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第3話

ジリリとアラームが鳴る。

時間よ、永遠に止まってくれ。


多くの学生たちの気持ちに反し、無情にも時計の針は回り続ける。

夏休みという楽園から授業という名の現実世界に連れ戻される。

休み明けというのはどうしてこうもだるいのだろう。

ベッドから動きたくない。

いつもなら目を閉じながら片手でアラームを止め、そのまま寝返りを打って二度寝するのだが今日は違う。

下の階からとろけるような甘い香りが鼻腔を通ってきた。

気だるい朝を吹き飛ばすように、僕が愛してやまないパンケーキを作ってくれるとは母さんやってくれたな。

急いで制服に着替え、下に降りたタイミングで母さんは仕事に行った。

そこには焼きたてのパンケーキがテーブルの上に鎮座ちんざしている。


『ようこそ新羅 皓月くん。早くわたしを食べてくれ』


そう言われているかのように顔も洗わず席につき、ナイフで一口サイズにカットする。


自慢じゃないが、母さんの作るパンケーキは世界一美味い。

職場の余り物をもらってきてはそれを自分が作ったかのように出す母さんが唯一真剣に料理をするのがパンケーキ。

色々な町にあるパンケーキ屋を巡ったこの味は誰にも出せない。

シンプルな見た目だが余計な味つけをしていないため、僕好みのいい味だ。


布団という名のふわふわな生地の上に乗るバターが滑り落ちる前に2枚の生地の表面に塗りたくった。


もう我慢できない。


大きく口を開けて口の中に入れると、舌体ぜったいから甘みが全身に広がっていく。

これぞ舌鼓したづつみというやつだ。

朝からこんな幸せな気分になれるなんて。

母さん、恐悦至極きょうえつしごくです。痛み入ります。

この幸せを噛み締めたまま登校したい。

妹が起きてくればこの幸福感が一変して地獄の釜の中に沈んでしまうので足早に家を出た。


新学期早々天気が良い。

暑さが消えないなか、自転車に乗ってペダルをぐと横から吹く海風が心地よく気分を持ち上げてくれる。

松の木が並ぶ海沿いの道をまっすぐ走った先にあるのが僕の通う高校だ。


私立出海いずみ西高校。


海沿いに面しているこの高校には多くの生徒がいて『西高にしこう』という愛称で親しまれている。

数年前からスポーツに力を入れているため県外からも多くの人がスカウトされる。

屋上から眺める海の景色はお金を取ってもうったえられないほどに美しく、昼寝をしたらまさに天国と呼べるような場所。

ただ、自習の時間や学園祭のときなどタイミングによってはカップルがイチャイチャしだすから一気に地獄に変わる場所でもある。


階段を上がり、二年B組の教室の扉を開けた先にクラスメイトがいた。


「おっ、ニラコ。今日は珍しく早いな」


こいつは尾美 昱到おみ いくと

去年から同じクラスの昱到はキリッとした吊り目で背も高く身体も大きい。その強面こわもてからは想像できないくらいにノリが良く彼女を溺愛できあいしている良いやつだ。

僕よりもスイーツの知識が詳しいこともあってすぐに仲良くなった。

しかし、いつからか『ニラ コウキ』の上三文字をとって『ニラコ』という変なあだ名をつけるようになった。


「新学期早々そのあだ名で呼ぶのはやめてくれ」


「かわいいあだ名だろ?」


本人が受け入れなければあだ名ではないと思うが。

西高スイーツ同盟(仮)を結ぶ僕と昱到は、人気のスイーツ店を巡っては感想を言い合い、お金に余裕のあるときは全国のスイーツフェスに通うほど。

いつか日本全国のスイーツ店を巡って2人でオリジナルの地図を作るという計画を練っている。

親友の凪も同盟に加入させようとしているが、糖質をオーバードーズすると体脂肪率がなんちゃらと言って断るから甘いものを食べに行くときは無理に誘わないようにしている。


「いつも眠そうにしてるニラコが元気だなんて、もしかしたら今月サイネリアが咲くかもな」


たしかに朝は苦手だがそんなにいつも眠いわけじゃない。

というより昱到が終始元気なのだ。

ってかサイネリアってなんだ?


「今日の朝食はパンケーキだったからな」


パンケーキというワードに瞳孔どうこうが大きく開く昱到。


「朝からパンケーキだと⁉︎抜け駆けしやがって。ずりぃぞ」


約束した覚えはないのだが。


「昱到も親に頼めば良いじゃねぇか」


「俺の家は誰も朝食を食べない主義でな」


どんな主義だ。


「ったく、ご飯くらい自分で作んなさいよ」


昱到のテーブルの上で長い足を組みながらそう言う女子は似鳥 夏海にとり なみ

昱到の彼女で背が高くバスケ部に所属している。

短く整えた髪とサバサバしている性格は男子だけでなく女子からの人気も高い。

夏海と書いて『ナミ』と呼ぶため、ほぼ九割の人に『ナツミ』と呼ばれているが本人はあまり気にしていない。

夏海本人は自分の名前が好きで、親しい友達には下の名前で呼んでもらうようお願いしているそうだ。

苗字で呼ぶとどうしても「お値段以上〜」と歌いたくなってしまうので、下の名前の方が呼びやすいからこちらとしてもありがたい。


「じゃあ今度作ってくれ」


「私が料理できないの知ってて言ってる?」


「え〜、いいじゃんいいじゃん」


「いやよ。なんで私が昱到のために料理しなきゃいけないのよ」


「頼むよ〜」


両手をおがみながらお願いをする昱到のノリはめちゃくちゃ軽い。

人のこと言えないが相変らずテキトーなやつだ。


「じゃあ、次のテストで1位取ったら考えてあげてもいいよ」


いたずらめいた言い回しの提案だったが、昱到は眉間にしわを寄せて渋い顔をしている。


「それは宇宙服を着ないで海王星まで行くくらい不可能な話だ」


「ん〜ちょっと意味わかんない」


「じゃあ同棲したら作ってくれ」


同棲という言葉に赤面する夏海は、

「バ、バカじゃないの。次テストで赤点取ったら年内デートしてあげないからね」


照れ隠しにも見えたその姿に「意地でも赤点回避してやる」と昱到は意気込んでいた。

僕と昱到は毎年赤点ギリギリで下から数えた方が早い。

自慢じゃないが、この二年間一度もビリになったことはないし、昱到よりも少しだけ点が高いと自負している。


「言っとくけど、新羅くんも赤点取ったら昱到とスイーツ巡りするの禁止にするからね」


どうしてそうなる。


「ニラコ、頑張ろうな」


意気込む昱到に反し、メリットのない僕は全然頑張れる気がしなかった。

夏海がイニシアチブを握っているこの2人の関係性は付き合う前からこういう感じらしい。

そもそも彼女がデレデレしている姿は想像できないし、本人もそういうことを人前でするタイプではないのだろう。

強面の昱到が尻に敷かれている姿を見られるのは実に微笑ましい。


二年生で女子バスケ部のレギュラーである夏海と男子バレー部の昱到は同じ練習時間ということもあって、去年の合同合宿のときに付き合った。

当時夏海には彼氏がいて、チャラそうな見た目の昱到に見向きもしなかったが、元彼に浮気されたのを契機けいきに押しに押され付き合ったら一途に愛情表現してくれる昱到にいまは彼女の方がぞっこんらしい。

この2人を見ていると本当に理想的だと感じる。

たまに喧嘩けんかもしているけれど、なんだかんだ一緒にいるし、誕生日や記念日には部活が忙しくてもお互いの時間を大切にしている。

そんなやりとりを見ていると、廊下から駆け足で向かってくる音が聞こえてきて後ろの扉が勢いよく開いた。


「おっはよー!」


周囲の音をかき消すように教室中に明るい声が響き渡った。


歩風あゆか、今日も元気だね」


「朝から元気出さないと勿体もったいないよ。『元気のみなもと挨拶あいさつにあり!』ってね」


聞いたことのないことわざを当たり前のように展開する彼女は宇佐美うさみみ 歩風。

ボブヘアーとタヌキのような丸みを帯びたかわいらしい顔をしているクラスのムードメーカーで、いつもニコニコしているから評判が良い。

出会ったころから一眼レフカメラを持っていて写真を撮るときはもっぱらこっちだ。

明るくて元気で見た目も可愛いが、いつもふざけてばかりいるためあまり女子扱いされないでいる。黙っていればモテるのにといつも思いながらもマジで余計なお世話なので決して口にはしない。


「もう暑すぎ」


自分のテーブルの上に座って胡座あぐらをかくと、スカートをめくってパタパタさせながら自分自身に風を送り出した。

男子の視線がそこにいっているのは一目瞭然いちもくりょうぜんだったが本人は気づいていない様子だ。

あの〜歩風さん、周りに男子がいることをお忘れですか?

いま男子たちの目がケモノになっていることにお気づきですか?

もしや、気づいていて意図的にしているとか?

まさか、嘘をつけない性格の歩風に限ってそんなあざとくて器用なことはできないだろう。


「ちょっと歩風、何やってんの!」


男子たちをかき分け急いで止めに入る夏海。


「だって暑くて死にそうなんだもの。このままじゃ丸焦げになっちゃうよ」


「もう、女子校じゃないんだから。ほら、これ使って」


夏海が持っていたハンディファンで風を送ると歩風は足を閉じた。

女子校がどんな感じかはわからないが、みんながみんなこんな感じなら少しだけ通ってみたいと気持ちの悪いことを想像した。


歩風が思い出したように体勢を前のめりにして早口で問いかける。


「ねぇ夏海、MellowDearz.の新曲聴いた?」


「スーパーノヴァでしょ?聴いた!サビのとこのダンスめっちゃかっこいいよね」


「わかる!キレッキレでやばい」


「凛陽ちゃんの歌唱力えぐくない?」


「どうやったらあんなに上手くなるんだろうね」


「私たちと年齢そんなに変わらないのに。本当、神様も残酷だよ」


「ルナティックも良かったよね?」


「カップリングにするにはもったいないくらい良い曲」


「さすがに今回は美波ちゃんがセンターだと思ってたけど、結局凛陽ちゃんだったね」


「美波ちゃんダンスも上手いのにいっつも二番目」


「わかる。一度センターやってるとこ見てみたいな」


デビュー以来、グループのセンターはずっと藍沢 凛陽。

今回の新曲はダンスナンバーだったこともあり、一番ダンスが上手いと評される椎名がセンターになると噂されていたが結局藍沢だった。


「正規会員になると、グッズのアイディア出せたり、次の曲の立ち位置について意見言えるみたいだよ」


「そうなの?じゃあOfficial dear.オフィシャル ディアーになろうかな」


dear .はMellowDearz.のファンのことを総称していて、Official dear .(正規会員)になるには年会費を払って正式な会員になる必要がある。


「私も入りたいけど年会費高いじゃん」


年会費を払っている正規会員のOfficial dear .からすると、非正規会員のことを少し見下している現実があるようで、非正規会員の夏海と歩風は願わくばOfficial dear .になりたいが、高校生にとって年会費は決して安くない。

生活費を削ってバイトをすれば払えるだろうが、思春期の女子高生には欲しいものがたくさんあるから泣く泣く非正規会員でいる。


「ってかニラコ、昨日あの会場にいたんだろ?」


おい、昱到。2人の前でそんなことを言うな。

しかもスマホ片手に。

耳に入ったら鬼の形相ぎょうそうでやってくるに違いない。


「新羅くん、どういうこと?」


「ウチらがdear .ってこと知ってるよね?」


「チケット取るためにどれだけスマホと向き合ってたと思ってるの?」


ほーら言わんこっちゃない。

口をすべらせた昱到本人はいまのこの危機的状況を理解していない様子でスマホの動画を見ながらケタケタ笑っている。

クラスで一番ミーハーな歩風と誰よりもMellowDearz.好きを豪語する夏海。

今回のツアーは新曲が出たばかりということもあってチケットは即完売した。

僕は運良く2枚分手に入れたのだが、女子を誘うのはなんとなく違うと思ったし、珍しく落ち込んでいた凪が心配で誘ったというわけだ。

そんなことは言えるはずもなく、この2人の前で言葉を選んでいる。


「いや、たまたまチケットが手に入って」


「たまたま?」


「新羅くん、アイドル興味ないって言ってなかったっけ?」


「どうして言ってくれなかったの?」


「どうしてチケット売ってくれなかったの?」


「妹が行きたがってたから協力したらたまたま取れたんだよ。でも本人が体調崩したから代わりに行っただけ」


咄嗟とっさに嘘をついた。


「抜け駆けするなんてひどいんだけど」


「譲ってくれてもよかったのに」


「二倍でも三倍でも売ってくれたら買ったのに」


いやいや、転売は犯罪ですよ。


「新羅くん、事情を説明してくれる?」


「時系列で説明して」


クレーム対応みたいになってるんですが。

高身長の夏海に見下ろされ、いつになく真顔で言い寄ってくる歩風の圧を受け、後退あとずさりしていく。

救いを求めて昱到をチラ見したが、状況を察していないようでスマホの動画に夢中だ。

行きつけの店の新作スイーツが出ても教えてやんねぇからな。


「ねぇ、新羅くん」


「新羅くん」


目の前に2人の顔がやってくる。

この心臓の鼓動はほのかに香るシャンプーではなく確実に恐怖心からくる戦慄せんりつのほうだ。

どう逃れたらいい?


「にらく〜ん」


「答えなさい」


万事休す。

正直に白状しようとしたとき、運良く始業式が始まるアナウンスが流れた。

余計なことを言わないよう昱到には充分に釘を刺しておこう。



始業式は午前中で終わり、今日はこのまま下校して良いことになった。

バイトもないしいまから家に帰ってMellowDearz.の動画でも観ようとバッグを持って席を立ったとき、昱到に声をかけられた。


「ニラコ、今日バイトか?」


「いや、今日はないよ」


「じゃあ駅前にできた新しい店行かないか?」


今月オープンしたばかりのチーズケーキ専門店。

スイーツ好きとして断る理由がないがまだバイト代が入っていない。先月はゲームのガチャで課金しすぎて支払いが多いし、正直かなりカツカツだ。


「行きたいが金がないって顔をしているな。ふっふっふ、安心したまえ。この俺が貸しておいてやろう」


「ワタシ、ニホンゴヨクワカリマセン」


「都合悪くなるとそれだな」


「尾美金融は利息りそくが高いから結果マイナスなんだよ」


「今日の俺は気分が良いから利息はなしにしておいてやろう」


「何かあったのか?」


「これを見たまえ」


ドヤ顔で見せられたのは、人気ブランドとコラボしている期間限定の革製のカラビナだった。

以前ネットで見たとき結構良い値段だった記憶がある。

嫌な予感がして、僕は瞳孔を開きながら自分の口をふさいだ。


「まさか⁉︎そんな犯罪に手を染めてまで欲しかったなんて……」


「ちげーよ、夏海から誕プレでもらったんだ」


「なんだ、そっちか」


「がっかりすんなよ」


「昱到ってよく物無くすもんな」


「高校入ってからチャリの鍵を3回無くして、家の鍵を5回無くした」


ここまでくると逆に才能だ。

彼女からのプレゼントとはいえ、その理由で買ってもらったんだと思うと少し悲しくなった。


「それで彼女には何をあげたんだ?」


2人とも夏休み中に誕生日を迎えるため、二学期がはじまる前にプレゼント交換をしあう。

昱到がスマホでその写真を見せてきた。

夏海は部活のときたまにヘアピンで前髪を留めていたが、この前壊れてしまったようで本人が欲しがっていたブランドのヘアピンをあげた。

いつも部活のときにしかつけていなかったはずが今日は教室でもつけていた。

表情には出していなかったけれど、きっと嬉しくてつけていたんだろう。


「そういえば夏海は部活だっけ?」


「あぁ」と言って静かにうなずく昱到。

声のトーンが少し低くなった昱到の表情は少し残念そうだった。

本当は夏海と一緒に行きたかったのだろう。

付き合う前から2人はいつも一緒にいて、たまに3人でスイーツ巡りすることもあった。

「始業式早々に部活とか意味わかんない」と文句を言いながらも夏海は部活に向かった。

うちの学校はスポーツに力を入れていて、とくにバスケ部は元プロバスケ選手がコーチをしているからわかる気もする。


最近駅前にできたばかりのチーズケーキ専門店。

平日のお昼明けにもかかわらず店内は予約で満席だった。

カップルや女子会が日傘を差しているなか、男子高校生2人が並んでいるのはなんだか恥ずかしい。

1時間くらい並びようやく店内に入ると、中は白一色で統一され、チーズケーキの甘い香りが漂っていた。

こういうお店は緊張する。

上流階級の金持ちやおしゃれ最先端族でないと気軽に足を運べないような雰囲気に圧倒されるから。

陰キャな僕には眩しすぎる世界。


「ニラコ、こういうとこ苦手か?」


「キラキラしたところは僕の世界じゃない。僕には光の当たらない闇の世界が落ち着くよ」


「ニラコの前世ヴァンパイアだもんな」


「いや、コウモリだ」


こんなに明るくてキラキラした場所はテーマパークだけで充分だ。


お金に余裕のある昱到は真っ白なホワイトチーズケーキという新商品を頼み、おしゃれにアイスコーヒーなどという大人な飲み物を頼みやがった。

コーヒーの飲めない僕はアイスココアと一番安いミニチーズケーキのセットを頼んだ。

高校生にとっては少々高額だったがそれでも圧倒的な美味しさだった。


食べながら昱到が口を開く。


「ニラコってさ、隣のクラスの纐纈こうけつと仲良いよな?」


「あぁ。親友だからな」


「あいつモテるだろ?紹介してほしいって子がたくさんいるんだけど」


「紹介料もらえればいいよ」


「おまえ本当に高校生か?」


「いまのうちからビジネスのことを学んでおかないと」


「その前に一般常識を学んだ方が良い」


「珍しく芯をつかないでくれ」


「で、どうなんだ?」


夏休みの間、凪から訊いた話を思い出す。


(夏の大会を最後に三年生が引退する)


二年生で唯一レギュラーの俺にとって監督の言葉は重かった。


とくに同じキャッチャーの武笠むかさ先輩には配球のことやピッチャーの性格やクセなどつきっきりで教えてもらった。

レギュラーを奪うかたちになったのに先輩は支えてくれた。

正直、先輩がいなければ俺はとっくに心が折れていたと思う。


三年生を全国大会に連れていく。そのために猛練習した。

全国でも強豪校が多いこの県大会を勝ち抜くにはキャッチャーとしてもバッターとしても活躍する必要がある。

食事も栄養バランスを計算して睡眠時間も気にして雨の日も台風の日もトレーニングをおこたらず大会に備えた。


予選決勝。あと1勝すれば全国大会に出られる。

相手は何度も全国大会に出場している天原まのはら大附属一高。

八回表二アウト二、三塁。一点差リード。

いつもコントロールの良いエースの堂島どうじま先輩の球は突然荒れ出した。

疲れている様子はなかったし、投球練習のときも状態は良かった。

プレッシャーからなのか明らかに力んでいたのがわかる。

だから何度か肩の力を抜くよう伝えた。それでもなかなかサイン通りのところに投げてくれてなかった。

ノーストライク、ツーボール。

先輩の武器である縦に落ちるスライダーを真ん中に要求した。

クイックモーションから投げた球は、構えていた位置からわずかに下だった。

縦に大きく曲がった球が俺のグローブと内腿うちももの間をすり抜けて後方に転がっていき同点に。

その後、ヒットを打たれてそのまま逆転負け。

あのワイルドピッチで流れは一変してしまった。

俺があのときもっとリードできていれば。

あのとき身体全身で受け止めていられていれば状況は変わっていたかもしれない。


「ごめんな纐纈。サイン通り投げれなくて」


目に泪を溜めながらも必死にこらえる堂島先輩の言葉は俺の心の奥深くに突き刺さった。


「先輩の球はサイン通りでした。自分がしっかり受け止められなくてすみません」


「おまえはよくやったよ。来年こそ全国大会に行ってくれ」


ダメだ。もらい泣きしそう。

先輩の言葉にはすみませんとしか返せなかった。


「ありがとな、一緒にバッテリー組めて楽しかった」


溜まっていたものが滝のように滂沱ぼうだする。

こんなに悔しかったのははじめてだ。


三年生の引退後、俺はキャプテンに任命された。


もっとストイックになって精神的にも強くなって必ず全国大会に出場する。

そしてプロの世界で活躍する。

だからいまは野球に専念したい。


ー「ってなわけで、凪に紹介しても無駄だと思うぞ」


「イケメンでストイックとかマジで抜け目ないだろ」


まったくその通りだ。

夢を持ちそこに向かってまっすぐ突き進む親友はかっこいい。

簡単に叶うものではないからこそ頑張れるのだろうけれど、相当な覚悟と努力が必要だと思う。

それに比べて僕には夢がない。

ああなりたいとかこうなりたいとか思うのはほんの一瞬で、ふわふわしているから目標も持てない。

ただただいまを楽しく過ごす。それだけ。

見た目云々うんぬんではなく、こういう親友の考え方が好きなのだと改めて感じた。


「あいつ本当にニラコの親友か?」


「それどういう意味だ?」


「ニラコと真逆じゃねぇか」


ディスられているのだろうが認めざるを得ない。

たしかに僕と凪は真逆だ。

親友でなければカースト上位の代表格としてねたんでいただろう。

でも凪は昔から友人想いで約束を守る良いやつ。

見かけによらず高所恐怖症でお化けやジェットコースターが苦手な一面もある。

そんなギャップを知っているからこそ一緒にいて飽きない。


「一年につつみって子がいるんだけど、知ってるか?」


1つ下の代にいる堤さん。

生徒会に所属している小動物みたいで可愛いって噂の子。

たしか元プロ野球選手の娘だった気がする。


「その子が紹介してほしいって言ってきてな」


「聞くだけ聞いてみるけど難しいと思う。凪は年上好きだし」


「そうなのか?なら三年の一条いちじょう先輩も難しそうだな」


財閥の娘でこのマンモス校をたばねる生徒会長の一条さん。

才色兼備さいしょくけんびでいずれ女子アナか芸能人になると噂されている黒髪の清楚系美女。


「たしか大学生の彼氏いなかった?」


「別れそうだから紹介してほしいらしい」


「そんな理由で紹介できるかよ。ってか昱到、コミュニティー広くね?」


「これでも人脈は大事にしてるんでね」


昱到が少しこわくなった。

どこでどう知り合うんだよ。


「それなら禮央れおに紹介してやってくれ」


雪平ゆきひらに?どうして?」


「あいつイケメンなのに誰とも話そうとしないだろ?」


雪平 禮央。

メガネをかけ、ヘッドフォンを首にかけているインテリイケメン。

常に学年トップの成績で授業の合間はずっと本を読んでいる。

ちらっと覗いたとき、文字ばかりが書かれていたからきっと小説か何かだろう。

禮央とは音楽の趣味が一緒で仲良くなったが、昼休みになると弁当と本を持って1人でどこかに行ってしまうし、放課後は生徒会ですぐに席を立つから誰かと話している姿を見たことがない。

そんな禮央にはテスト前になると毎回相談してなんとか赤点をまぬがれている。嫌な顔1つせず相談に乗ってくれるから、僕にとっては救世主でしかないし実は優しいやつだと信じている。

それでも人を寄せつけない雰囲気があるから必要最低限話しかけないようにしている。


結局、昱到からの紹介の件はあやふやなままにして終わらせることにした。

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