「んぅ、に……げ……、セ、ス……」
「テオ」
遠くで誰かが名前を呼ぶ。
「テオ」
さっきよりも近くなった声に、テオの目がゆっくりと開く。
見えたのはイルディオの顔。
「イルディ……」
イルディオがホッとしたように微笑み、テオの頬の汗を乾いた布で拭った。
「うなされていたから起こしたよ」
「ああ、うん……ありがとう」
体を起こそうとするのをイルディオが制した。
「いい、そのまま休んでて」
「うん」
イルディオの優しさを感じる度、自分の決心が正解だったのかと気持ちが揺らぐ。セスを思えば、どんどん自信がなくなってくる。
彼は選ぶことすらできなくて、言われるまま輿入れし、酷い仕打ちを受け続け無念の死を遂げた。でも、僕は違う。自ら選ぶことができ、再会したいと願った人からこんなにも優しくされてるんだから。やっぱり、離れたくない……。せっかく友達にだってなれたんだし。
考えていると、イルディオが神妙な顔で言った。
「セスと呼んでいた。何度も」
その表情は聞いていいのか迷ってるようにも見えた。
「えっ……あ、うん。セスの、彼の夢を見ていたから」
「汗びっしょりだ」
イルディオがテオの額を拭う。全身から汗が噴き出したのか、服もひんやりと体に纏わりついている。
「……私が本を持ってきたせいで、セスを思い出させてしまっただろうか?」
「ううん……」
一言だけ返し、テオは目を伏せた。
イルディオはテオの手を握り、静かに囁いた。
「言いたくなければ言わなくていい。どんなことがあったにせよ、私はテオの味方だ。それだけは信じてほしい」
優しく力強い声。握られた手からは確かな温もりを感じる。
あたたかい……。
包まれている安心感。その感覚を求め、手を伸ばしたくなる。
夢は現実に起こった出来事だった。記憶といってもいい。
暗く、衝撃的な過去。
教会を逃げてからずっと、誰にも打ち明けられずにいた。誰かに話すことなど想像すらしていなかった。テオは一生この秘密を胸に抱え、自分の正体を隠して生きていくのだと決めていた。
テオの固く結んでいた唇がわずかにゆるむ。
イルディオになら……。
テオはイルディオを見上げた。青みがかったグレーの瞳が、見守るようにテオを見つめている。真摯な瞳が胸に突き刺さる。
信じたい。
でも、アルファであるイルディにはあまりに酷な現実かも知れない。イルディは悪くないんだもん。
セスの無念も、この悲しみも、孤独も、恐怖も……僕だけで十分。
傷つけたくない。苦しめたくない。
テオはグッと歯を食いしばった。
やっぱり言えない。言えないよ。
「うん……ごめん」
「謝ることはない」
テオを励ますようにイルディオは微笑み、「すぐに戻るよ」と言って部屋から出て行ってしまった。
本当にごめんなさい……。
しばらくして戻ってきたイルディオの腕には新しい洋服が、手にはグラスがあった。
「湿った服では体が冷えてしまう。これに着替えよう」
「ありがとう」
服を渡したイルディオは、すぐにベッドにいるテオへ背を向けてしまう。
あっち向かなくってもいいのに……。
テオの唇がツンと尖った。
友達だよね?
頭ではわかっていても、どうしても湧き出す想い。
僕らはオメガとアルファ。
背を向けるのはイルディオが僕の呪いに当てられない為。そう、僕の為だ。
本当なら部屋からだって出たほうが安全なんだろうけど。そうしないのは、僕を避けてるわけじゃないよって……。
それに、イルディはすごく優しいから、夢でうなされた僕をひとりにさせられないって思ってくれているのかも。
イルディは僕をとても大切にしてくれている。
僕もそれを嬉しいって、ちゃんと感じてるのに……。
テオはイルディオの背中をジッと見つめた。
オメガとアルファ。
僕らってなんなのかな?
もし、オメガでも、アルファでもなかったなら、ちゃんと友達になれたのかも。もっと純粋に。なんでも話せて、なんでも分け合えて、寄り添って、全身でイルディオに……。
テオは自分の思考の矛盾にハタと気付く。
友達……には、なれないのかな?
イルディのことが好きだよ。とっても大事にしてくれてありがとうって思ってる。それなのに、どうしてだろう……こんなに近いのに、そばにいてくれているのに、手が伸ばせない。ううん。伸ばしちゃいけないんだ……。本当は、……僕は、こんなにも飛びつきたいくらいなのに。
テオは拳をつくり自分のこめかみへ静かにゴツンと打ちつけた。
そんなのダメだよ。叶うわけない。友達でいたいんだろ!
今度は両手で頭を抱えた。
あぁ、もう! いったいなんなんだよ。めちゃくちゃだよ。身勝手すぎる。こんなにも心配してくれるイルディに本当のことすら話せないくせに。イルディが優しいからって……結局甘えてるだけじゃないか!
テオはギュッと目を閉じ、小さく口を開いた。イルディオに聞こえないよう、はぁ……と静かに息を吐く。
目を開け、用意してくれた着替えを手に取った。
スルスルと肌の上を滑る真っ白なシルクに袖を通す。
それはサラリとして気持ちがいい。テオの重苦しい気持ちがほんの少しだけ軽くなった。
もう一度小さく深呼吸して、気持ちを切り替える。
「着替えたよ」
素顔に仮面をかぶせ、声をかけた。
イルディオは振り向いて頷き、真紅の液体が入ったグラスを差し出す。
「ワインを温めたものだ。これを飲めば朝までぐっすり眠れる」
グラスを受け取り一口飲めば、喉を通った途端に体がポカポカしてくる。
「美味しい」
「そうだろう」
イルディとの空間はとても居心地がいい。
いつだって優しさと温もりで包まれてるようで、安心する。そばにいると苦しいのに、なんだか矛盾してるよね。
「……ねぇ、イルディ。本、読んでくれる?」
テオはグラスを両手に持ち、小さな子供のようにイルディオを見上げた。
イルディオが右の眉を上げ、フッと微笑む。
「では、隣に座ることを許してもらわねば」
おどけた口調で言い、読みかけの本を手に腰を落として頭を下げる。
「ベッドにいるあなたの隣へ入ってもよろしいか?」
「もちろん。お願いします」
テオの表情は自然と優しい微笑みに変わっていた。体を横へずらし、スペースを空ける。横へやってきたイルディオの足にもブランケットをかけた。
イルディオの右腕とテオの左腕が自然とくっつくと、テオの体はポウと温かくなりキュウッと甘い刺激が走った。
刺激はなぜかテオを戸惑わせることも、不安にさせることもなかった。その温もりを愛おしいと感じていた。
イルディオが表紙をゆっくりめくる。
穏やかな声がテオの耳に響いた。
「では、続きを読もう」
テオは頬をほんのり染め、はにかみながら「うん」と頷く。
「よければ、私の肩を枕にするといい」
思いがけない言葉だった。
いつもなら、ちょっと触れただけでも気を使ってすぐに離れて行ってしまうのに、イルディの方から言い出すなんて……い、いいのかな?
テオはトクントクンと弾む鼓動を感じながら、小さく頷き、遠慮がちにそっと肩へ頭を預けた。チラリと視線を上げてイルディオを見上げる。イルディオはフッと微笑み、ページへ視線を落とした。
温かくて優しい声。
空気を震わせ耳に届く声とは違い、触れ合った場所から聞こえてくる声は、いっそう特別な音に聞こえた。テオの少し早い心音と重なっていく。
くすぐったいような甘い緊張感を噛み締めながら、テオは耳を澄ました。