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20.接触してきた男

 国境の町での暮らしは非常に穏やかに過ぎて行った。

 この町に来てからひと月が経って、ティエリーは初めてのお給料をもらった。

 それは決して多い額ではなかったが、ティエリーは初めて自分で稼いだお金に感動して、これは絶対にサイモンに渡そうと部屋に備え付けてあった鍵のかかる引き出しに封筒ごと入れておいた。


 パン屋に住み込みで働いていると、お金を使うことがほとんどない。

 ボディソープやシャンプー、食器用洗剤や洗濯洗剤は買わなければいけなかったが、それ以外では朝食と昼食は賄いが出るし、夕食は残ったパンをもらって帰って食べればいい。住み込みで家賃は払わなくていいので、そこでお金を使うこともない。


 本が買えないので読書ができないのは残念だったが、自由に外に出ることができたのでティエリーは空いた時間は散歩をすることに決めていた。

 仕事が休みのときや、仕事が終わった後は、町を散策する。


 十五世紀に港町として栄えたというこの町は、運河が張り巡らされていて、十五世紀に建てられた歴史を感じる教会や時計塔があって、美術館も無料で入ることができた。

 美術館に入ったことはなかったので、最初はどのようにすればいいのかものすごく緊張したが、飾られている絵や彫刻を自由に見ていいというので気が楽になって、ティエリーはよく通うようになっていた。

 教会にも年代物の彫刻や絵画が飾ってあって、それも無料で見られたので、ティエリーは退屈する暇もなかった。


 ヒートがいつ来るかは分からないのでそれだけが気がかりだったが、今のところはヒートの兆候もなく平穏に暮らせている。

 人身売買組織に関わることがなければ、ティエリーはこんな風に暮らせていたのだろうかと考えることが多くなった。


 サイモンの部屋から持ってきたものは全て、最初のころはサイモンのフェロモンの香りがしたが、今はすっかりと薄れてしまって、フェロモンを感じられなくなっている。

 ジルベルトはティエリーにサイモンの威嚇のフェロモンがべったりついていると言っていたが、それもどうなっているのか今は分からない。


 こんな田舎町にはアルファもオメガもいなくて、ティエリーはこの町の唯一のオメガのようだった。

 それも、チョーカーを付けて、首を隠すシャツで誤魔化しているので、ティエリーをオメガと知っているのはパン屋の店主とその妻だけだった。


「わたしがオメガだということは誰にも言わないでください。番がいるのでフェロモンが漏れることはありませんし、抑制剤も持っています」

「その話は警察の方から聞いているよ」

「ティエリーの素性を明かさないことはちゃんと契約書に書いてある」


 ジルベルトはその辺もきちんと手続してくれていたようだった。

 これまでオメガという括りでしか見られなかったティエリーは、誰も知らない国境の町に来て、自由に暮らせている。


 ジルベルトとだけメッセージのやり取りをしていたが、初めにジルベルトはティエリーに釘を刺していた。


『ティエリー、この会話はサイモンが監視しているものと思って、その上で発言した方がいいわ』

『サイモンもこのメッセージを見ているんですね。分かりました』


 メッセージには見られても構わないことだけ書こう。サイモンを心配させるようなことは書かないようにしよう。

 そう決めてティエリーはジルベルトにメッセージを送った。


 初めて給料が出たこと、休日や空き時間は散歩をしていること、自分は充実してくれしていることをメッセージで伝えると、ジルベルトは喜んでくれる。


 充実しているはずなのに、ティエリーの生活にはサイモンが足りない。

 サイモンのフェロモンを感じたい。

 サイモンに触れてほしい。

 サイモンの入れてくれた紅茶を飲みたい。

 サイモンと食事を作りたい。


 この生活にサイモンがいれば完璧なのにと思ってしまううちは、サイモンには会わない方がいいのかもしれない。

 会ってしまったら、ティエリーはサイモンに縋り付いて戻りたいと泣いてしまいそうだった。


 嘘でもいいから愛していると言ってほしい。

 家族の愛情でいいからそばに置いてほしい。

 愛人でも構わないから抱いてほしい。

 ティエリーに初めて口付けを教えたのはサイモンなのだ。また口付けてほしい。


 欲望は限りがなくて、サイモンに会えば、全てが瓦解しそうで、ティエリーはサイモンに連絡を取る勇気が持てない。

 離れてもティエリーはこんなにもサイモンを求めていたし、愛していた。


 いずれは心を決めて会わなければいけない。

 ティエリーのサインがなければサイモンはティエリーと離婚できないのだ。


 番を解除されるときには、オメガの方にもそれが伝わってショック状態になると本で読んだが、そういうことは起きていないから、サイモンはまだティエリーを番のままにしているのだろう。

 番を解消されてもティエリーのフェロモンは誰かを誘うことがないし、漏れ出ることもないのでいつでも解消していいのに、サイモンはそれをしようとしない。潔くティエリーの方から番を解消してほしいとお願いしないといけないのかもしれないが、それも連絡を取るのが怖くてできない。


 中途半端なままティエリーの心はサイモンを求め続け、遠く離れた町でもサイモンのことばかり考えている。


 夜にベッドに入って、サイモンを思って自分で欲望を慰めたときには、涙が出た。

 性行為など恐ろしく痛くて気持ち悪いだけだと思っていたのに、サイモンとの行為を思い出すと、ティエリーは体が疼くようになった。


 一人で過ごしたヒートのときに、あんなことはしなくて、サイモンに取り縋ってお願いして、避妊具を外して抱いてもらって、子どもでも作ってもらっていればよかったと今更ながらに後悔する。

 一人で妊娠、出産するということは考えるだけで怖かったが、サイモンの子どもが一緒ならばティエリーは一生その子を育てて幸せに暮らせたかもしれない。


 何もない腹を撫でて、ティエリーはため息をついた。


 初めて給料をもらって数日後、パン屋の休みの日に昼食を店主とその妻と一緒に食べて、散歩に出かけると、ティエリーに声をかけてきた男性がいた。

 その男性の顔をティエリーは覚えていなかったが、相手がアルファだということはすぐに気付いて、危機感を覚えた。

 人身売買組織でオメガを育てる施設にいたころにティエリーを買った相手の中にはアルファもいた。

 その人物は、ティエリーを一時期所有していたアルファに違いなかった。


「相変わらずフェロモンが微弱だな。それでも、そういうオメガをお望みのやつもいる。役に立て」

「嫌です」

「口答えをしたらどうなるか教え込んだつもりだったんだがな。また鞭で打たれたいのか? お前は棘付きの鞭が好きだったな。とてもいい声で鳴いた」


 腕を掴まれて、簡単に振り払えるはずなのに、ティエリーは動けなくなってしまう。

 人身売買組織にいたころの恐怖がティエリーを支配していた。


「来てもらおうか」


 引きずるようにしてティエリーを連れ出した男は、車にティエリーを押し込み、町から出てしまう。

 隙をついて携帯端末でジルベルトに連絡しようとしたら、思い切り頬を殴られて、携帯端末を奪い取られて、窓から捨てられた。


「わたしはあなたには従いません」

「新しいご主人様に捨てられたんだろう? 大丈夫、今度は死ぬまで面倒を見てくれるご主人様を探してやるよ。まぁ、なぶり殺しにされるかもしれないけどな」


 歪んだ笑みを浮かべる男に、ティエリーは殴られた頬を押さえて、言い返そうとするが何を言っていいのか分からない。相手を逆上させないように、大人しく、静かに従うのがこれまでのティエリーだった。


「サイモン……」


 助けてほしいと今更祈ったところで虫のいい話だろうか。

 サイモンから逃げてきたのに、ティエリーは今サイモンに助けてほしいと思っている。


「それがお前を捨てたご主人様か?」

「わたしは捨てられてなどいません」

「オメガを一人にしているんだから、捨てたに決まっているだろう。そもそも、お前は暴力を振るわれる以外に取り得がないんだ。その屈強な体を屈服させて、支配欲を満たすだけがお前の仕事だ」


 サイモンはそんなことを一度も言わなかった。

 ティエリーにそんなことを求めはしなかった。


 家族としてしか愛してくれていなかったかもしれないが、サイモンはいつも誠実で優しかった。


「わたしを解放しなさい。わたしの番は警察官です。すぐに居場所を突き止めてあなたを捕らえます」

「番? 番を持ったのか? お前が? 相手は相当悪趣味だな」


 笑われてサイモンは悪趣味なんかじゃないと言い返したかったが、サイモンの好みはティエリーではないことを思い出してティエリーは黙り込んでしまう。

 男はティエリーの住んでいた町の近くの町のホテルにティエリーを連れ込んだ。


「お前を受け取りに客が来る。大人しくしてろよ」


 見栄えをよくするために頬を冷やすタオルを渡されて、ティエリーは大人しくそれを頬に当てた。ティエリーの頬が腫れていたら、サイモンは悲しむような気がしたのだ。


 サイモンは助けに来てくれる。

 ティエリーはそのことだけを心の支えに、男をこれ以上刺激しないように黙った。


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