家の外に出ると、イルディオは当然のようにテオの肩を抱き寄せひょいと足裏を掬った。軽々と横抱きにして持ち上げてしまう。驚く暇もなく、イルディオの背中から黒い翼がバサッと大きく羽を広げた。
「つかまってて」
「えっ! あっ、うん!」
ギュッとしがみつくとイルディオはテオに微笑み、空を見上げた。
森の中、枝葉の合間に小さくぽっかり開いた空。真っ青だった空の色はいつの間にか明るい水色になっていた。木々の影に包まれた世界から見上げる空は、天国への入口のように見えた。
「わぁ……」
美しさに目を輝かせた時だった。巨大な黒いシルエットが現れ、テオはヒュッと息を飲んだ。
大きな影が、空を裂くかのように横切っていく。
────まさか
それは全身を銀色の鱗に覆われた怪物だった。
一振りで建物を簡単に壊してしまいそうな棘だらけの長く太い尾。教会の絵本で見たことのあるドラゴンとはまったく違うグロテスクな姿。
無意識にイルディオにしがみつくと、テオを抱くイルディオの腕にも力が入った。
大きなドラゴンの後ろを二回りほど小さなドラゴンが二頭続く。
「まずい」
イルディオは翼を畳むと、
青ざめた表情。まるで吐く息ひとつで、あのドラゴンに見つかってしまうと恐れているようだ。
森でドラゴンたちを難なく倒したイルディオが、恐怖を感じている。テオは動揺しつつ、押し黙っているイルディオを見上げ小さな声で話しかけた。
「……あ、あの……さっきのすごく大きかったね? あれって……」
竜の姿のドラゴン族は教会の本でしか見たことがないテオだったが、すぐに悟った。それでも確かめずにはいられなかった。
「先頭を飛んでいた大きな竜。あれが、ドラゴン族の王だ」
ドラゴン族のことを一番怖がり、意識していたはずだった。でも、いざ目にするとその存在の迫力は想像の域を超えていた。
「あれが、ドラゴン族の……」
テオも言葉を失う。
二人が押し黙った時間はわずか数秒だったが、テオにはとてつもなく長く感じられた。
しばらくして大きな手がテオの背中をそっと撫でる。
いつの間にかイルディオの表情に微笑みが戻っていた。テオの不安を拭うように穏やかな声で囁く。
「もう大丈夫だ。マルゴが心配してるかもしれない。そろそろ戻ろう」
頷くテオの手を引き、イルディオはもう一度用心深く外の気配を確認してテオを抱き上げた。
外に出てみれば、深い森には夜の気配が忍び寄っている。イルディオは頭上を見上げ、テオを抱く腕に力を込めた。
「行くよ」
ボソッと零し、イルディオがタンと太い枝を蹴る。
グンと体が引っ張られる感覚。
もうドラゴン族の姿はないとはわかっていても、テオは警戒するように辺りに視線を走らせていた。そんなテオの頬をふわりと風が撫でる。
耳のすぐそばでイルディオが小さく笑う声が聞こえた。
「テオ、見てごらん」
イルディオに顔を覗きこまれる。
すぐ近くにある整った顔面に、テオの目が泳いだ。
「あそこだよ」
イルディオが見ている方へ視線を向けると、一メートルほど先に大きな鳥がいた。黄金の瞳がイルディオとテオを見ている。
「わぁ、
巨大な鷹をこんな間近で見るのは初めてだ。
翼をゆっくり羽ばたかせ、イルディオが空中に留まる。鷹はバサッバサッと羽ばたき、まるで挨拶でもするように旋回して遠くへ行ってしまった。
「もしかして、友達なの?」
「そう思っているのかもしれない。たまに寄ってくる」
イルディオが嬉しそうに笑う。テオの表情もぱぁと華やぎ、瞳はキラキラと輝いた。さっきまでの警戒心も吹き飛んでしまう。
見たことのない景色、自分の知らない世界にテオの胸は高鳴った。
教会から飛び出して、いくつも新しい世界を見てきたはずだったが、逃げることに必死でその感動に気付いていなかった。
テオはイルディオの腕の中で、改めて世界の広さに気付いたような気持ちになった。
「すごいなぁ~」
言葉が自然と溢れ出る。
「イルディオ、ありがとう!」
テオは目の前に広がる景色と、全身を通り抜ける風を感じながら言った。
「こちらこそありがとう」
「え?」
不思議そうに首をかしげるテオにイルディオが優しく微笑む。
「いつもひとりだった。今日はテオと一緒でとても嬉しい」
「うん!」
その言葉にテオもすごく嬉しくなった。
「広大な森へ沈んでいく空の色が好きなんだ。テオと一緒に眺めたいと思っていた」
イルディオの灰色がかった青い目が揺れる。
微笑みを浮かべた横顔はとても儚く綺麗だった。テオの胸の奥にある静かで透明な水面にさざ波が起こる。
この景色を僕と……。
大きな空と雄大な自然の中、イルディオがひとりで今日の終わりを見つめる姿を想い浮かべた。
美しい光景。でも、先ほどまでの無邪気さはなく、まるで違ったものだった。
テオの鼻の奥がツンとなり、胸がキュウと締め付けられる。
かける言葉が見つからなくて、テオはまた風景に目を向けそっと返した。
「……すごくきれいだね」
深い森はまるで大河のようだった。
西の空が徐々にうすいオレンジ色に変化していく。どこまでも広がる神秘的な光景を見つめ、魅入った。
ふたりは大きな太陽が沈んでいくのを一緒に眺めていたが、真っ赤な空が藍色に変化すると、途端に空気がひんやりしてくる。
テオはいつの間にかイルディオにすっかり身を預けていた。それに気付き意識した途端、イルディオの体温を熱いと感じてしまう。
頬がカァと熱くなったが、幸い日も落ちている。赤くなった顔がイルディオに見えなくてよかったと思っていると、優しい声が降ってきた。
「冷えてきたね。付き合ってくれてありがとう。家へ急ごう」
「うん」
顔が赤くなってしまっていることに気付いてないのかは定かではなかったが、しっかりと抱きかかえる逞しい腕にテオの胸が心地よくキュウと音を立てた。
マルゴの酒場の真上までくると、少し寂しそうにイルディオが言った。
「テオといると自由になれた気がする。なんのしがらみもなく。心のままに生きていいような気がしてくる」
「うん。僕もそう思う。イルディオといるとすごく楽しいし……ずっと一緒にいたいって、思う」
「……会いに行ってもいいか? ちゃんとテオに見える姿で」
「もちろん! ううん、来てほしい。僕もイルディオと……友達になりたい」
突然もじもじと声を潜めるテオに、イルディオは嬉しそうに目を細めた。小さな額にそっとキスを落とす。
「ありがとう。夜は冷える。暖かくしておやすみ」
イルディオの声がやむと、テオの目の前には酒場があった。
もう、イルディオの姿はない。
一瞬だった。いや、違う。まるで夢でも見ていたかのようだった。
額の感触にハッと気づいた時には一人だったのだ。
額に残る感触に触れながら、空を見上げる。
藍色の空には無数の星が静かに瞬いているだけだった。