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峠を越えた瞬間、空気の匂いが変わった。
冷たい岩稜の風は遠ざかり、代わりに穏やかな平原の香りが二人の頬を撫でた。
眼下には石造りの城壁と白亜の塔がきらめき、サルビナ帝国の城都が夕陽を浴びて黄金色に染まっている。
ハイネは震える膝に手を当て、しばしその光景を見下ろした。
「ついに……ここまで来たか」
声は掠れ、胸の奥で長い旅の緊張がほどけていくのを感じた。
セイシロウはさりげなく自身の脇腹に触れ、傷の治りを確認する。
──大分良い
これならば万が一ここで襲撃があったとしても、城都まで逃げのびる事ができるだろう。
気が緩んでいる今だからこそ警戒の念を強めなければならない、とセイシロウは思っている。
だがそれをハイネに伝える事はなかった。
──道中、さすがに殿下に気を揉ませ過ぎた
それに、とセイシロウは思う。
──少しは俺の有用性というものも示しておかねばな
どこの世界に役立たずを愛する奇特者がいるというのか。
それがセイシロウの考えだ。
セイシロウはハイネという美しい青年の愛を求めているが、ハイネからも求められたい゙のだ。
承認欲求、肉欲──そういった欲から発する愛ではあった。
しかしそれでも愛は愛だ。
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麓に続く蛇行した石畳を下る頃には、夕闇が山影を深く染め始めた。
城都の外郭に到達した時には、天蓋に星が灯り始めていた。
高く聳える門楼には鷹の紋章が掲げられ、槍を構えた衛兵が整列している。
ハイネは泥だらけの外套を正し、門番の前に進み出た。
「余はキルシュカ王国第三王子、ハイネ・トゥリエ・キルシュカである。イシュリアナ皇女殿下に謁見を願いたい」
門番の眉が跳ね上がり、周囲に緊張が走る。
半信半疑の視線が絡み合う中、ハイネは内ポケットから金色の双頭鷲の指輪を示した。
それはキルシュカ王家の正統を示す印章だった。
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報告を受けた衛兵隊長が駆けつけ、指輪を確認すると態度を一変させた。
厳重な警護のもとで二人は城門を潜り、広い石畳の街路を馬車で運ばれる。
石階を上った先の礼拝堂で、二人は長い待機を強いられた。
最初から王宮へ通されなかったのはわけがある。
王宮内で外部来訪者を迎える際、最初から私室や謁見殿に通すのは危険が伴うからだ。
イシュリアナは皇帝家に嫁いだ側室的立場で、公の政治判断には微妙な制限がある。
謁見殿や正庁では帝国の公式判断を即される恐れがあり、そういった事情からも教会が選ばれた。
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蝋燭の灯が揺れる静寂の中で扉が開き、緑紗のドレスに身を包んだ女性が現れる。
イシュリアナ──ハイネの姉であり、サルビナ皇帝の側妃。
彼女は動揺を隠すように浅く息を呑み、「ハイネ……」と名を呼んだ。
ハイネは膝を折り、「姉上、お久しゅうございます……。佞臣グロウルによって国は奪われ、父も母も討たれました。どうか力を貸してほしいとおもい、おめおめとここまで逃げのびてまいりました」と頭を垂れた。
イシュリアナは周囲の廷臣を視線で退けると、静かに言葉を落とした。
「王国の政変は聞いております。あなたが生き延びてくれただけで、私は十分。しかし帝国が簡単には軍を動かせない事もあなたなら分かるはず……まずは事情を詳しく話してちょうだい」
ハイネは長い逃亡の道程とグロウルの暴虐を告げ、セイシロウの献身を語った。
数刻に及ぶ謁見の末、イシュリアナは大きくため息をついた。
これはハイネへ向けたものではなく自身へ向けたものだ。
「残念だけれど──あなたの姉としてできることは正直ありません、話の規模が大きすぎます」
最もな話ではある。
だがここで引き下がっては、とハイネはなおも言い募った。
「分かっております、無理を言っている事は──しかし」
「落ち着いてください、殿下」
平静を失おうとしているハイネを制する声があった。
セイシロウだ。
「イシュリアナ様は“あなたの姉として”と仰ったのです」
ハイネは「だからなんなのだ」と激昂しそうになったが、ぐっと堪える。
──冷静になって考えてみれば、姉上の言い様は別の道があることを示唆しているようにも思える
だが、とハイネは内心で疑問を抱いた。
なぜその道を分かりやすく示してくれないのか。
──必ず理由があるはずだ
見れば、イシュリアナのこちらを見る目には何か含む所があった。
その目の色にハイネは見覚えがある。
それは、貴族が貴族を見る目だ。
こちらの器量を量っているかのような“見”の目。
──そうか、姉上は
ここでようやくハイネはイシュリアナの立場に気づく。
「……では姉上、いえ、イシュリアナ様。“帝国として”のイシュリアナ様に、私が支援を求めたのならば助けていただけるのでしょうか」
ハイネがそういうと、イシュリアナはにっこりと笑った。