目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話

カーテンの隙間から差し込む太陽光が僕の身体をゆっくりと起こす。

まだ午前中だというのに冷房をつけていないと暑くて倒れそうになる。

麦茶を取り出そうとリビングの冷蔵庫を開けると、目の前には夢の世界が広がっていた。

目が覚めてすぐにこんな至高品が並んでいて手を伸ばさない理由がない。

身体は完全に糖分を求めている。

イチゴのロールケーキ、チョコクレープ、スフレチーズケーキが仲良く並び、生クリームという名の最強の甘味たちが連ねている。

冷蔵庫の前で姿を現した天使と悪魔が耳元でささやく。


天使:(糖分の過剰摂取は身体によくありません。血糖値が下がり、不眠症やホルモンバランスも崩れやすくなります。いまは我慢すべきです)


天使というより医師に近い気もした。


悪魔:(人は欲望に弱い生き物。抗う理由などない。それにまだ10代だ。我慢する必要などないだろ?さぁリビドーのままに手を伸ばせ)


……あっさり負けた。

ようこそスイーツくん。

口の中に広がる柔らかな生クリームの味わいと鼻腔から脳内に渡る甘い香りに身体中を癒しが巡った。

朝からこんな至福なひとときを味わえるなんて僕はなんて幸せ者なのだろう。

ライブでの映像がまだ残る中、夏休みの最後を平和に幸せに過ごそうと思っていたとき、玄関から不快な音が聞こえてきた。

この早歩きでかかとをこすって歩く雑な音。

間違いない。妹の叶綯だ。

終わった。

こんなかたちで夏休みを終えるなんて地獄以外なにものでもない。

妹がリビングに入ってくるや否や、僕の方を見て、「げっ」と言ってきた。

僕が一体何をしたって言うんだ。


「きもっ」

「うざっ」

「だるっ」


定型文のような毒舌三連撃はもはや何の意味も成さない流れ作業だが、それでも僕の心に傷は刻まれる。

無感情の毒舌ほど恐ろしいものはない。


「叶綯、そんな汚い言葉使わないの」


同じタイミングでリビングに来た母さんが妹を注意する。


「お母さんもいつも言ってるじゃん」


「あら、お母さんほどおしとやかで綺麗な言葉を使う人はいなくてよ」


短い髪をかきあげながら貴族のような言い回しでそう言うが、普段から口の悪い母さんのどこを切り取ればそうなるんだと思いながらもツッコむことはしなかった。

部屋に戻り、昨晩のライブのことを思い出す。

いまでも不思議で仕方がない。


椎名 美波。


女性アイドルグループMellowDearz.のメンバーで多くの人を魅了する彼女との出会いは4歳のとき。

妹もまだ生まれていなかったし、親友の凪とも出会っていないころだ。

以前住んでいた街の近くに引っ越してきたショートカットで少し無口な背の小さな子。

Tシャツにショートパンツにスニーカー。

見た目は可愛らしかったけれど、メイクもしてなかったし、最初は男の子だと思って接していた。しかし、節々ふしぶしで違和感があった。

プールに行くときもかたくなにシャツを脱ごうとしなかったし、トイレも決して一緒に行こうとしなかった。

そんなある日、「コーキくんはどんな子が好き?」

公園で遊んでいるとき、ふとそんなことを訊かれた。

最近の女子は小学生にもなっていないのにもうメイクとかするらしく、それを話したら「コーキくんもメイクしてる子の方が好き?」と訊いてきた。

当時の僕にそんなことわかるわけがないから正直にわからないと答えた。

身近でメイクしている人なんて母さんくらいしか知らなかったし。

その後も質問攻めをくらった。

好きな芸能人や好きな食べ物、趣味など、まるで面接のように訊かれたが正直何と答えたか覚えていない。

唯一覚えていることとすれば好きなタイプで、それは17歳になったいまも変わっていないからだ。

「髪が長くて一生懸命な子が好き」と答えると、何かを考えた様子でふーんと言って終わった。

男女問わず何かに向かって一生懸命な人は尊敬する。

子供のころは性格なんて気にしていない。

社会も知らなければ現実も見えてない。

なんとなくの雰囲気で好きになるような年頃。


出会って半年したくらいに僕の家でゲームをしながらお菓子を食べていた。

最後に食べようと思って取っておいたお菓子を先に取られ、怒った僕が取り返そうと手を伸ばしたとき、重心がずれておおかぶさるかたちになった。

起きあがろうと彼女に触れたとき、「きゃっ」と小さくか弱い声が聞こえた。

顔を見ると真っ赤に染まっている。

そう、本来男性にあるべきものがなかった。

そのときにようやく気づいたのだ。

そこから僕は気まずくなってしばらく会えなかった。

彼女が女子であることに気づいてからデリカシーのないことをたくさんしてしまっていたことを後悔する。だから謝ろうと思って彼女の家に行ったが、そのとき彼女はすでに引っ越してしまっていた。

それから一度も彼女には会っていない。


**


新羅家では毎年行っている行事がある。

夏休み中と冬休み中の年二回、隣町にある爺ちゃんと婆ちゃんの墓参りに行くことだ。


「もう、なんでコイツと一緒に行かなきゃいけないわけ?」


「お兄ちゃんに向かってコイツなんて言い方やめなさい。お爺ちゃんもお婆ちゃんも会いたがってるんだから」


「そうだけど、私もう中学生だよ?1人で行けるし」


「よく言うわよ。マップ見ても行けないじゃない」


「私、お母さんに似て超方向音痴だから」


「お母さんは『超』じゃなくて、『弱』方向音痴なの」


なんだそれ。


「お母さんが『弱』なら私は『微弱』よ」


おい、話を広げるな。

着地が見えなくなる。


「この前バイト先の道間違えてたのに?」


「あれはちょっと考えごとしてたのよ」


「ここから歩いて10分もかからないじゃん」


「曲がり道が多いのよ」


相変らずこの2人の会話は理解できないが仲が良い。

このままの状態で妹が大きくなったらと思うと末恐ろしくなった。


「とにかく、お母さんお仕事だから戸締りよろしくね」


2人の墓は隣町にあり、歩いて行けるほどの近い距離にあるが、妹はマップを見ても1人では辿たどり着けずいまだに迷うから文句を言いながらも僕と一緒に行っている。


「はぁ〜、だるっ」と露骨に深いため息をついて渋々出かける準備をする妹。

ため息をついたところで何かが変わるわけではないが、この一連の流れは毎回恒例だからもう慣れた。


「お母さんに言われたから仕方なく行ってあげるけど、キモいから半径50メートル以内に近づかないで。近づいたら警察に通報するから」


妹は絶賛思春期。

いつからか僕という存在そのものを汚い虫扱いしている。

幼いころは『お兄ちゃん』と言って後ろに引っついていたのに、気づいたらいまの感じになっていた。

僕が一体何をしたって言うんだ。

そもそもこんな理由で110番されたら警察官もたまったものじゃない。


機嫌の悪い妹は厄介やっかいなので一定の距離を置いて歩くことにした。

僕の前(本当に50メートル離れたところ)でスマホ片手にイヤホンをして下を向きながら歩いている。

音楽を聴いているのかSNSでも見ているのかはわからないが、狭い道をすれ違うチャリや車にも気づくのが遅い。

「その道はあぶねぇぞ」と口に出そうものなら、「うっさい、キモい」というなまり入りの銃弾が飛んできそうだったので心の中でつぶやきながら見守るように後ろを歩く。

隣町につながる橋を渡り墓石が見えてきたそのとき、背後から猛スピードで何かがやってきた。振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。


「凪⁉」


「皓月、ネロを捕まえてくれ」


息を荒げながら愛犬を追いかける親友にただごとじゃないと無意識に足を動かす。

ネロは凪と知り合ったときから飼っていた黒い毛の中型犬で、吠えたところを見たことがないくらい大人しい。

そんなネロが急に走り出すなんて何かあったに違いない。

首元のリードは誰にも掴まれていない状態だ。


「どうした?」


「話は後でする。それよりネロを捕まえてくれ」


筋トレヲタクの凪がリードを手放すほどの力で走りだすネロ。

一体何があったのだろう。


「叶綯ちゃん、ネロを捕まえてくれ」


前を歩く妹に息を荒げながら助けを求める凪。

その声に反応した妹がイケメンの親友を見てあたふたしている。


「な、凪くん⁉︎ど、どうしてここに?どうしよ。今日メイク薄いんだけど」


髪の毛を必死に整えているがそれは無駄なことだと僕は知っている。

妹よ、安心したまえ。凪は中学生に興味はない。

こいつは女子アナやOLといった大人の女性が好きなのだ。

普段から走り込みをしている凪でも息を荒げるってネロの体力は相当なもの。

僕も妹もネロを追いかけるが距離が縮まらない。


墓石の前に着くとネロが急に立ち止まった。

ようやく追いつくと、突然大きな声で吠え出した。


「おい、ネロ。どうした?」


凪の声をかき消すように吠え続けるネロ。

何度なだめようとしても吠え続けるため、凪が強引にネロを連れていった。


「あぁ、凪くん」


叶綯は空港で別れをつげる恋人のような悲哀に満ちた表情で凪の背中を見つめていた。


思い返してみると、ネロが墓石の前で吠えたのは今回がはじめてではない。

夏休みがはじまってすぐのころ、隣町にある期間限定のアイスを買いに出かけたとき、ネロと散歩していた凪を見つけ合流した。

橋を渡って墓石の近くを通ったら突然走り出して吠えたことがあった。

そのときも同じように強引に連れていった。


ネロがどうしてここに向かって走り出したのか、どうして急に吠えたのかは誰にもわからないが、妹と2人きりという地獄の時間を早く終わらせるため、お花とお線香をあげて墓を後にした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?