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第10話 帝都の試練、心の天秤


イシュリアナの微笑みは、まるで獲物を見つけた猫のようだった。


彼女は立ち上がり、月光に照らされながらゆっくりと歩を進めた。


「その通りです、ハイネ。帝国の者としての私なら、あなたに道を示すことができます」


彼女の声は情を含んだものから、鋭い政治家のそれへと変わっていた。


ハイネは膝をついたまま、姉の言葉を待つ。


「ただし、条件があります。第一に、あなたは正式にサルビナ帝国の庇護を求めること。第二に、一定期間帝国軍に従軍し、その功績をもって帝国への忠誠を示すこと」


ハイネの眉がぴくりと動いた。


「つまり姉上は、余に帝国の駒となれと?」


「違います。帝国に恩を売るのです」


彼女は静かに続けた。


「キルシュカ王国の正統な継承者が帝国軍で武功を立てれば、それは帝国にとって大きな宣伝になります。同時に、あなた自身も帝国内での立場を確保できる。その上で、キルシュカ奪還の大義名分を作るのです」


ハイネは姉の提案を吟味する。


「……どれほどの期間を?」


「最低でも半年。できれば一年。その間、あなたは帝国軍の一員として北方の蛮族討伐に参加してもらいます。危険は伴いますが、適切な護衛をつけましょう」


「セイシロウは?」


「もちろん、あなたの護衛騎士として同行を許可します。忌み人でしたね。帝国ではそのような差別は表向きありません。実力さえあれば、誰でも出世できます」


セイシロウは無表情のまま頭を下げた。


「ありがたきお言葉」


イシュリアナは満足げに頷き、再びハイネに向き直った。


「どうしますか?」


礼拝堂に沈黙が落ちた。


ハイネは深く息を吸い込む。


「……承知しました。余は帝国の庇護を正式に求めます」


イシュリアナの唇に、姉としての安堵を含んだ微笑みが浮かんだ。


「よかった。では今夜はゆっくり休んでください」



宛がわれた貴賓室は広く、暖炉には既に火が灯されていた。


侍女が湯と清潔な衣服を用意して下がり二人きりになると、ハイネは張り詰めていた緊張を解いた。


「殿下、お疲れでしょう。先に湯浴みを」


「いや、お前が先に使え。その傷がまだ癒えていないだろう」


セイシロウは「では、お言葉に甘えて」と上着を脱ぎ始めた。


その動きは脇腹の傷を庇うように慎重だ。


「待て、手伝おう」


ハイネはセイシロウの側に寄り、上着の紐を解く。


布地が離れると、血が滲んだ包帯が露わになった。


「……思ったより深い傷だな」


ハイネが慎重に包帯を解いていくと、セイシロウの上半身が露わになる。


鍛え上げられた戦士の身体。


ハイネの手が、思わず止まった。


心臓が早く打ち始める。


(なぜ、男の肉体を見てこんなにも動揺する……?)


「殿下?」


セイシロウの問いかけに、ハイネは我に返った。


「あ、ああ……すまない」


言い訳をしながら解き続けるが、指先が震える。


セイシロウの肌に触れるたび、妙な熱が這い上がってくるようだ。


「殿下、顔色が……」


心配そうに覗き込まれ、その近さに更に動揺する。


「な、何でもない!」


ハイネは慌てて視線を逸らした。


ようやく包帯を解き終えると、一歩後退する。


「湯を使え。俺は薬草を頼んでくる」


逃げるように部屋を出ようとするハイネを、セイシロウの声が引き止めた。


「殿下。ありがとうございます」


その真っ直ぐな瞳と言葉に胸を打たれ、ハイネは返事もそこそこに部屋を飛び出した。


廊下で壁にもたれ、ハイネは激しく波打つ胸を押さえた。


セイシロウを見る目が、感じ方が、明らかに以前とは違う。


男が男に惹かれるなど、あるはずがない。


そう否定しながらも、心の奥底ではもう気づいているのではないかという声がする。


ハイネは拳を握りしめ、その答えから逃げた。



薬草を持って部屋に戻ると、セイシロウは既に湯浴みを終えていた。


ハイネも自分を叱咤しながら湯船に身を沈める。


部屋に戻ると、セイシロウがベッドに腰掛けていた。


「殿下、明日からは新しい戦いが始まります。覚悟はおありですか?」


「無論だ。必ず功績を上げ、キルシュカ奪還への道を開く」


セイシロウの口元に、微かな笑みが浮かんだ。


「その意気です。私も全力でお支えします」


穏やかな沈黙の中、ハイネは口を開いた。


「セイシロウ。お前は……なぜ、余なのだ?」


「理由などありません。ただ……」


彼は振り返り、真っ直ぐにハイネを見つめた。


「殿下を初めて見た時から、決めていたのです。この方のためなら、命を賭けられると」


ハイネの胸が、また激しく波打った。


「それが……愛、なのか?」


思わずこぼれた問いに、セイシロウは静かに頷いた。


「私にとっては、そうです」


その重みに、ハイネは顔を背けた。


「余には……まだ、分からない」


「構いません。いつか、分かる日が来ることを信じています」


ハイネは何も答えられなかった。



夜が更けていく。


セイシロウは既に規則正しい寝息を立てているが、ハイネは眠れなかった。


天井を見つめながら、自分の心の中にある最も困難な戦いと向き合っていた。


セイシロウへの想い。


それを認めるか、否定するか。


もう後戻りできないことだけは確かだった。


ハイネは寝返りを打ち、セイシロウの寝姿を盗み見た。


月光に照らされたその横顔は、驚くほど穏やかで──美しかった。


ハイネは慌てて目を逸らし、再び天井を見上げた。


長い夜はまだ続きそうだった。

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