カマキリ討伐の翌日。
家に帰ったからも興奮して寝付けなかった僕は、お昼近くになってようやく布団から身体を起こした。
居間のソファーでは妹の
僕はソファー前のフローリングに座り、自分の肩越しに愛菜の横顔を見る。動画に熱中する妹は、長いまつ毛をピクピクと動かしている。
「お兄ちゃんがやっつけてやったぞ」
僕がボソッと呟くと、愛菜は動画から目を離さずに首を傾げて見せる。
「ほら、かまいたち」
「え、マジ……?」
動画から目を離して僕の方を見る。
僕が冗談っぽい笑みを浮かべてると思ったんだろうけど……残念、僕は真面目顔だ。だって本当にやっつけたんだから。
「ほんとなの!?」
愛菜の声に歓喜が混じる。クリスマスの朝に、枕元に置かれたプレゼントを見つけた時みたいな、満面の笑みだった。
僕はもう一度大きく頷く。
「すごい戦いだったよ。あいつ、実際はかまいたちじゃなくてさ――」
出来るだけ詳細に、それでいてちょっとだけ大袈裟に、さらに臨場感たっぷりに――僕は昨晩の大冒険を、目を輝かせた妹に語って聞かせた。
僕が語る夢みたいな冒険譚を、愛菜だって本心じゃ信じていないのかもしれない。
作り話だと思ってるかもしれないし、夜の学校の恐怖にあてられた幻なんだって思ってるのかもしれない。
それでもかまわない。
だって、荒唐無稽な物語に一喜一憂してる愛菜の表情から、『かまいたち事件』への恐怖はすっかり抜け落ちたように見えたから。
お兄ちゃんとしての責務――それってきっと、妹の笑顔を絶やさないって事なんだ。
「おにい、ありがと」
そう言って照れくさそうに笑う愛菜を見て、僕はなんだか懐かしい気持ちになった。
僕の後ろをついて回っていた、あの頃の妹がそこにいた。
* * *
夕食のエビフライを堪能してからは、いつものようにゆっくりとお風呂に浸かった。
湯気でぼやける天井の照明を眺め、湯船にポタポタ落ちる水滴の音を聴きながら、昨晩の出来事をひとつひとつ振り返る。
夜の学校、お化けカマキリの出現、苦戦する影山さん、無謀にも立ち向かう僕、そして本領発揮した影山さんの圧勝――
そして、あのシーンで思考がループする。
『かんちがいしちまいそうになるじゃねーか……』
カマキリを倒したあと、影山さんがいったあの言葉。ちっちゃな囁き声だったけど、ちゃんと僕には聞こえていた。
勘違いって、一体何を勘違いしてしまうんだ?
あの時、発言の後に影山さんの鬼が変形しちゃって
あ、うーん……
そうそう、アレだよ。
僕が悪霊に向かってくもんだから『実は悪霊をやっつけられる霊的パワーを持っている』って勘違いしそうになっちゃった、って意味なんじゃないか?
うん、それ以外には考えられない。
まあ、もう一つの仮説もあるにはあるよ?
でもそれは絶対にありえないでしょ。
だってもう一つの仮説が正しければ、影山さんが僕のことを、ただの友達とは違う『男』として意識してくれてるってわけで――
あの時、ほんの一瞬だけ僕の腕の中に影山さんがいた。
顔が熱い。
僕は乱暴にお湯を飛び散らせて湯船から上がると、冷たいシャワーを頭から浴びた。
そんなわけないよ。
だって影山さんは、僕の事を侮蔑を込めて『スケコマシ』って呼ぶし、身体にちょっとでも触れると大袈裟に嫌がるし……。
嫌われてはいないと思うけど、好かれてるなんて事も絶対にありえない。
でもでも、もしかしたら――
『はあ?……あたしがてめーなんかの事、好きなわけないだろ……? 自惚れんなよスケコマシ……』
脳内影山さんが、辛辣に僕なじる。
こんな間違った妄想を抱えたままじゃ、僕はきっと影山さんとマトモに顔を合わせられない!
ああ脳内影山さん!
もっと僕をなじって、この変な期待を打ち砕いて!
* * *
部屋に戻ると、カーテンの隙間がカマキリが這い出てきた。
こいつは愛菜の通う小学校からついてきた、例のお化けカマキリの成れの果てだ。メスを侍らせてハーレムを築くために、今はまだ卵の中にいる彼女達が成熟するまでの間、なし崩し的に僕の家で匿うことになっている。
小学校からの帰り道、カマキリでは呼びづらいとかなんとかで、松原さんが『リュウジ』って名前をつけた。
一年の時に国語で習った詩から引用したのは一目瞭然だけど、当のリュウジはその名前がそこそこ気に入ったようで、羽根をバタつかせてはしゃいでいた。
生意気な発言が目立つけど、人間と比べりゃまだ生まれて1歳にも満たない若造だ。
「リュウジ、あんまり人前に出てくるなよ。12月にカマキリが這い回ってるなんて、ホントはおかしいんだからね?」
僕は溜め息を吐く。部屋に入ってきたのが両親や愛菜だったら、どんな反応をするかわからない。
外に追い出されるくらいならまだいい。殺虫剤やハエ叩きの餌食になる事だってありえる。そりゃ、衰えても悪霊だからそのくらいじゃ死なないんだろうけど、痛い思いをするのは嫌だろ?
『つってもよー、こっちは閉じ込められて暇なんだよ。ゴキブリとかいないのか? ハンティングしてやるからよー』
リュウジはブツクサと文句を言う。
「ゴキブリなんて――僕の部屋にいるわけないだろ。ちゃんと綺麗にしてるんだから」
やめてくれ。
そんなのがこの部屋に居たら僕は卒倒する。
でも、娯楽のない部屋に閉じ込められてて暇だって気持ちはわからなくない。明日は散歩にでも連れてってやるから、今日はもうちょっと我慢してくれ。
僕は小学生の頃に買ってもらった昆虫図鑑を取り出して、カマキリについて書かれたページを開いてやった。
『おっ、このメス、いい腹部してんね。えっろ……』
メスカマキリの写真を眺めて、なんとも嬉しそうなリュウジ。
「虫は欲望に正直でらやましいよ」
僕はベッドに腰掛けると、上半身を倒して天井を仰ぎ見た。
僕の頭の中にはまだ昨晩の影山さんが残っていて、思考の余白にジュグジュグに
倒れそうになった影山さんを抱きしめた時の、あの肌の温かさとか……。
香水とか柔軟剤とコンディショナーのそれとは違う、ちょっと甘くてお日様みたいな匂いとか……。
僕は枕に顔を埋めて足をバタバタさせた。
『でもよ、俺からしてみりゃ、交尾したいって気持ちによくわかんねー理由をつけて、無駄に面倒くさくしているてめーらニンゲンの方が、よっぽど余裕があってうらやましいぜ?』
顔は図鑑に向けたまま、リュウジはそんな事を呟いた。でもカマキリの目の特性上、複眼の中心の黒い点が、じっと僕を見つめているようにも見える。
僕は立ち上がると、リュウジを学習机の引き出しに突っ込んだ。
『何すんだよ!』
「明日出してやるから、夜はそこで寝てくれよ」
『なんでだよ? もっとそのエロ本見せろよな』
「今日はもうダメ! ニンゲンは一人になりたい時もあるの!」
無理矢理に話を切り上げると、僕は部屋を暗くして布団を被った。
頭の中では、ツンとした顔の影山さんが、頬を赤くしながら僕に唇を近づけている。
肌、顔、声、匂い……。
ああ、なんなんだよ、もう――