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第6話

もうすぐ10月だというのに暑さが顔を隠さないなか、ザーザーと降る雨音が店内の窓を打ちつける。

気温を下げてくれるの刹那せつなで、雨上がりにはジメジメとした湿気とむんむんとした熱気が姿を表す。

この雨が体育祭の傷を流してくれるようにも思えたが、あいにく店内は閑散かんさんとしていた。


グレーのシャツに袖を通し、エプロンをしてカウンターに立つ。


「おはようございます」


「おはよう」


柔らかな笑顔で挨拶をするのは花谷 まつりさん。


茶色く長い髪を一つに結び、テキパキと仕事をこなしているこの店の副店長で、僕のバイト先であるCAFÉ PLAGE一号店の責任者でもある。

バイト初日から接客の基礎を教えてくれたり、ミスをフォローしてくれて本当にお世話になった人。

身長が低いため高いところにあるものを取れないのが少し可愛く思えるが、本人は気にしているので決して言わない。


ありがたいことに連日予約でいっぱいになるこの店もさすがに台風や大雨の日は閑散とする。

今日も大雨が降っている影響でテラス席はキャンセルとなり、店内のお客さんもまばらだった。

夜中にかけて大ぶりになる予報からピークらしいピークはなかった。


「花谷、今日は上がっていいぞ」


たまたまこっちに来ていた店長兼オーナーの計らいで早上がりすることになった。

私服に着替えてスタッフルームを出たタイミングでまつりさんに声をかけられた。


久しぶりの早上がりですごく飲みたい気分らしい。

ここのところずっと働きっぱなしだったもんな。

近くのファミレスに入ってビールを一気に飲むまつりさんは、「プハー」と言いながら幸福感に満ちている様子だった。

僕はコーラを飲みながら、気分良さげなまつりさんの話を訊く。


先月、三年間ずっと付き合っていると思い込んでいた人に「俺、結婚することになったから」と一方的に振られ、しばらく抜け殻のようになっていた。

正式に付き合っていたのか、曖昧な関係のままずるずるいっていたのかはわからないけれど、まつりさんの悲しい姿を見ていたらこっちも悲しくなってきた。

ただ酒が飲みたいのなら1人でもいいし、女性同士の方が気楽なはず。わざわざ僕を誘ったのは誰でもいいから話を訊いてほしいのか、男子の意見が訊きたかったのではないかと予測していたのでこちらから切り出してみた。


「まだあの人のこと好きなんですか?」


「そんな簡単に忘れられたら苦労しないよ」


フラれてからやけになっていたまつりさんは生涯独身を貫くと宣言していたがまだ引きずっているようだ。

三年間も曖昧な関係で最終的には違う相手にテープを切られてしまったのだから。


「お家に帰って電気を点けた瞬間、ものすごく寂しい気持ちになるの。いままでは彼のものがあって、彼の匂いがあって。何度も捨てようと思った。何度も忘れようとした。でも思い出ってそんな簡単に捨てられるものじゃないでしょ?」


たしかにそうだ。

好きだった人の過去を消すことは簡単ではない。

その想いが強ければ強いほどその落差は激しい。

ましてや結婚を考えていた人だとよりそうだろう。


「いっそのこと会社辞めて実家に帰ろうかなって思ってた時期もあったけど、私の地元何もないから」


まつりさんの地元はとても小さな田舎町で周囲には田んぼしかないらしい。

僕が前に住んでいた場所よりも静かな場所だ。

都心に憧れて22歳のときにこっちにやってきたと同時に、当時の男性と知り合って恋に落ちた。


「この三年間なんだったんだろう。私は身も心も捧げたのに、彼は身体しか求めてなかったってこと?」


目に泪を溜めながら悔しさともどかしさを浮かばせる。


「私、都合の良い女だったのかな」


そんなことないですって言うべきだろうか。

大人の恋愛に口出しできるほど経験値がないし、なぐさめの言葉をかけられるほど頭の回転もよくない。


「結婚したいな」


この前、生涯独身とおっしゃっていませんでしたっけ?


「仲の良いグループがあるんだけど、絶対結婚できないって言われてた子がついに結婚したの。結婚式のときすっごく幸せそうでさ、私だけ取り残されたと思ったら焦ってきて」


直後、まつりさんのスマホにマッチングアプリの通知が来ていた。

すぐに画面を見たが、気まずそうにスワイプした。


「もう年上狙うのやめようかな」


まつりさんは目が大きく可愛らしい顔をしていて、実年齢よりも幼く見える。

少し気は強いが仕事もできるしバイト想いの優しい社員さん。


「私、背低いし色気ないでしょ?甘えたりできないタイプだし、連絡もそっけないからそういう対象に見られないことが多いの」


いやいや充分魅力的ですよ。と心の中で返事をする。


新羅にらくん、優しいからもらってくれてもいいよ?」


自立している人は相手に求めるものも高いって聞いたことがある。

まつりさんのように仕事のできる人は同じように仕事ができて自立している男性が似合うから、僕のような学生じゃない方が良いと思う。

付き合いたくないわけではない。むしろこんな可愛らしい人と付き合えるなんて光栄だ。

でも、安易な気持ちで付き合うなんてできない。

やっぱり好きだって思える人と付き合いたいから。


「あー、いま誰でもいいから結婚してくれって思ってると思ってたでしょ?」


グラス片手に人差し指をこちらに向けてそう言った。

この短時間で5杯目のビール。

目は少しうつろだ。


「わたしだってそれなりに選んでるつもりだよ?」


童顔のまつりさんはよく学生に間違われる。

店長不在でクレームが起きたとき、まつりさんが対応しようとすると「社員を呼んでこい」と言われることがたまにある。

女性としては嬉しい限りなのだろうが、社会人としては複雑な心境でもあるそうだ。

気丈に振る舞っているが普段の彼女はとても女子だ。


「まつりさん飲みすぎです。駅まで送ります」


「家に帰っても何もないもん」


普段キリッとしている人が甘えた口調になるのは正直ドキッとする。

子供は好きだし結婚願望とあるけれど、まだ高校生だしそういう大事な決断はできない。

それにこんなベロベロな状態で言われても後日覚えてないとか言われそうだし。

国民的アイドルと良い関係になりたいなんて無謀なのはわかっているけれど、僕には心に決めた人がいる。


「送っていきます」


ベロベロの彼女を自転車の後ろに乗せて家まで送った。


✳︎✳︎


画面に映る椎名を見ながらふと考える。

彼女は本当に僕の知っている椎名なのだろうか。

身近にいるはずなのにすごく遠い。

遠い存在のように思えて実は近くにいる?

不思議な感覚でしかない。

偶然の再会から定期的に連絡は取り合っているが、実際に会ったのはこの前の二回だけだし、メッセージのやりとりが1ラリーだけで日をまたぐこともしばしば。

遅いときには三日後に返事がくることも珍しくない。

寂しさを堪えたところでどうにもならないのがもどかしいが、こういうときに限ってネガティブなことを考えてしまう。

だから過度な期待はしない。裏切られたときの傷が深いから。

でも、五日経っても返事がないのははじめてだ。

広告やメディア、毎日のように見る彼女は日に日に多忙になっていた。

注目という光を浴びながら音楽という世界で人々に勇気や活力を与える彼女と、夢も目標もなくごくごく平凡な日常を過ごし、彼女の音楽によって力を与えられる側の一般的な高校生ではそもそも住む世界が違いすぎる。

恋愛経験だってきっと違う。

過去に付き合った人は何人もいるだろうし、いまも色々な人に言い寄られているだろう。

たぶん同じ業界に彼氏だっているだろう。

芸能界なんて金持ちやイケメンの集まりで、ランチで500円出すことすら逡巡しゅんじゅんするような僕と彼女では見ているものや感じているものが全然違うのだ。

そう思えば思うほど徐々に気持ちが落ちていく。

決してポジティブな性格ではないが、めちゃくちゃネガティブというわけでもない。頭を使って何かをするということが苦手なのだ。

そんなゴールの見えない霧の中を歩いているとスマホが鳴った。

画面に映ったのは猫にキスをしているアイコンだった。


「もしもし?」


「もしもし。いま大丈夫?」


彼女の声がいつもより少し甘い気がした。


「大丈夫だけど、どうしたの?」


「皓月くんの声、聴きたくなって」


おいおい、なんだその可愛すぎる理由は。

そんなこと言われたらさっきまで悩んでいた自分がバカみたいじゃないか。

胸の奥が激しく早鐘を打っているが、少しでも余裕のある姿を見せたかったので平然をよそおった。


「迷惑じゃなかった?」


迷惑なわけがない。

むしろ嬉しくて心が叫びたがっているんだ。


「全然。むしろ嬉しい」


「良かった。最近ずっとバタバタでさ、いつも返事遅くなっちゃってごめんね」


相手はスーパーアイドルだ。

逆の立場だったら連絡を返すことすら面倒になるだろうし、テキトーにスタンプを返して終わらせるだろう。

なのに彼女は僕のことを気遣ってくれている。

それが嬉しかった。


「仕事はどう?」


会話をつなぐ感じで聞いてみたがすぐに後悔した。

見たらわかるじゃんという回答が来るのはわかっていた。

読んで字のごとくを愚問ぐもんを投げてしまった。

どう考えても忙しいに決まっている。


「楽しいよ。私たちの歌やダンスでみんなが笑顔になるんだから。それに……」


言葉を詰まらせたというより何かを言いかけて止めた様子だった。


「それに?」


「ううん、なんでもない」


ナントカ効果ってやつだ。

気になって仕方なかったが、過度な期待をして落胆するくらいなら止めておこう。


「そっちはどう?」


「いつも通りの高校生活って感じ」


「そか、元気そうで良かった」


「椎名は休み取れてる?」


「いまはたくさんオファー来るから全然ないけど、そのうち落ち着くと思う」


どのくらい話しただろう。

今日の椎名はいつもより機嫌が良さそうだった。

メンバーと食べたスイーツの話やツアーでのトラブルなど、仕事中の彼女の話をたくさん訊かせてもらった。

大変そうだけど、すごく充実している印象で安心した。


「ってか皓月くん、全然誘ってきてくれないじゃん」


これは冗談でしょうか?

それとも本気で誘ってほしかったということでしょうか?

いや、きっとその場のノリってやつだ。

次の休みがいつかもわからない状態で誘っても迷惑なだけだろう。

この超多忙なときに、どこに僕との時間があるというのだ。

いきなり誘っても濁されて終わるだけ。


「もしかして変に気遣ってない?」


「それはまぁ」


「どんなに忙しくても人は時間を作れるものなんだよ」


そんなものなのだろうか。

これはもっと積極的になっても良いというサインなのだろうか?

いや、そんなわけない。

仕事三昧の彼女にとって僕との時間は優先順位が低いだろう。


「皓月くんとの時間は私にとって大事な癒しなの」


表情が見えないのが悔しかった。

どういう感情で言っているかがわからないから。

電話越しの声にドキドキしつつも恋愛レベル1の僕には答えなど出るはずもなかった。

ただ、どうせ叶わぬ恋なら後悔しない道を歩もう。そう思った。


数日後、椎名から返事が来た。


「誘ってくれてありがとう。あまり長くはいられないけど行くね」


この日は仕事と仕事の合間をってウチに来てくれた。

裏口から部屋に入りサンダルを脱いでリビングに上がる。

前回のタイトデニムと違い、今日はマーメイドスカートを履いていた。

それにしても椎名 美波という人はどうしてこうも色っぽく美しいのだろう。

オフショルのシャツが純粋無垢な僕の理性をかき乱す。

今日はアイドルの仕事ではなく、モデルとして雑誌の表紙の撮影があったそうだ。

普段はメンバーといるから途中で抜け出すのが難しいが、たまたま撮影場所が近くだったから寄れたという。

もちろん、忽那くつなさんには許可を取っていて近くで待機しているという。

両親は仕事で妹はどこで何をしているかわからない。

いきなり帰ってくるかもしれないが、もし帰ってこなければこの時間は2人だけの秘密となる。


「忙しいところありがとう。迷惑じゃなかった?」


「ううん、むしろ嬉しい」


「良かった。何か飲む?」


「お水あるから大丈夫」


お水といっても水道水ではなく、ペットボトルに入った軟水を毎日2リットル常温で飲むのが日課だそう。

体型維持と美容のためらしいが、この歳でそこまで気にしている彼女を見ると、好きなものを好きなときに好きなだけ摂取している自分が情けなくなる。

それにしても凪といい僕の周りには克己的こっきてきな人が多い。

僕は冷蔵庫にあったお茶を手に取りソファに座ろうとする。

先に座っていた椎名が足を組むとスカートで隠れていた素足が姿を現す。

思わず目がいってしまいすぐに目を逸らしたが胸が高鳴っている。

理性を保つために1人分のスペースを空けて座った。


水を一口飲むと、「お休みの日は何してるの?」とか、「学校でのこと訊かせてほしいな」という質問がきたので応えた。

彼女はそれを楽しそうに訊いてくれていた。

芸能の仕事をしているとプライベートやプライバシーがほとんどないって聞く。

ましてや誰もが知っている存在になったいま、彼女に必要なのは息抜きだ。

僕がその存在になるなんて大概たいがい大だけれど、少しでも力になりたいと思った。

だから質問はしなかった。


しばらく沈黙が続いた後、「こっち」と言いながら椎名が自分の横のスペースをトントンと軽く叩いた。

椎名さんいま2人きりですよ?

意識的にスペースを空けて座ったのに、真横に座ったら理性という感情が果てしない空の向こうに消えていってしまう。

いくらなんでも警戒しなさすぎでは?

ドキドキが止まらずなかなか動けないでいると、

「私の横、イヤだ?」

髪を耳にかけた後、数回瞬きをしてこちらを一瞥いちべつする姿に心臓が破裂しそうになる。

勇気を振り絞って彼女の横に座ると一気に熱を帯びた身体に冷静さを失いそうになる。

左側を向くと椎名と目が合った。

その瞳は画面越しに見る彼女よりもはるかに美しくあでやかだった。

どれだけ見つめ合っていたのだろう。

まるでこの空間が僕たちだけを包む世界のように思えた。

このままずっと一緒にいたい。

そう思っていたとき激しい頭痛がした。


「大丈夫?」


「う、うん。いつもの偏頭痛だから」


なんでこのタイミングなんだよと思っていたが、しばらくしたらすぐに治った。

気を取り直してもう一度彼女を見つめる。

目が合った直後、彼女のスマホが鳴った。


「そろそろ行かなきゃ」


一瞬寂しげな表情を浮かべた彼女は席を立ち、「今日はありがとう」と言って裏口に向かった。

振り向きざま、「また誘って」と言って手を振る彼女はとてもかわいかった。

ドキドキが収まらないまま1人リビングで余韻に浸る。

こんな日が毎日続けばいいのに。



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