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第11話 月影

 ◆


 北方の荒野に朝霧が立ち込める。


 サルビナ帝国軍の野営地には天幕が整然と並び、朝の炊煙が空に立ち上っていた。


 ハイネは与えられた天幕から外を眺め、深いため息をついた。


 帝国軍に参加してから既に二週間。


 だが、周囲の視線は相変わらず冷たい。


「見ろよ、亡国の王子様のお出ましだ」


 近くを通り過ぎる兵士たちの嘲笑が聞こえる。


 ハイネは歯を食いしばり、それを聞かなかったふりをした。


 ──仕方ない。国を失った王子など、彼らにとっては物笑いの種でしかないのだから


 だが、心の奥では屈辱が渦巻いている。


 かつては王族として敬われた身が、今や蔑みの対象。


 その落差に、時折めまいを覚えることすらあった。


 ◆


「殿下、朝餉の支度ができました」


 セイシロウの声に振り返る。


 帝国軍の軍装に身を包み、腰には愛剣を佩いている。


 その姿はまるで生まれながらの帝国軍人のようだった。


「うむ……」


 ハイネは重い足取りで天幕を出た。


 兵士たちが集まる炊事場へ向かう道すがら、また嘲笑が飛んでくる。


「おい、王子様は召使い連れて飯を食うのか?」


「さすが高貴なお方は違うねぇ」


 セイシロウが微かに眉をひそめたが、ハイネがそれを制した。


「気にするな。言わせておけ」


 ハイネはセイシロウをなだめるが、表情は険しいままだった。


 しかしこの様な蔑みは鳴りを潜める事となる。


 ◆


 その日の午後、北方蛮族の斥候部隊との遭遇戦が起きた。


 帝国軍の前衛部隊が襲撃を受け、混乱が広がる。


「敵襲だ! 北東から蛮族が来るぞ!」


 警鐘が鳴り響き、兵士たちが慌ただしく武器を手に取る。


 ハイネも剣を抜いたが、周囲の兵士たちは彼を守ろうとはしなかった。


 むしろ、わざと彼を戦線の最前列に押し出すような動きすら見せる。


「王子様、ここはお前の見せ場だぜ」


 悪意に満ちた声が背後から聞こえる。


 蛮族の戦士たちが雄叫びを上げながら突撃してくる。


 毛皮を纏い、曲刀や戦斧を振りかざす屈強な男たち。


 その数は二十人近い。


 ハイネは剣を構えたものの、彼らの獰猛さに圧倒されそうになる。


 ──このままでは


 その時だった。


 セイシロウが風のように前に出た。


「殿下、下がってください」


 その声は静かだが、有無を言わせぬ力がこもっている。


 セイシロウは剣を抜きながら、ゆらりと前に出た。


 その足運びはまるで酔っているかのように不規則だ。


 蛮族の戦士たちが、獣のような咆哮を上げて襲いかかる。


 先頭の三人が、同時に武器を振り上げた。


 その瞬間──


 セイシロウの姿が、ふっと横に流れた。


 ──秘剣「月影」


 月を見上げる者は、決して月の裏側を見ることができない。


 この秘剣はまさにそういった性質のものだ。


 先頭の戦士が戦斧を振り下ろそうとして、セイシロウに視線を固定した。


 その時、セイシロウは戦士の右側へ素早く移動した。


 戦士は慌てて右を向くが、その動きによって今度は左側に大きな死角を作ってしまう。


 二人目の戦士は、仲間の動きに釣られて同じく右を見た。


 三人目もまた、前の二人につられて視線を右に向ける。


 三人全員が右を向いた瞬間──セイシロウは既に左側に回り込んでいた。


 戦士たちは自分たちの動きによって、左側に巨大な盲点を作り出してしまったのだ。


「どこだ!?」


 戦士たちが振り返るが、その動きこそがセイシロウの思う壺だった。


 人が振り返る時、必ず視界に空白が生まれる。


 身体を回転させている間、一瞬だが何も見えない瞬間がある。


 セイシロウは、その一瞬一瞬を繋いで移動していく。


 一人目が振り返り始めた瞬間、彼は二人目の背後へ。


 二人目が気づいて振り向く間に、三人目の横へ。


 三人目が反応する前に、また一人目の背後へ──


 戦士たちは互いに邪魔をし合い、誰もセイシロウを正面に捉えることができない。


 そして──


 剣が閃き、一人目の戦士の首筋から血が噴き出す。


 だがセイシロウはもうそこにはいない。


 倒れる戦士の体を盾にして、四人目の戦士の視界から姿を消している。


 月影の秘奥とはすなわち、複数の敵を一つの群れとして捉える事にある。


 二十人の戦士たちはそれぞれが独立した個体でありながら、集団として動く時には必ず死角を作る。


 前の者が後ろの者の視界を遮り、右の者が左の者の動きを制限する。


 セイシロウは、その構造的な欠陥を突いていく。


 五人目の戦士が曲刀を横に薙いだ。


 だがセイシロウは既に地面すれすれまで身を沈めており、刃は虚空を切る。


 そのまま前転するように六人目の足元を抜け、立ち上がりざまに七人目の脇腹を斬り裂いた。


 戦士たちは混乱し始める。


 敵を追おうとして身体を回すが、その度に仲間とぶつかりそうになる。


 武器を振るおうとしても、味方を傷つける恐れがある。


 セイシロウはその混乱を最大限に利用した。


 八人目が倒れ、九人目が血を吐いて膝をつく。


 生き残った戦士たちは、ようやく気づいた。


 固まっていては、かえって危険だと。


 そして自分たちが恐るべき剣士を相手にしているのだと。


「散開しろ!」


 誰かが叫ぶ。


 戦士たちが距離を取ろうとする。


 だがそれこそがセイシロウの狙いだった。


 散開すれば、個々の援護が得られなくなる。


 セイシロウは最も孤立した戦士から順に、淡々と斬り伏せていく。


 その動きはまさに月の満ち欠けのように流麗で、しかし無慈悲だった。


 十五人目の戦士が倒れた時、残った者たちの顔に恐怖が浮かんだ。


 彼らは一度もセイシロウと正面から剣を交えていない。


 常に横から、斜めから、予期せぬ角度から死が訪れる。


 最後の戦士が地に伏した時、セイシロウは何事もなかったかのように剣を鞘に収めた。


 二十人近い蛮族を、たった一人で──しかも無傷で葬り去ったのだ。


 戦場に奇妙な静寂が訪れた。


「な、なんだあいつは……」


 先ほどまでハイネを嘲笑していた兵士たちが、呆然とその光景を見つめる。


 地面には戦士たちの死体が円を描くように散乱している。


 まるで、巨大な花が咲いたかのような、奇妙に整然とした配置。


 それは、セイシロウが計算し尽くした動きの軌跡を物語っていた。


 ハイネもまた、息を呑んでいた。


 死神と舞踏家を足して二で割ったようなセイシロウの姿は、恐ろしくも美しく──


 ──そんな男が、余にだけ


 セイシロウは振り返ると、何事もなかったかのようにハイネに問いかけた。


「殿下、お怪我はありませんか」


 その声は、先ほどの凄絶な殺戮を行った者とは思えないほど穏やかだった。


 ハイネは慌てて首を振った。


「あ、ああ……大丈夫だ」


 だが、ハイネの視線はセイシロウから離れない。


 戦場に立つその姿に、ハイネの胸に説明のつかない熱が込み上げてきた。


 憧憬、畏怖、そしてそれ以上の何か。


 ◆


 その夜、戦勝の宴が開かれた。


 焚き火を囲んで兵士たちが酒を酌み交わし、歌声が夜空に響く。


 セイシロウの活躍は瞬く間に軍中に広まり、兵士たちの態度も一変していた。


「すげぇな、あの剣士は王子の護衛なのか?」


「一人で蛮族を蹴散らしたって聞いたぜ」


 ハイネへの嘲笑も影を潜め、代わりに畏敬の念すら感じられる。


「あれほどの剣士を従えるってんなら、あの王子様も大したもんだ」


 だが、ハイネ自身は複雑な心境だった。


 自分の力ではなく、セイシロウの力によって認められたという事実。


 それは嬉しくもあり、同時に悔しくもあった。


 宴から早めに抜け出し、ハイネは自分の天幕へ戻る。


 夜風が頬を撫で、遠くから兵士たちの歌声が聞こえてくる。


 天幕に入ると、既にセイシロウが待っていた。


 彼もまた宴には興味がないようだった。


「殿下、お疲れでしょう。休まれては」


 セイシロウの気遣いに、ハイネは首を振った。


 代わりにずっと抱えていた疑問を口にする。


「セイシロウ」


「はい」


「余のどこにそれほど惹かれるのだ? 具体的に教えてほしい」


 セイシロウはすぐに立ち上がり、ハイネの前に膝をついた。


「まず、殿下の性根でございます」


 セイシロウの声は静かだが、熱がこもっている。


「あの森で、私に逃げろと仰った。護衛騎士である私に、主君であるあなたが逃げろと。それは常識では考えられないことです。だが殿下は、私の命を案じてくださった」


 セイシロウは顔を上げ、真っ直ぐにハイネを見つめる。


「降伏した山賊を殺さなかった。あれこそ王の振舞い。そして毒に倒れた私に口移しで薬を飲ませてくださった事──まさに王の慈悲。そして今も、こうして私の想いを否定せずに聞いてくださる」


 セイシロウの瞳に、押し殺していた感情が溢れ始める。


「殿下の優しさ、強さ、そして時折見せる脆さ──そのすべてが、私を虜にするのです」


 セイシロウは立ち上がり、一歩ハイネに近づいた。


「そして……」


 彼の声が、より低く、熱を帯びる。


「殿下の御姿もまた、私を狂わせます」


 ハイネの眉がぴくりと動く。


「余の姿?」


 セイシロウの視線が、ハイネの全身を舐めるように這う。


「その細い首筋、白い肌、しなやかな指先……まるで彫像のような美しさです。戦場で剣を振るう姿ですら、舞を舞うような優雅さがある」


 セイシロウの呼吸が、少しずつ荒くなっていく。


「特に……」


 彼の視線が、ハイネの唇に注がれる。


「あの口移しの時に感じた、殿下の唇の柔らかさ、熱さ……あれ以来、夢にまで見ます」


 ハイネの頬が紅潮する。


 セイシロウの告白は、あまりにも生々しく、直接的だった。


「セイシロウ、お前は……」


 だが、言葉は続かない。


 なぜならセイシロウが自身の下腹部を指し示したからだ。


「ご覧ください、殿下」


 ハイネの視線が思わずそこへ向けられる。


 軍装のズボンが明らかに前に押し上げられていた。


 そこに隠しようのない男の証が、はっきりと形を成している。


「!」


 ハイネは顔を真っ赤にして、慌てて視線を逸らした。


 まるで初めて男を見た乙女のような反応。


「な、何を……!」


 動揺するハイネに、セイシロウは苦笑を浮かべた。


「まあ、血を随分見たから、というのもありますが」


 彼は一歩後退し、深く頭を下げる。


「無論、襲ったりは致しませぬ。ご安心めされよ」


 だが、その声には抑えきれない欲望が滲んでいた。


 ハイネは混乱していた。


 嫌悪感を抱くべきなのに、なぜか胸が高鳴る。


 セイシロウの露骨な欲望の表れを見て、恐怖よりも別の感情が湧き上がってくる。


 ──これは、一体……


「殿下」


 セイシロウの声に、ハイネは我に返る。


「失礼しました。少し、外の風に当たってきます」


 セイシロウは天幕を出ようとする。


 だがその背中に、ハイネは思わず声をかけていた。


「待て」


 セイシロウが振り返る。


 ハイネは言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。


「余は……お前を嫌いではない。むしろ……」


 頬を染めながら、ハイネは続ける。


「お前の想いを、不快だとは思わない。ただ、まだ……どうすればいいか分からないだけだ」


 セイシロウの目が見開かれ──口元には優しい微笑みが浮かぶ。


「それだけで、十分です」


 ──今はまだ


 ハイネもセイシロウも口にしていないその言葉を、2人は同時に幻聴した。

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