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ハイネの手が震えながら、床に落ちた手紙を拾い上げた。
涙で滲む視界の中、セイシロウの筆跡を追う。
手紙には、こう記されていた。
『殿下
このような形でお別れすることをお許しください。
私は殿下をお守りすると約束しました。
その約束を、今も、これからも守り続けます。
ただし、その守り方を変えねばなりません。
殿下は立派な王となられました。
グロウルを倒し、国を取り戻し、民の希望となられた。
その殿下の傍に、忌み人である私がいることは、殿下にとって重荷でしかありません。
王には世継ぎが必要です。
私にはそれを助けることができません。
むしろ、私の存在が殿下の邪魔になる。
愛する者の邪魔になることほど、辛いことはありません。
覚えておいででしょうか。
最初にお会いした時、私は申し上げました。
「殿下の手となり足となり、行く手を塞ぐ障害の一切を斬り倒す」と。
今、その障害は私自身です。
だから、私は去ります。
殿下には相応しい王妃を迎えていただきたい。
あの夜のことは生涯の宝です。
殿下が私を受け入れてくださったこと。
私の名を呼んでくださったこと。
あの時、私は世界で一番幸せな男でした。
その記憶があれば、私は生きていけます。
最後に、お願いがあります。
もし殿下に危険が迫ることがあれば、陰ながらお守りすることをお許しください。
姿は見せません。
ただ、遠くから殿下の無事を見守らせてください。
それが、私にできる最後の奉仕です。
殿下、どうかお元気で。
立派な王として、末永くこの国を治めてください。
そして、時には幸せを感じてください。
それが私の一番の願いです。
永遠に殿下を愛する騎士
セイシロウ』
◆
手紙を読み終えたハイネは、その場に崩れ落ちた。
王冠が床に転がり、冷たい音を立てる。
「馬鹿者……」
声が震える。
涙が止まらない。
「誰が……誰がそんなことを望んだ……」
拳で床を叩く。
痛みなど感じない。
心の痛みの方が、遥かに大きいから。
「余は、ただお前と……」
言葉が続かない。
ただ共にいたかった。
王である前に、一人の人間として。
セイシロウを愛する者として。
窓の外を見れば、月が静かに輝いていた。
あの夜と同じように。
二人が結ばれた、あの夜と。
「セイシロウ……」
震え声でその名を呼ぶ。
だが、もう答える者はいない。
ハイネはゆっくりと立ち上がった。
そして、落ちた王冠を拾い上げる。
その重さが、今までとは違って感じられた。
愛する者を失った重さ。
それでも王として生きねばならぬ重さ。
「お前がそう望むなら……」
ハイネは王冠を頭に戴いた。
「余も、王としての務めを果たそう」
だが、心の中で誓った。
形だけの結婚はしても、心は永遠にセイシロウのものだと。
◆
それから年月が流れた。
ハイネは賢王として国を治めた。
隣国から王妃を迎え、世継ぎも生まれた。
だが王妃への愛はなかった。
敬意はあった。
優しさもあった。
しかし、愛だけはなかった。
月の美しい夜。
ハイネは必ず一人になった。
そして、あの手紙を取り出しては読み返すのだった。
時折、不可解な事件が起きた。
王を狙った刺客が、いつの間にか倒されているのだ。
誰の仕業かは分からない。
ただその剣筋を見ればハイネには分かる。
約束通り、セイシロウが陰から守ってくれているのだと。
しかしハイネは決してその影を追おうとはしなかった。
それがセイシロウの選んだ道ならば、尊重するしかない。
ただ、心の中で呟くのだった。
「ありがとう」
と。
そして。
「愛している」
と。
その言葉が届いているかは分からない。
だが、ハイネは信じていた。
どこかでセイシロウも同じ月を見上げていることを。
それが二人の愛の形だった。
引き裂かれても、なお続く愛の形だった。
(了)