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北方の荒野に朝霧が立ち込める。
サルビナ帝国軍の野営地には天幕が整然と並び、朝の炊煙が空に立ち上っていた。
ハイネは与えられた天幕から外を眺め、深いため息をついた。
帝国軍に参加してから既に二週間。
だが、周囲の視線は相変わらず冷たい。
「見ろよ、亡国の王子様のお出ましだ」
近くを通り過ぎる兵士たちの嘲笑が聞こえる。
ハイネは歯を食いしばり、それを聞かなかったふりをした。
──仕方ない。国を失った王子など、彼らにとっては物笑いの種でしかないのだから
だが、心の奥では屈辱が渦巻いている。
かつては王族として敬われた身が、今や蔑みの対象。
その落差に、時折めまいを覚えることすらあった。
◆
「殿下、朝餉の支度ができました」
セイシロウの声に振り返る。
帝国軍の軍装に身を包み、腰には愛剣を佩いている。
その姿はまるで生まれながらの帝国軍人のようだった。
「うむ……」
ハイネは重い足取りで天幕を出た。
兵士たちが集まる炊事場へ向かう道すがら、また嘲笑が飛んでくる。
「おい、王子様は召使い連れて飯を食うのか?」
「さすが高貴なお方は違うねぇ」
セイシロウが微かに眉をひそめたが、ハイネがそれを制した。
「気にするな。言わせておけ」
ハイネはセイシロウをなだめるが、表情は険しいままだった。
しかしこの様な蔑みは鳴りを潜める事となる。
◆
その日の午後、北方蛮族の斥候部隊との遭遇戦が起きた。
帝国軍の前衛部隊が襲撃を受け、混乱が広がる。
「敵襲だ! 北東から蛮族が来るぞ!」
警鐘が鳴り響き、兵士たちが慌ただしく武器を手に取る。
ハイネも剣を抜いたが、周囲の兵士たちは彼を守ろうとはしなかった。
むしろ、わざと彼を戦線の最前列に押し出すような動きすら見せる。
「王子様、ここはお前の見せ場だぜ」
悪意に満ちた声が背後から聞こえる。
蛮族の戦士たちが雄叫びを上げながら突撃してくる。
毛皮を纏い、曲刀や戦斧を振りかざす屈強な男たち。
その数は二十人近い。
ハイネは剣を構えたものの、彼らの獰猛さに圧倒されそうになる。
──このままでは
その時だった。
セイシロウが風のように前に出た。
「殿下、下がってください」
その声は静かだが、有無を言わせぬ力がこもっている。
セイシロウは剣を抜きながら、ゆらりと前に出た。
その足運びはまるで酔っているかのように不規則だ。
蛮族の戦士たちが、獣のような咆哮を上げて襲いかかる。
先頭の三人が、同時に武器を振り上げた。
その瞬間──
セイシロウの姿が、ふっと横に流れた。
──秘剣「月影」
月を見上げる者は、決して月の裏側を見ることができない。
この秘剣はまさにそういった性質のものだ。
先頭の戦士が戦斧を振り下ろそうとして、セイシロウに視線を固定した。
その時、セイシロウは戦士の右側へ素早く移動した。
戦士は慌てて右を向くが、その動きによって今度は左側に大きな死角を作ってしまう。
二人目の戦士は、仲間の動きに釣られて同じく右を見た。
三人目もまた、前の二人につられて視線を右に向ける。
三人全員が右を向いた瞬間──セイシロウは既に左側に回り込んでいた。
戦士たちは自分たちの動きによって、左側に巨大な盲点を作り出してしまったのだ。
「どこだ!?」
戦士たちが振り返るが、その動きこそがセイシロウの思う壺だった。
人が振り返る時、必ず視界に空白が生まれる。
身体を回転させている間、一瞬だが何も見えない瞬間がある。
セイシロウは、その一瞬一瞬を繋いで移動していく。
一人目が振り返り始めた瞬間、彼は二人目の背後へ。
二人目が気づいて振り向く間に、三人目の横へ。
三人目が反応する前に、また一人目の背後へ──
戦士たちは互いに邪魔をし合い、誰もセイシロウを正面に捉えることができない。
そして──
剣が閃き、一人目の戦士の首筋から血が噴き出す。
だがセイシロウはもうそこにはいない。
倒れる戦士の体を盾にして、四人目の戦士の視界から姿を消している。
月影の秘奥とはすなわち、複数の敵を一つの群れとして捉える事にある。
二十人の戦士たちはそれぞれが独立した個体でありながら、集団として動く時には必ず死角を作る。
前の者が後ろの者の視界を遮り、右の者が左の者の動きを制限する。
セイシロウは、その構造的な欠陥を突いていく。
五人目の戦士が曲刀を横に薙いだ。
だがセイシロウは既に地面すれすれまで身を沈めており、刃は虚空を切る。
そのまま前転するように六人目の足元を抜け、立ち上がりざまに七人目の脇腹を斬り裂いた。
戦士たちは混乱し始める。
敵を追おうとして身体を回すが、その度に仲間とぶつかりそうになる。
武器を振るおうとしても、味方を傷つける恐れがある。
セイシロウはその混乱を最大限に利用した。
八人目が倒れ、九人目が血を吐いて膝をつく。
生き残った戦士たちは、ようやく気づいた。
固まっていては、かえって危険だと。
そして自分たちが恐るべき剣士を相手にしているのだと。
「散開しろ!」
誰かが叫ぶ。
戦士たちが距離を取ろうとする。
だがそれこそがセイシロウの狙いだった。
散開すれば、個々の援護が得られなくなる。
セイシロウは最も孤立した戦士から順に、淡々と斬り伏せていく。
その動きはまさに月の満ち欠けのように流麗で、しかし無慈悲だった。
十五人目の戦士が倒れた時、残った者たちの顔に恐怖が浮かんだ。
彼らは一度もセイシロウと正面から剣を交えていない。
常に横から、斜めから、予期せぬ角度から死が訪れる。
最後の戦士が地に伏した時、セイシロウは何事もなかったかのように剣を鞘に収めた。
二十人近い蛮族を、たった一人で──しかも無傷で葬り去ったのだ。
戦場に奇妙な静寂が訪れた。
「な、なんだあいつは……」
先ほどまでハイネを嘲笑していた兵士たちが、呆然とその光景を見つめる。
地面には戦士たちの死体が円を描くように散乱している。
まるで、巨大な花が咲いたかのような、奇妙に整然とした配置。
それは、セイシロウが計算し尽くした動きの軌跡を物語っていた。
ハイネもまた、息を呑んでいた。
死神と舞踏家を足して二で割ったようなセイシロウの姿は、恐ろしくも美しく──
──そんな男が、余にだけ
セイシロウは振り返ると、何事もなかったかのようにハイネに問いかけた。
「殿下、お怪我はありませんか」
その声は、先ほどの凄絶な殺戮を行った者とは思えないほど穏やかだった。
ハイネは慌てて首を振った。
「あ、ああ……大丈夫だ」
だが、ハイネの視線はセイシロウから離れない。
戦場に立つその姿に、ハイネの胸に説明のつかない熱が込み上げてきた。
憧憬、畏怖、そしてそれ以上の何か。
◆
その夜、戦勝の宴が開かれた。
焚き火を囲んで兵士たちが酒を酌み交わし、歌声が夜空に響く。
セイシロウの活躍は瞬く間に軍中に広まり、兵士たちの態度も一変していた。
「すげぇな、あの剣士は王子の護衛なのか?」
「一人で蛮族を蹴散らしたって聞いたぜ」
ハイネへの嘲笑も影を潜め、代わりに畏敬の念すら感じられる。
「あれほどの剣士を従えるってんなら、あの王子様も大したもんだ」
だが、ハイネ自身は複雑な心境だった。
自分の力ではなく、セイシロウの力によって認められたという事実。
それは嬉しくもあり、同時に悔しくもあった。
宴から早めに抜け出し、ハイネは自分の天幕へ戻る。
夜風が頬を撫で、遠くから兵士たちの歌声が聞こえてくる。
天幕に入ると、既にセイシロウが待っていた。
彼もまた宴には興味がないようだった。
「殿下、お疲れでしょう。休まれては」
セイシロウの気遣いに、ハイネは首を振った。
代わりにずっと抱えていた疑問を口にする。
「セイシロウ」
「はい」
「余のどこにそれほど惹かれるのだ? 具体的に教えてほしい」
セイシロウはすぐに立ち上がり、ハイネの前に膝をついた。
「まず、殿下の性根でございます」
セイシロウの声は静かだが、熱がこもっている。
「あの森で、私に逃げろと仰った。護衛騎士である私に、主君であるあなたが逃げろと。それは常識では考えられないことです。だが殿下は、私の命を案じてくださった」
セイシロウは顔を上げ、真っ直ぐにハイネを見つめる。
「降伏した山賊を殺さなかった。あれこそ王の振舞い。そして毒に倒れた私に口移しで薬を飲ませてくださった事──まさに王の慈悲。そして今も、こうして私の想いを否定せずに聞いてくださる」
セイシロウの瞳に、押し殺していた感情が溢れ始める。
「殿下の優しさ、強さ、そして時折見せる脆さ──そのすべてが、私を虜にするのです」
セイシロウは立ち上がり、一歩ハイネに近づいた。
「そして……」
彼の声が、より低く、熱を帯びる。
「殿下の御姿もまた、私を狂わせます」
ハイネの眉がぴくりと動く。
「余の姿?」
セイシロウの視線が、ハイネの全身を舐めるように這う。
「その細い首筋、白い肌、しなやかな指先……まるで彫像のような美しさです。戦場で剣を振るう姿ですら、舞を舞うような優雅さがある」
セイシロウの呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
「特に……」
彼の視線が、ハイネの唇に注がれる。
「あの口移しの時に感じた、殿下の唇の柔らかさ、熱さ……あれ以来、夢にまで見ます」
ハイネの頬が紅潮する。
セイシロウの告白は、あまりにも生々しく、直接的だった。
「セイシロウ、お前は……」
だが、言葉は続かない。
なぜならセイシロウが自身の下腹部を指し示したからだ。
「ご覧ください、殿下」
ハイネの視線が思わずそこへ向けられる。
軍装のズボンが明らかに前に押し上げられていた。
そこに隠しようのない男の証が、はっきりと形を成している。
「!」
ハイネは顔を真っ赤にして、慌てて視線を逸らした。
まるで初めて男を見た乙女のような反応。
「な、何を……!」
動揺するハイネに、セイシロウは苦笑を浮かべた。
「まあ、血を随分見たから、というのもありますが」
彼は一歩後退し、深く頭を下げる。
「無論、襲ったりは致しませぬ。ご安心めされよ」
だが、その声には抑えきれない欲望が滲んでいた。
ハイネは混乱していた。
嫌悪感を抱くべきなのに、なぜか胸が高鳴る。
セイシロウの露骨な欲望の表れを見て、恐怖よりも別の感情が湧き上がってくる。
──これは、一体……
「殿下」
セイシロウの声に、ハイネは我に返る。
「失礼しました。少し、外の風に当たってきます」
セイシロウは天幕を出ようとする。
だがその背中に、ハイネは思わず声をかけていた。
「待て」
セイシロウが振り返る。
ハイネは言葉を探しながら、ゆっくりと口を開いた。
「余は……お前を嫌いではない。むしろ……」
頬を染めながら、ハイネは続ける。
「お前の想いを、不快だとは思わない。ただ、まだ……どうすればいいか分からないだけだ」
セイシロウの目が見開かれ──口元には優しい微笑みが浮かぶ。
「それだけで、十分です」
──今はまだ
ハイネもセイシロウも口にしていないその言葉を、2人は同時に幻聴した。