸らしていても、コンディション・モニターは脳裏に浮かんでいる。

 そして……夕里菜との魂の絆は解除された。


『魂の絆——夕里菜-郁歌

魔力結合状態:なし

状態【人格】:OFF

状態【霊話】:OFF

状態【視野共有】:OFF

状態【呪文抵抗】:OFF

状態【魔力譲渡】:OFF』


 あとは、自分でモニターを閉じれば、もう魂の絆の画面を確認することは出来なくなってしまう。

 目眩のようなものを感じ、わたしは再び、中庭の芝生に膝をついた。

 背筋に、寒気のようなものが走る。


 長い期間、魂の絆が結ばれている状態だったのが、解除されてしまうと、精神的に不安定になってしまうこともあるらしい。

 あとで、志保石先生の診断を受けたほうがいいのかもしれない。


「ユリ先輩……」

 沙保里が、背中に覆い被さってくる。

 顔を見られたくない——その意志をくみ取ったのか、沙保里はわたしの肩を抱いただけで、それ以上のことはしてこなかった。

 わたしは顔を俯かせ、声を忍ばせて泣いた……。


 □       ■   △


「ユリ先輩……」

 隣に並んだ沙保里が、手を握ってくる。

 わたしはゆっくりと、息を吐き出した。


 みんなが、脚を止めて、わたしたちを見ている。

 ——今すぐにでも、飛び出したい……。

 その衝動を、どうにかこらえた。


「だ、大丈夫……です。進みましょう」

 この先——両開きの扉の向こうに、郁歌はいる。

 それは、間違いないだろう。


 偶然、ではないだろう。

 そこは、以前、わたしがロスト——つまり、死んだ場所だ。


 正直、怖さはある。

 ただ、死に戻るだけならば、いいだろう。

 精神を汚染され、奈落墜ちの寸前までいくところだったのだ。

 リセットされていても、あのアストラルフィールドへと落とされた記憶は残っている。


 ゆっくり息を吐き出し、一歩、進める。

 脚の底の感触を、心に刻む。

 大地を踏みしめている感じ。


 脚が震える。

 それは、どうしようもない。

 が——ここから先は、仲間たちがいる。

 そして、わたしは扉をあけた。


   ☆   ★     ○


 これは、現代から召喚され、奈落よりのものとの戦いを強いられた、夕里菜たち、アリアンフロッドの物語。

 英雄の伝承譚はまだまだ、続きますが、今宵のところはここらへんで、語りを終えることにしましょう。

 続きはいずれ、近いうちに、また……。



(***『朝焼けに花束を』

——完)

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